指が、覚えていた
――風の便り
「里じゃ、あのよそ者二人が通ると、どこの戸もすっと閉まるそうだね」
「うちの火にはあたってったよ。握り飯くらいで、えらく丁寧に礼を言われてね」
「連れのほうは、うちの子の手拍子に、膝の上の指で合わせてたっけ」
「夜更けに山へ上がってったきりさ。釜番の爺さまが、松明を持たせてやったんだと」
山道は、下りのほうが長く感じた。
肩に担いだ楽々森彦は確かにそこにいるのに、重さだけが逃げていく。
片手に松明を持ったままでも、担いで歩けてしまう。
抱え直すたびに、その軽さが腕に残った。
松明の火が爪先の石段をぽつり、ぽつりと照らしていく。
声はかけなかった。
社の手前で名前を訊いたときに、もう思い知った。
こっちの問いは、貼りものの上を滑るだけだ。
答えは、この男が自分で掴み直すまで出てこない。
返せない相手に言葉を重ねても、弱りきった者に追い打ちをかけるだけだ。
橋の下で三年黙っていた石工を思い出していた。
あの石工が戻ったのも、この男が名を取り戻したのも、本人の力だ。
こっちは隣に座っていただけだった。
◇
山道を半ばまで下りたあたりで、足を止めた。
肩の上で揺られるたびに、男の首ががくりと落ちる。
――担いだままじゃ、里まで保たないな。
道の脇の大きな岩の陰に、そっと横たえた。
枯れ枝を集めて、松明の火を分けてやる。
頼りない色ながら、小さな火がちゃんと燃えついた。
隣に、腰を下ろした。
楽々森彦の唇が時おり動く。
声にならない声だった。
「……きびだんご、一つで……鬼退治に、ついてった……」
その一言に、火に足しかけた枝の手が止まった。
初めて会った夜の、あの口上だ。
〈英雄様のお供の犬コロ〉が語っていた、あの台詞。
剥がれたはずの一枚が、裁ち直されて、この男の口を借りはじめている。
「英雄様の、お供の……」
名前を取り戻した男の声で、名無しだった頃の台詞が繰り返される。
聞くに、堪えなかった。
火の粉がひとつ、闇へ昇っていった。
◇
どれくらい経ったか。
火の爆ぜる音に混じって、小さな音が続いているのに気づいた。
楽々森彦の指先が土の上で動いていた。
石段でだらりと下がったままだった指だ。
とん、とん。
間をひとつ置いて、また、とんっと。
見覚えのある拍だった。
暴れた獣を座らせた、あの拍。
馬上の英雄様の足元を叩いた、あの拍。
口は借り物の台詞を繰り返している。
だが指は、あの口上のどこにも出てこない音を律儀に打っている。
口と指が食い違っていた。
借りられているのは口だけだ。
指は、まだ、この男のものだった。
――あんたの指は、まだあんたを覚えてるぞ。
そう教えてやりたかった。
だが教えてしまえば、それは外から渡した物になる。
名前のときと同じだ。
この拍は、本人が自分で拾うしかない。
だから、待った。
火に枯れ枝を足しながら。
枝を置いた自分の手に、目が落ちた。
こっちの手にも、染みついた癖がひとつある。
人に物を渡すとき、手から手へは渡さない。
相手の手の届くところに置いて、退がる。
――いつからの癖だ。誰に、教わったんだか……。
たどろうとすると、毎度おなじところで行き止まる。
その先に何があったのかは、思い出せたためしがない。
一度頭を振って火のほうへ、目を戻した。
◇
枝を二度、三度と足したころ、口上が途切れた。
指の拍に掠れた声が重なりはじめる。
「……一つ。二つ」
うわ言ではなかった。
低く、確かめる声だ。
「三つ。……四つ」
指と、口と。ずれかけては、また揃う。
何度目かで、ひとつの拍に落ち着いた。
左肩の上で、あの薄い一枚が端からはらりと離れていった。
風もないのに、煙のように火影へ溶けていく。
だが――消えきらなかった。
端がひとすじだけ、そこに残った。
土の上の指が、もう一度、拍を打った。
今度は、指の先まで力がこもっている。
「五つ。六つ。……七つ」
「……数えてる」
絞り出すような声だった。
「この拍だけは、誰の口上にも出てこねえ。
……俺のだ。
行軍の合図も、獣を座らせた間合いも、みんな、この指が数えてきた。
名前を失くしてた間も、こいつだけは誰にも借りずに、俺のもんだった」
目の焦点が、合った。
社の手前で滑っていった問いを、もう一度だけ置いてみた。
「あんた、名前は」
「……楽々森彦だ。ほかに、誰がいる」
口の減らない返事に、こっちの息が抜けた。
帰る道を覚えていたのは、この男の指だ。
こっちにできたのは、その道が見つかるまで火を絶やさずにいることだけだった。
楽々森彦はしばらく火を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「なあ、回収屋。
……俺は、あの藪を教えたとき、あいつが何者か、知ろうとしなかった。
いや――知ることから、逃げた。
ただの鬼なら、迷わず討たせられるからな。
あの鬼を、温羅って名前のある相手として見てたら、教えられたかどうか……分からねえ」
火が小さく爆ぜた。
「首の数を数える役ってのはな。
……いちばん、卑怯なのかもしれねえ。
数えるだけで、名前を知らなくて済む」
口は挟まなかった。
語りの席の手柄話とは違う。
誰に聞かせるつもりもない、独り言に近い声だった。
黙って火に枝を足した。
「里の噂を聞いたとき、少しだけ、ほっとした俺がいた。
このまま名前ごと消えちまえば、誰の名も背負わずに済むって。
……でも……それが、いちばん情けねえ」
言い終えて、楽々森彦は長い息を吐いた。
「……やっぱり、あの名前は本人に返しに行きてえ。
そう思える俺が、まだ、ここにいる」
膝に手をついて、楽々森彦が立ち上がった。
足はまだ覚束ない。
それでも、自分の足で立った。
肩を貸すと、今度は、ちゃんと重かった。
人ひとりぶん、きっちりと。
重い、と言いかけて、やめておいた。
◇
山の麓まで下りると、釜番の身内たちの小屋の前に、あの火がまだ焚かれていた。
闇の奥から現れたふたりを見て、握り飯をくれたあの女が目を丸くした。
それから何も訊かずに、筵を広げて場所を空けてくれる。
女の膝では、夕方に手を打っていた小さな子が寝入っている。
礼を言って、楽々森彦を筵に下ろした。
火の向こうに、釜番が座っていた。
足音に顔を上げて腰を浮かせかけ、また座り直す。
短くなった松明の尻を、年寄りの足元の土へ突き立てた。
「借りた灯りだ。助かった」
年寄りは松明に目を落とし、それから楽々森彦の顔を長いこと見ていた。
返事はなかった。
白湯が回ってきた。
楽々森彦は震える手で受け取って、ひと口ずつ、ゆっくり飲んだ。
「ありがてえ……戻ったよ」
「おかえり」
女はそれだけ言って、火に薪を足した。
何があったかは、問わない。
問わないことが、この火の作法らしかった。
こっちのぶんの湯呑みは、女が筵の端に置いてくれた。
楽々森彦の湯呑みはじきに空になったが、こっちのは、まだ手もつけていない。
「回収屋。今夜は、俺の勝ちだな」
――いつから勝ち負けになったんだ。
言い返すかわりに、湯呑みをひと口あおった。
ただ、この温かさは、里までは届かない。
里では今夜も、語り部が鬼を語っているだろう。
剥がれたはずの一枚は、人の口から口へ、機で布を織るようにまた織り直されていく。
左肩の上に残ったひとすじも、そこから引かれた糸に見えた。
里で機が動いている限り、あれは消えきらない。
機は、織る相手を選ばない。
いつか、こっちの背に新しい一枚を織り出しても、こっちには自分の背だけは視えない。
◇
夜はさらに更けて、火のまわりの話し声も途切れた。
火の明かりで帳面をひらき、これまでの調べを並べ直した。
〈柄だけ取り替える金槌。おもての凹んだ平石。
冷えているはずの炉の、熱い灰。問いに答えない、お告げの読み〉。
そして、正反対の二つの社が同じ拍で動いていること。
里の〈首の社〉は、山の唸りを討たれた悪鬼の呻きだと言う。
〈釜の社〉は、同じ唸りをありがたい祟り神のお告げだと言う。
――二つの言い分を、この帳面の前に揃って立たせる。
それが、次の仕事だな。
と――山の方角から、あの唸りが低く届いた。
火を囲む顔がいっせいに伏せられる。
この土地の者は誰もがそうやって、あれをやり過ごしてきたらしい。
だが今夜は、聞く耳が、ひとつ違った。
楽々森彦の首がすっと傾いた。
風を探す、あの角度だ。
膝の上で指が拍を刻みはじめる。
数える顔からは強張りが抜けていた。
「……問いには答えねえ。
かといって、でたらめでもねえ。
同じところを、何度も、同じ順で繰り返してる」
数え終えても、楽々森彦は首をかしげたままだった。
「……いや。ただの繰り返しにしちゃ、妙だ。
行軍の合図なら、拍だけありゃいい。
これは、高くなって、低くなって……」
言われて、耳を澄ましたがこっちには、ただの唸りにしか聞こえない。
だがこの男の指は、拍と一緒に上がって、下がっていた。
「なあ、姐さん」
楽々森彦が、火の向こうの女へ声をかけた。
「あの唸り、上がり下がりは、子どもの頃から同じかい」
「同じさ。あたしの婆さまの頃から、そうだって聞いてるよ」
「夕方、その子が手を打ってたな。
あれも、誰に教わったわけでもねえんだろう」
「生まれつきだもの。誰も教えやしないよ。
教えなくたって、みんな合うのさ」
教えられないのに、合う。
拍が、この土地の子の掌にはじめからある。
「釜番」
楽々森彦が、火の向こうで黙っている年寄りへ向き直った。
年寄りはこっちを見ようとしない。
「あんたが打つ拍は、誰に教わった」
「……親父にだ。親父は、その親父に。
代々、そうしてきた」
「何のための拍か、親父さんは言ってたか」
「……言わなんだ。わしも、訊かなんだ。
何のための拍かなんぞ、誰も知らん」
「知らねえのに、何百年も、欠かさず打ってきたのか」
「そう教わったからだ」
年寄りの声に怒りはなかった。
膝の上の手が、小さく震えている。
楽々森彦はしばらく黙って、指で拍を追っていた。
「……拍ってのは、合わせるもんだ」
「合わせる?」
訊き返すと、楽々森彦は指を止めずに続けた。
「ひとりで打っても、拍にならねえ。
何かに合わせて、はじめて拍になる。
……この土地の連中は、何に合わせてきたんだ」
そこへ、また唸りが来た。
低く、長く沈んで、ゆるやかに持ち上がり、ふっと切れる。
何も鳴らない一拍。
その上で、楽々森彦の指がぴたりと止まった。
あの晩、こっちが金槌を入れたのは、ちょうどそこだった。
「……呻きでも、お告げでもねえ」
言葉を探すように、ゆっくり続ける。
「節だ」
「節?」
「同じ順で、高く、低く。
一節、二節と。……節ってのはな、回収屋。
ひとりでに鳴るもんじゃねえ」
「じゃあ、誰が鳴らしてる」
「節があるなら、唄がある。
唄があるなら、唄ってる誰かがいる」
楽々森彦は、山の闇を見た。
「あの山は、唸ってるんじゃねえ。
……誰かが、唄ってる。
誰にも聞かれねえまま、何百年もだ」
火が、ひとつ爆ぜた。
そう思って聞くと、唸りの底に、確かに、誰かの声がある。
――麓の火のまわりではね、戻ってきた者に、誰も何があったかを問わんそうな。
ただ「おかえり」と言うて、火に薪をひとつ足すんだと。
……戻った者には、それで足りるもんでね。




