身が軽い
――風の便り
「〈首の社〉の語り部の前に、町から来たよそ者が二人いてね。
鬼の話より、膝の音のほうを聞いてたってさ」
「昼からは、山のお告げの列のわきで、何を訊くでもなく聞き耳を立ててたよ」
「連れのほうは、なんだか噴き出しかけて、あわてて口を押さえてたっけ」
「その晩だよ。山の唸りが、ぱったり止んだのは」
「……あんた。
ゆうべ、主さまに、何をしなすった」
釜番の声は低かった。
責める調子ではない。ただ、怖がっていた。
年寄りは切り株のほうへ歩み寄ると、孫をそっと背に庇った。
「打ち返した」
そう答えると、楽々森彦があとを継いだ。
「唸りの間に、金槌を入れた」
釜番の顔から、血の気が引いた。
しばらく、口が動かなかった。
「なんてことを……。
ゆうべのは、打ち急いだだけかと思うとった」
年寄りの目が社の奥へ向いた。
「唸りのあとの、空いたとこへか。
あそこへ打ち返したのか」
「返した。……怖がらせて、すまない。返したら、どうなる」
「知らん。知らんが……代々、あの間は空けたまま打ってきた。
あそこへ打った者はおらん。
火と拍と詫びを欠かすなと、教わったのはそれだけでな。
返すなんてことは、誰も、考えもせんかった。
……あんたが、初めてだ」
楽々森彦が年寄りの後ろの孫へ目をやった。
「その子の手のほかに、何か変わったか」
「今はまだ、それだけだ。
……変わらんでほしい。変わらんでくれ」
その一言に、憎しみは微塵もなかった。
拍も、乱さないようにする。
ゆうべそう言ったのは、こっちだ。
年寄りは孫を抱き上げると、籠を気にも留めず山道を下りていった。
主さまのそばに、この子を置いておきたくないのだろう。
石を蹴ってつんのめっても、足は止まらない。
◇
里へ下りて、三日が過ぎた。
山へは、あれきり上がっていない。
たった一つ打っただけで、あの子の手が止まった。
何が動いたのか分からないうちは、二つめを打つわけにいかない。
山の唸りは、あれから時おり途中でふっと切れる。
あの晩、打ったあとに聞いた切れ方だ。
里にいても、それは聞こえた。
通りを歩けば、行く先々ですっと戸が閉まる。
軒先にいた女が目を合わさないまま、滑り込むように家へ入る。
声を荒らげる者も、追い立てる者もいない。
ただ歩くそばから、道が静かに空いていく。
市の立つ刻限だというのに、青菜を広げる筵も川魚を吊るす軒も、半分は空だった。
呼び込みの声のない市は、市の匂いがしない。
一人だけ、よけない男がいた。
荷運びの太い腕をして、通りの真ん中から動かない。
肩がぶつかる寸前で、楽々森彦が黙って半歩前へ出た。
男は舌打ちひとつで退く。
手こそ出さなかったが、出しかねない目つきではあった。
戸を閉めていく顔も、よけない男の顔も、貼りもの一枚ない素顔のままだった。
噂を撒くだけの者には、何も貼りつかないらしい。
市は早々に抜けて、道を一本折れた。
この三日、昼はいつもの一膳飯屋で取っている。
縄のれんを潜ると、店はがらんとしていた。
店主は水だけ置いて、目を合わせようとしない。
「近ごろ、変な噂が立っとってね。
よそ者が、山の主さまに何ぞかをしたって」
「聞いた」
「聞いたなら……悪いことは言わん。
ほとぼりが冷めるまで、旅にでも出るこったな」
それだけ言うと、店主は奥へ引っ込んだ。
待っても、とうとう飯は出てこなかった。
こっちには貼りつかないはずの言葉が人の口を借りて、こっちの居場所を少しずつ削りはじめていた。
◇
昼餉はあきらめて、里の隅の記録蔵へ足を向けた。
二つの社の来歴を、紙の上で洗い直しておきたい。
蔵のことは、町を出る前に長卓の婆さんから聞いていた。
蔵への道は〈首の社〉の前を通る。
通るたびに、聞き手が増えている。
今日は、語り部の声もいつもより大きい。
「鬼は田を焼き、子をさらった。
夜な夜な、村の灯を狙って山を降りてきた。
あの牙にかかった者は、骨も残らんかったそうな」
筵の銭は、いつもの倍あった。
鬼の目の色、爪の長さ、喰らった数。
語るたびに、鬼の話はひと回りずつ大きくなっていく。
話の切れ目ごとに膝がとんと鳴るのは、前と変わらない。
と、聞き手の何人かがこっちを振り返った。
正しくは――隣を。
「おい、あれが例の」
「英雄様の忠犬を、たぶらかしたって奴かい」
すぐに、別の声が打ち消した。
「違うよ。あれがその忠犬だよ。
名を騙っとるんだと」
囁きは小さかった。
だが、当人の耳に届く大きさではあった。
楽々森彦の握った拳が、白くなっている。
その左肩の上に目をやって――息を呑んだ。
薄いものが、浮いていた。
煙のように薄い、一枚。
まだ形にもなっていないが、確かにそこにある。
剥がれて消えたはずの場所に、新しい一枚が育ちはじめている。
一度貼られた場所には、糊が染みついているのかもしれない。
さっきの囁きからすると、今度のは〈犬コロ〉という古い布を〈忠犬〉に裁ち直したものだろう。
「行こうぜ」
楽々森彦が先に立った。
自分の肩の上のものには、何も気づいていない顔だった。
振り返ると、囁いていた聞き手たちはもう語り部のほうへ向き直っている。
自分の一言が人の顔に何を貼るのか、誰も考えてみたこともないのだろう。
蔵までの道は、ふたりとも口数が少なかった。
◇
里の隅の記録蔵は、湿った紙の匂いがした。
棚の帳面はどれも、この里で書かれたものではない。
よその土地から流れてきた写しばかりだ。
こういう忘れられた書きつけを、どこか遠くの大きな蔵が集めているらしい。
いつか、あの婆さんがそんな話をしていた。
国も時代も知れぬままに、と。
一冊ずつ二人がかりで繰った。
探していたのは、来歴だけじゃない。
あの晩、こっちの一打で唸りは一度止んだ。
唸りを人の手で止めてしまった者は、ほかにいないか。
そんな事が、ほかにも残っていないか。
棚の奥、そこだけ埃の積もり方が違う一角に、帳面が一冊残っていた。
開くと、震えた筆跡が出てきた。
〈唸りは、苦しみだ。黙らせてやるのが、慈悲だ〉
そう書き遺した誰かがいる。
ここの社の話ではないらしい。
ずっと昔、よその土地で、別の主に向き合った誰かだ。
その誰かは書いたとおりにした。
慈悲のつもりで、よその社の主を黙らせた。
結果は、短く一行。
〈それきり、応えは、返らなくなった。二度と〉
名も、場所も、書きかけで途切れている。
最後の一字は線が乱れて、字の形をしていなかった。
あの一行は、自分の帳面へ書き写さずにおく。
かわりに、こう書いた。
〈拾って、磨いて、返す。その手が、優しく黙らせる手と、どこが違う〉
隣で帳面をめくる音が止まった。
楽々森彦が開いていたのは、〈首の社〉の来歴を書き留めた古い帳面の写しだ。
遠くの寺で写されたものが、巡り巡ってこの棚へ戻ってきたらしい。
その指が一行の上で止まっていた。
討たれた者の名を記した、たった一行だ。
「……温羅」
声が、掠れた。
「温羅。そうだ……思い出した。
討ち取れ、と飛び交う声の中に、確かに、この名はあった。
あの戦さ場で、俺は、この名を聞いてたんだ」
誰にも読まれなくなった帳面の中で、名前だけが、生きていた。
◇
記録蔵を出ると、日が暮れかけていた。
里では、何か口に入る見込みもない。
人の目を避けるようにして、里の外れへ歩いた。
山の麓、釜番の身内たちの小屋の前に、火が焚かれている。
里とは別の顔が、そこにあった。
釜番の姿は見えない。
夜の拍を打ちに、山へ上がっているのだろう。
輪の端にいた女がひとり、黙って横へずれる。
「邪魔する」
空いたところへ腰を下ろすと、楽々森彦がいつもの調子で頭を下げた。
「悪いな、火にあたらせてもらうぜ」
返事はなかった。
しばらくは、火の爆ぜる音だけが続く。
やがて、さっきの女が握り飯をふたつ黙って筵の端へ置いてくれた。
「恩に着る」
「俺のぶんまであるのかい。
昼を食いっぱぐれた甲斐があったってもんだ」
ひとつを取って、もうひとつを隣へ寄せた。
女の裾には、小さな子がしがみついている。
釜番の孫より、まだ幼い。
その子が、手を打ちはじめた。
あの拍だ。
ふと見ると、楽々森彦の指が膝の上で同じ拍を拾っていた。
本人は気づかないまま、子どもに笑いかける。
「その手、うまいもんだな」
「うまいも下手もないさ。
あんたの指だって、さっきから合ってるよ」
言われて、楽々森彦が膝の上を見下ろす。
指が子どもの手と同じところで鳴っていた。
「……癖でな。
数える役だったもんで、拍が鳴ると、つい勝手に数えちまう」
小さな笑いが起きて、火を囲む顔が少しやわらいだ。
白湯の湯呑みが回ってくる。
楽々森彦はひと口すすって、少しだけ肩の力を抜いた。
「回収屋。あんたの湯呑み、ちっとも減ってねえな。
……人のこと言えた義理じゃねえが」
「儲からん商売でな。
ちびちびやるのが癖になった」
冗談がひとつ。
だが湯呑みを置くと、楽々森彦の顔から笑いはすぐに引いた。
「なあ。あの蔵で見た名前、本人に返しに行きてえ。
俺が、名前を貰い直した時みてえに」
「返して、どうする」
「どうもしねえよ。
知らねえまま、英雄様に討たせちまった相手だ。
せめて、名前ぐらい、まともに呼んでやりてえのさ」
その言い分は、いつかこっちが口にした商売とよく似ていた。
拾って、磨いて、返す。
だがこの男は、あのとき自分の中にあった名を、自分の口で言った。
温羅の名は、帳面の中にあった。
誰がどんな声で呼んでいた名なのか、それすらこっちは知らずにいる。
名前は、外から着せる物じゃない。
――そう言ったのも、こっちだ。
似ているのに、どこかが違う。
その違いを、このときはまだ測れなかった。
◇
夜が更けてから、山へ登ることにした。
あの一打の晩から、四日目の夜だ。
待てば収まる、という話ではないだろう。
里で名が語られるたび、楽々森彦の肩の一枚は厚くなる。
唸りのほうも、まだ乱れが続いている。
どちらも、こっちの都合を待ってはくれそうにない。
それに、この男はもう返すと決めている。
止めても、ひとりで山を上がるだろう。
出るのは、釜番が夜の拍を打ち終えて下りてくる頃にした。
拍の邪魔は、もうしたくない。
山道の入り口で、上から下りてくる灯りとはち合わせた。
釜番だ。
孫は連れていない。
年寄りはこっちに気づくと足を止めて、深く頭を下げた。
「頼む。社には、もう来んでくれ」
顔を上げないまま、年寄りは続けた。
「あんたらが来てからこっち、拍が乱れとる。
乱れりゃ、絶える。絶えりゃ、止まる。
そうなったら、この土地は……」
言葉は、そこで途切れた。
この年寄りが恐れているのは、鬼でもよそ者でもなく、土地そのものが立ち行かなくなることなのだろう。
守りたいものと言い伝えられた掟が、年寄りの中ではひとつの同じ顔をしているらしかった。
――嘘をついて、引き返すふりはしたくないな。
「頭を上げてくれ。拍には、もう手を出さない。
この男に、返したいものがあるそうだ」
釜番は長いこと黙っていた。
それから手にしていた松明の尻を、こっちの足元の土へ突き立てた。
「……持ってお行き。夜道は、これで足元を照らしな」
「あんたは、どうする」
「わしは、この山なら、目をつぶってでも歩ける」
怖がっている手が、それでも、人の足元の心配をしていた。
「ありがたく、借りる」
返事はない。
年寄りは灯りも持たずに、闇の中へ駆け戻っていった。
◇
夜の社には、虫の声がなかった。
木の葉の擦れる音まで、どこかへ消えている。
石段を照らす松明ひとつが、ときおり爆ぜた。
楽々森彦の足が、左へ逸れた。
石段を一段、踏み損ねる。
一度立ち止まってから、また上がっていく。
その指は、拍を数えていなかった。
火のそばで子どもの拍を拾っていた指が、だらりと下がったままだ。
「大丈夫か」
「今んとこは」
声は、軽かった。
だがその左肩の上で、あの薄い一枚が揺れている。
昼間より、濃くなっていた。
里で聞いた声が、耳の奥で蘇る。
――あれがその忠犬だよ。
名を騙っとるんだと。
剥がしたはずだった。
いや――剥がした。
〈犬コロ〉の一枚は確かに、本人の手で剥がれ落ちた。
だが剥がしたそばから、世間が新しい一枚を織っている。
「俺は、藪を教えた男だ。合図を送った男だ。
……それだけの男が、名前を返すなんて、……生意気なことを」
楽々森彦が呟いた。
自分の言葉が、自分の耳に入っていない声だった。
薄い一枚の端が、頬に貼りつきかける。
声が、先に出た。
「あんた、名前は」
返事は、なかった。
いつもなら、口が先に答える男だ。
その口が、動かない。
こっちの問いは頬にかかった薄い一枚の上をするりと滑って、闇へ抜けていった。
肩を掴んだ。手ざわりはある。
だが、目の前にいるはずの本人が、そこにいない。
――連れて帰るか。
もう一歩、付き合うか。
決めるのは、こっちだ。
社の奥で、唸りが低く長く伸びた。
急かすように。
それが、決め手になった。
社に近づくほど、この男の足は沈む。
今のままで、あの唸りの前まで連れていくわけにはいかない。
「降りるぞ。ほら」
肩から手を離して、腕を取った。
掴んで、引いた。
踏ん張るつもりで入れた力が、どこにも掛からない。
引けた。
引けて、しまった。
松明の火だけが、ふたりの足元を赤く照らしていた。
引けた身体は、人ひとりぶんより、軽かった。
――誰も読まんようになった帳面でもね、写しさえありゃ、書かれた名は残るそうな。
ただ、写しの流れ着く先は、元の土地とは限らん。
……遠い寺の棚で、呼ばれる日を待っとる名も、あるんだと。




