第十一話
日ノ本の西南(近江、摂津、西国)であれば、をとごろすは風を呼び、その翼を広げる。
寿永三年(一一八四年)正月。のちに「一ノ谷の戦い」へと至る前哨戦であり、同じ源氏でありながら都を荒廃させた旭将軍・木曾義仲を討つ「宇治川・粟津の戦い」
烏の鳴く山(西南の風、宿命の戦場)
境界線の神話、西南の空へ
『をとごろすよ。忘れるな。お前がその翼で飛んでよいのは、日ノ本の西南、地の脈が交わるあの裂け目より西の国々だけだ』
かつて鞍馬の山で長老が下した警告が、をとごろすの耳底にこぐうと響いていた。
地質学的に大地を東西に真っ二つに引き裂く巨岩の境界線。
神話の時代より、東の地は別の古き神々や眷属が支配する領域であり、八咫烏がその境界を越えて東国の歴史に関与することは、天地の因果を完全に崩壊させる大禁忌であった。
(わかってるわ……鎌倉にいるあの冷たいお兄ちゃん(頼朝)のところへは、うちは行かれへん。
でもな、遮那――義経が西へ向かうなら、そこはうちの領分や!)
をとごろすは、いまや立派な大烏へと成長していたが、その魂の根底にある「大和訛りの子供烏」の本質は変わっていなかった。
義経が兄から課される無理難題、兵糧の不足、過酷な進軍ルート。それらを言葉で教えることはできずとも、をとごろすは西南の空の風を操り、常に義経の軍勢の頭上を舞っていた。
「宇治川の水位が、例年になく上がっておるな」
寿永三年一月。京の入り口、宇治川の岸辺で、源義経は黒馬の手綱を握り締めながら呟いた。
対岸には、木曾義仲の軍勢が陣を敷き、川底に逆茂木を植えて防壁を築いている。
雪解け水を含んだ濁流は猛烈な勢いで渦巻いており、とても馬で渡れるような状態ではなかった。
「御曹司、これは流石に無茶にございます! 川を渡ろうとすれば、兵も馬も一飲みにされましょう!」
郎党の弁慶が声を荒げる。
だが、義経には焦りがあった。鎌倉の頼朝からは「一刻も早く義仲を討て」との厳命が下っている。ここで足止めを食らえば、兄からの信頼を完全に失う。
その時、激しい濁流のただ中に、一条の「不自然な風」が吹き抜けた。
――カァッ!!
遙か上空、雲の隙間から、漆黒の影が一直線に急降下してきた。
をとごろすである。
彼は人間たちの目を欺くように灰色の雲をまといながら、宇治川のある一点の、波の静かな水面へと激しく羽ばたきをぶつけた。
「……あそこか」
義経の目が変わった。
彼には分かったのだ。
をとごろすが翼で叩いた場所だけ、川底の岩が風の力でわずかに押し上げられ、水深が浅くなっている。浅瀬(瀬踏み)のありかを、相棒が命懸けで教えてくれたのだ。
「佐々木高綱! 梶原景季! 貴殿らの名馬の力、今こそ見せてみよ! 浅瀬はあそこだ!」
義経の鋭い大声が響く。
宇治川の先陣争いで歴史に名を残す佐々木高綱と梶原景季は、その言葉を合図に、猛然と濁流へと馬を乗り入れた。
をとごろすが陰から操る水流の加護を受け、二騎は激流に呑まれることなく、対岸へと一番乗りを果たしたのである。
粟津の奇跡、主従の最期
宇治川の防衛線を突破された木曾義仲の軍勢は、たちまち崩壊へと向かった。
かつて北陸の「倶利伽羅峠の戦い」において、牛の角に松明を括り付けて平家の大軍を谷底へ突き落とした「火牛の計」という天才的な奇策を用いた旭将軍も、今や時代の奔流に押し流され、近江国・粟津の地へと追い詰められていた。
をとごろすは、その凄惨な戦場を空から見下ろしていた。
「……可哀想になぁ」
をとごろすのクチバシから、ぽつりと大和言葉が漏れる。
義仲の軍勢は、いまや主従わずか五騎にまで討ち減らされていた。周囲は義経と源範頼の大軍に完全に包囲されている。神使の力をもってしても、義仲の命を救うことは因果の天秤が許さない。
だが、をとごろすは見た。
義仲が、生涯の腹心であり、乳兄弟である今井兼平の姿を必死に探しながら、泥濘のなかを彷徨っている姿を。
「兼平はどこだ! 兼平は無事か!」と叫ぶ義仲の声は、悲痛極まりなかった。
そして、別の場所では、今井兼平もまた「我が主君はいずこに!」と、返り血に染まりながら四方から迫る敵兵を切り伏せていた。
二人の距離は、ほんの数百メートル。しかし、立ち込める戦塵と飛び交う矢の雨のせいで、互いの姿は見えない。このままでは、二人は互いの安否も知らぬまま、孤独に討ち取られることになる。
(せめて……最期くらい、一緒におらせてあげてよ)
をとごろすの胸に、かつて鞍馬の山で、遮那王と離れ離れになった時のあの狂おしいほどの寂しさが蘇った。
神話の禁忌? 歴史への介入? そんなものは知ったことか。これは戦の勝敗を変えるための超常現象ではない。ただ、命が消えゆく瞬間の、人間の「魂の願い」を叶えるための風だ。
をとごろすは大きく羽ばたき、戦場に猛烈な「旋風」を巻き起こした。
ごうっ! と吹き荒れた一陣の風が、義仲と兼平を隔てていた視界の戦塵を一瞬にして綺麗に吹き払った。
「――っ! 兼平か!」
「おお、お味方の中に、あれはもしや、我が主君……!」
霧が晴れるように開けた視界の先で、二人の目が劇的に交わった。
主従わずか五騎。
散り散りになっていた二人が、奇跡的に合流を果たした瞬間であった。
「兼平、お前とこうして再び会えた。もはや思い残すことはない」
「御免遊ばせ、これよりは今井兼平の最後の戦、とくとご覧あれ!」
二人が最後の主従の語らいを行い、武士としての壮絶な最期を遂げていく様子を、義経は遠くから静かに見つめていた。
その戦いを見事なりと認めつつも、義経の心には、いつか自分もこのように追い詰められるのではないかという、拭いきれぬ宿命の影が差していた。
義経がふと空を見上げると、一羽の黒い鳥が、寂しげに円を描いて飛び去っていくのが見えた。
「をとごろす……お前が、あの二人を合わせたのか」
言葉はなくとも、義経には相棒の「情」が痛いほどに伝わっていた。




