断層
――風の便り
「町のほうから、見慣れない二人連れが来てね。北の山の社へ上がってったよ」
「釜番の爺さまの話じゃ、連れのほうは石垣にすがってたって。
真っ青な顔で、水を飲んでたそうな」
「もう一人は、炉の灰にまで指を入れて、平気な顔だったんだと」
「日暮れに下りてきたときは、二人ともひと言も喋らなかったねえ」
長く語られた者の顔には、噂が一枚貼りつく。
では、正反対の噂が同じ顔に二枚貼りついたら
――その二枚のあいだには、何が挟まっているのか。
きのうは答えの見つからないまま、日暮れの山を降りた。
麓の里で一夜を明かした朝、顔を洗いに井戸へ寄ると女たちが話し込んでいた。
「〈釜の社〉の主さまは、ありがたい祟り神さまだよ。
お告げをくださる。うちの娘も、あれで縁談がまとまったんだ」
釜番の年寄りがいた、きのうの山の社のことだろう。
あの年寄りは、里の衆はみんな唸りを風の音だと思っとる、と言っていた。
風の音に縁談を頼む者はいない。
――あれは、はぐらかしだったか。
朝市の通りを楽々森彦と抜けていくと、軒先でゆうべの酒の残りをやっている男たちがいた。
「〈首の社〉のほうも、ずいぶん人が寄るようになったな」
「あすこはよお、英雄様が悪鬼の首を取った、その……ありゃ、どこまで話したっけか。
おう、その悪鬼を封じた社だってんでよ。
前ぇは、だぁれも寄りつかんかったのによお」
言うそばから男の茶碗の酒が袖へこぼれた。
「山の唸りが近ごろうるさいもんで、みんな怖いもの見たさよ。
語り部の鬼の話が、また上手いんだ」
並べて聞くと、話が二つに割れていた。
どちらも、山で唸っている同じ主の話だ。
〈釜の社〉では祟り神さまとして拝み、〈首の社〉では悪鬼として封じている。
隣で、楽々森彦が口の端をゆがめた。
「首、か。……行ってみようぜ。
あの鬼が、ここでどう語られてるのか、聞いておきてえ」
歩きながら、帳面をひらいた。
〈貼りもの、二枚。それぞれに、社がある〉
町の店の戸口から視た二枚が押し合って軋んでいたのは、このせいだろう。
どちらの一枚にも、毎日それを語り継ぐ社がある。
◇
〈首の社〉は、朝市の通りを抜けた先の木立の中にあった。
社の前に筵を敷いて、語り部が人を集めている。
「鬼は田を焼き、子をさらった。英雄様が、ただ一矢で――」
聞き手が息を呑む。
筵の上には、投げ込まれた銭がいくらか光っていた。
「――封じられた鬼は、今も山の底で唸っとる。
あれは、討たれた鬼の呻きよ」
語り部は話の切れ目ごとに、膝をとんとひとつ打つ。
ひと息おいて、また、とん。
市で釜番の年寄りが膝を打って見せた間合いに、どこか似ていた。
楽々森彦の耳が、その音のほうへ向いた。
聞き手の後ろに腰を下ろし、膝の上の指で同じ拍をなぞりながら、声を落とす。
「……あの戦で、俺が藪を教えて、討たせた相手だ。
だが、あんな里を焼く化け物じゃなかった。
攻め上がる道々、焼けた里なんぞ、ひとつも見なかったぜ」
「顔を、覚えてるのか」
「いや。討ち取った首の数は、数えた。
数える役だったからな。
……だが、あいつがどんな声で、何を話す奴だったのか。
討たせておいて、何ひとつ知らねえのさ」
語り部の顔にも、薄い貼りものが一枚あった。
だが、端はぴたりと貼りついている。
人の話ばかり語って、自分の話は口にしない男なのだろう。
語られる顔と本人とが重なったままなら、布は擦れず、綻びもしない。
「あの語り部は、罪かい」
と楽々森彦。
「さあな。
たぶん、あの男も、自分の話を誰かに聞いてもらったことがないんだろう」
◇
里で昼をすませて、〈釜の社〉への山道を登り直した。
祟り神さまのお告げも、この耳で確かめておきたい。
町からは半日がかりの道も、麓の里からならひと登りだ。
きのう石垣に手をついた楽々森彦は、今日は深く息を吐いただけで登りきった。
日は、まだ高い。
境内では釜番の年寄りが鉄くずを選り分けていて、孫はきのうの切り株で手を打っている。
こっちに気づいた年寄りが「おや、また来なすったか」と笑った。
きのう早く降りろと追い立てた顔とは違う。
社の前に参詣の列ができているからだろう。
「主さまは、お告げをくださるとか」
「そうともよ。作柄も、嫁取りも、みんな聞きに来なさる」
ちょうど、参詣の女が社の奥へ問うていた。
「今年の麦は、どうでしょう」
唸りは、同じところを同じ間合いで繰り返すだけだった。
それを釜番が「豊作のお告げだ」と訳してやる。
次の男が「倅の病は」と問うても唸りは同じで、釜番がまた訳した。
その次は、年かさの女だった。
「うちの嫁様のへそ曲がりは、いつ直るかね」
唸りはやはり同じだったが、釜番はすまし顔で訳した。
「明日の朝には、けろりと直るそうな」
並んだ者たちから小さな笑いが起きた。
釜番の読みは、そこだけやけに滑らかだった。
楽々森彦が耳もとでささやく。
「俺もひとつ、行く末を訊いてみるか」
「豊作だと言われるぞ」
楽々森彦は噴き出しかけて口を押さえた。
列がはけてから、年寄りに訊いた。
「さっきの唸りは、どれも、おんなじだったが」
「あれを、わしが読んでやるのさ。
長年やっとると、分かるようになる」
――読んでやる。
答えているのは唸りではなく、この年寄りのほうだ。
供物の棚には団子でも銭でもなく、きのうから気になっていた金槌が載っている。
「妙なものを供えるんだな」
「代々のならわしでね。柄が古びると、取り替える」
「柄だけ、か」
「頭は、そのまんまよ。ずっと、そのまんま」
柄の手で握るあたりだけが、黒く艶を帯びていた。
何度も、何度も握られた跡だ。
供えておくだけの物なら、握りはしない。
棚の隣の平石も、おもてが凹んでいた。
同じ所を数え切れないほど打った跡だ。
封じた鬼の話にも、拝む祟り神さまの話にも、金槌を握って打つ者は出てこない。
それなのに、金槌はこの棚に載っている。
二つの話は食い違ったまま、ここでぶつかっている。
渡し場からの帰り道で、楽々森彦が崩れかけた土手を指して教えてくれた語がある。
土の筋が途中で食い違った所を、そう呼ぶのだと。
――断層だ。
年寄りが鉄くずの山へ戻ってから、社殿の正面へ回った。
閉じた扉の向こうに、きのうの二枚の貼りものが視える。
間近で見ても、中身は読めない。
貼りものに宛てた言葉は、貼りものが受け取る。
長卓で帳面に書きつけた理屈だ。
――なら、二枚のどちらも言っていないことを聞かせたらどうなる。
試しに、扉の奥へ声をかけてみた。
「あんたは、鬼じゃないだろう」
片方の一枚が、拝まれたときのようにわずかにこっちへ寄った。
祟り神さまの一枚だろう。
鬼ではないという言葉を、祈りとして受け取ったらしい。
次は、どちらの話にも出てこない金槌のほうから呼んでみる。
「ここで、鉄を打ってた人だろう」
今度はもう片方が、ぴしりと揺れて撥ねつけた。
悪鬼の一枚が「世迷い言を」と言っている気配だった。
二枚が重なっていると、どう呼びかけてもどちらかが先に受け取ってしまう。
奥の本人には、届かない。
日が傾くと、釜番が鉄くずの籠を下ろしてこっちを見た。
「今日は、降りなさらんのかね。
じきに足元が見えんようになるよ」
「遅くまで、すまないな。その金槌を使うところを、見ておきたい」
年寄りはしばらく黙って、ため息をついた。
「……見るだけなら、好きにしなされ。
帰れと言うて帰るお人らでもなさそうだ。
わしは、今夜も打たにゃならんでね」
社殿の軒下に荷を下ろして、暗くなるのを待った。
◇
あたりが暗くなると、釜番は炉の灰をかき起こして火を入れた。
きのう「……さあて」とはぐらかした火は、やはりこの年寄りが入れていた。
炎が立つと、供物の棚から金槌を取って平石の前に座る。
石のくぼみへ、こつんと打ちつけた。
――おうん。
社の奥から、唸りが返ってきた。
こつん、おうん。
そのあとに何も鳴らない一拍がある。
こつん、おうん。
また、何も鳴らない一拍。
「返事を、してるように見えるが」
「まさか」
釜番は手を止めない。
「主さまに、返事なんぞ。
ただ、火を絶やさぬよう、拍を欠かさぬよう。
詫びを、欠かさぬよう。そう教わってきた。代々な。
絶やせば、止まる。
それだけでさ」
楽々森彦の耳が動いた。
行軍の合図を、数えていた耳だ。
「回収屋。
この拍……昼間の、〈首の社〉の語り部の膝と、同じだ。
俺には分かる。数えてきたからな」
〈首の社〉で封じ、〈釜の社〉で拝む。
その両方で同じ拍が打たれているなら、二つの話ははじめから別々のものではないらしい。
「それにな」と楽々森彦。
「打って、唸りが返って、そのあとに一つ空いてるだろう。
合図なら、あんな間はいらねえ。
わざわざ一つ空けるのは、向こうの返しを待つときだけだ」
言われてみれば、空いている。
そこへ、誰かの返事が入るはずだったみたいに。
釜番は、その一拍を空けたまま打ち続けている。
昼に扉の奥へかけた言葉は、二枚のどちらかが先に受け取ってしまった。
だがこの間へ打つ音なら、どちらの一枚にも宛てずに済むかもしれない。
奥まで届く道があるとしたら、ここだけだ。
「一度、貸してくれ」
年寄りは手を止めて、手の中の金槌へ一度だけ目を落とした。
それから渋々、平石の上へ置いて膝ひとつぶん退がる。
「……一つだけだで。
打ってみりゃ、返事なんぞ無いと分かりなさる。
分かったら、この山のことは忘れてくだされ。
拍は、乱さんでな」
「返事が無いと分かったら、忘れる。
拍も、乱さないようにする」
一礼してから、柄を取った。
艶びたへこみが手のひらにぴたりと吸いつく。
年寄りの手のぬくもりが、まだ残っている。
ずしりと重い。
何代もの手が、この鉄の頭を振り下ろしてきたのだろう。
いまはそこに、釜番の頼みまで載っている。
平石の前に膝をついて、構えた。
耳だけでは、拍は数えられない。
だが、唸りが途切れるのは分かる。
はじめのおうんは、打たずに見送った。
伸びて、細って、ふっと切れる。
何も鳴らない一拍は、思ったより短い。
次のおうんが来た。
今度は、打つ。息を止めて、柄を握り直す。
おうんが細って、切れた。
そこへ、振り下ろした。
こつん、と石が鳴る。
その音が、社の奥の闇へ細く尾を引いていく。
手首から肘まで、じんとしびれた。
しびれが引くより先に、音のほうが消えた。
唸りが、止んだ。
虫の声も炉の火の爆ぜる音も、いっぺんに遠のく。
山じゅうが、耳を澄ませたようだった。
釜番は膝に手を置いたまま、息を詰めている。
こっちも金槌を石に当てたまま、息を吐けずにいた。
長い長い間のあとで、唸りが戻ってきた。
釜番の肩が、少しだけ下りる。
だが、さっきまでの唸りとは違った。
ゆるく深く、ためらうように伸びて、途中で一度切れてはまた伸びる。
切れるたびに、こっちの次の一打を待っているように聞こえた。
なぜ変わったのかは、分からない。
変わったのは、こっちが一つ打ってからだ。
――もう一つ打てば、何かが返ってくるのだろうか。
だが今度の唸りは切れる所がまちまちで、こっちの耳では次に打つ間が拾えない。
それでも、金槌を持ち上げた。
釜番が腰を浮かせる。
唸りが細っていく。
ここだ、と振り上げたとたん、また伸びた。
振り下ろしかけた手を、宙で止める。
次は待ちすぎた。
切れ目は、息を吸ううちに過ぎていた。
構え直しても、もう耳がついていかない。
握ったままの金槌が、さっきより重かった。
「俺なら、数えられる」
楽々森彦が、金槌へ手を伸ばした。
その手が、柄に届く手前で止まった。
「が……この手は、あいつを討たせた手だ」
伸ばした指を、握り込んだ。
こっちも金槌を平石の上へ戻して、退がった。
釜番は黙ってそれを取り、もとの間合いで打ちはじめる。
唸りもしばらくは途切れ途切れに伸びていたが、やがていつもの間合いに戻っていった。
その晩は、社殿の軒下で眠った。
◇
明くる朝、軒下で荷をまとめていると、切り株のほうでとん、とんと手を打つ音がした。
釜番が、もう孫を連れて登ってきていた。
打っているのは孫で、その手は唸りに少しもずれない。
籠を提げた年寄りに、訊いてみた。
「その子は、いつから、それを」
「生まれつきでさ。
この土地の子は、みんな」
年寄りは籠を提げ直して、炉のほうへ歩いていった。
楽々森彦は孫の手を見ていたが、やがて自分の膝を打ちはじめた。
とん、とひとつ。
ひと息おいて、また、とん。
きのう筵の上で見た、語り部の打ち方だ。
孫の手とその膝が、同じところで鳴る。
目で見れば、こっちにも分かる。
手を止めずに、楽々森彦が言う。
「生まれつき、か。……あの語り部も、この里の生まれだろうな。
あいつの膝だって、誰に習ったもんでもねえ」
「悪鬼を封じた話を、〈釜の社〉と同じ拍で語ってるわけか」
こっちがそう返すと、膝を打つ手が止まった。
「本人は、知らねえだろうけどな」
この土地では鉄を打ち、拍を打つ。
釜番は、主さまに返事なんぞしないと言った。
だがここの手は代々、唸りに合わせて打ち続けてきた。
――それは、返事とどこが違うのか。
帳面をひらいた。
書く手が、少し遅れた。
封じられた鬼の呻きなら、聞き流せばいい。
ありがたいお告げなら、ありがたく聞けばいい。
どちらの話も、唸りに返事をしろとは言わない。
〈貼りもの、二枚。二枚とも、同じことを言っているように見える
――返事は、いらない、と〉
帳面を閉じたとき、朝からいつもの間合いだった唸りが、ふいに変わった。
ためらうように伸びて、途中で一度切れる。
孫の手がその切れ目でとんと鳴った。
唸りの無い所で、手の音だけが浮く。
「ずれた」と楽々森彦。
「あの子の手だ。唸りから、半拍」
孫は自分の両手を見下ろして、それきり打たなくなった。
きのうも今朝も、少しもずれなかった手だ。
背後の炉のほうで、鉄くずの籠が音を立てて落ちた。
振り返ると、釜番の年寄りがこっちを見ている。
会ってから一度も見せなかった、笑っていない顔だった。
「……あんた。ゆうべ、主さまに、何をしなすった」
――この里はね、鬼ひとつで、二通りに賑わっとる。
麓じゃ、鬼がおっかないほど投げ銭が飛ぶ。山じゃ、主さまがありがたいほど、お告げを乞う列が延びるそうな。
……この先は、言えない。決まりでね。




