手も足も出ない
――風の便り
「北の社の主が拍を刻んで唸るって、塩売りが言ってたろう」
「隣の卓の客が回収屋を物騒呼ばわりしたら、婆さんが筆の先を向けてね。
店じゅう大笑いさ」
「次の日は市で、ひっくり返った大籠を回収屋が起こしててね」
「三日あとに楽々森彦が日に焼けて戻ってきてさ。
回収屋と、何やら長いこと話しこんでたよ」
社へは楽々森彦に付き合うことにして、日取りは本人に任せてあった。
こっちから急かすつもりはなかった。
その話をした晩に店の戸口から北の闇を見ると、社のあたりに貼りものが二枚視えた。
勢いで踏み込んでいい場所ではないことは、遠目にも分かった。
帳面には、その晩のことを一行だけ書いてある。
〈貼りもの、二枚。継ぎ目が軋む〉
それ以上は書きようがなかった。
四日目の朝、店の長卓で楽々森彦のほうから話を切り出された。
「行こう。今日、行く」
「決まったか」
「決めたわけじゃない。
ずっと決まってたのを、今日、口にしただけさ」
目に迷いはなかった。
ただ、湯呑みを持つ手だけが少し強張っていた。
身支度は軽くした。
帳面と竹筒の水を荷へ入れていると、店主が握り飯を二つ包んだ竹の皮を長卓の端へ置いた。
「山道は腹が減るからね。ひとつずつ持っておいき」
「助かる。昼が楽しみだ」
包みを荷の口へ押しこんだ。
今日は何が唸っているのかを突き止めに行くわけじゃない。
社をこの目で見てくるだけだ。
◇
朝のうちに町を出て、北へ半日歩いた。
町の喧騒が背中で薄れると、道の両脇に畑が続く。
畑が切れた先の山の麓に里があり、家並みの端を回ればあとは山裾の細い坂ばかりになった。
楽々森彦は迷いのない足取りで先に立った。
「詳しいな」
「一度、来たからな」
こともなげに言う。
「頼みに行く前にさ。
自分の足で見てからでないと、格好がつかないだろう」
「見て、どうだった」
「……分からなかった。何ひとつな」
それから道の脇を顎でしゃくった。
「前に来たときは、この辺で草鞋の紐が切れてな。
片足だけ裸足で登るはめになった」
「そりゃ、難儀だったな」
「難儀なもんかい。
あの英雄様のお供で行軍したときは、三日三晩、履かずに歩いたぜ」
――裸足で張り合われても困るな。
少し歩いて、楽々森彦がふと足を止めた。
「そういや、あの祠の矢な。
ありゃ、誰が供えたんだろうな」
心当たりはなかった。
首を横に振ると、楽々森彦も「だよなあ」とだけ言ってまた歩きだした。
軽口はまだ出たが、坂がきつくなるにつれて途切れがちになった。
木立が濃くなり、鳥の声が減る。
風が変わった。
土の匂いに焦げたような匂いが混じりはじめる。
坂の上のほうで、何かが低く唸っていた。
あの晩に町で聞いたときより、音がずっと太い。
見上げると、木立の切れ間に社の屋根がのぞいていた。
市の通りから霞んで見えた、あの屋根だ。
坂を上りきると、柱の苔むした古い鳥居が傾いて立っていた。
潜って境内へ入ったところで、楽々森彦の足が止まった。
荒れてはいるが、社殿はちゃんと建っている。
その脇に、場違いなものが積まれていた。
黒く焼けた石と、灰の山。
供物の棚には、金槌がひとつ載っている。
――金槌を供えるなんて話は、聞いたことがないな。
隣で楽々森彦の息が浅くなっていた。
坂を上ってきた息では、なかった。
こっちが一歩踏み出すと、足の下でざくりと硬い音がした。
しゃがんで指で掘ると、黒い粒が出てくる。
摘まんでみると、小さいのにずしりと重い。
この山の土には、鉄が混じっているらしい。
境内の奥の崩れかけた囲いの中に、黒く煤けた穴がある。
炉の跡らしい。
打ち捨てられて見えるのに、まわりの土だけが妙に黒々としている。
灰もまだ新しかった。
「これだ」
楽々森彦が炉の縁を指さした。
指さすだけで、囲いの手前から動こうとしない。
「前に来たときも、灰は新しかった。
討たれた鬼を祀るだけの社に、なんでこんな物があるのか。
……そこから先が、どうしても分からなかった」
祀るだけなら、供物と祈る場所があればいい。
炉はいらない。
まして、火は。
囲いをまたいで、灰へ指を入れてみた。
指の腹にまだ熱が残っている。
鼻の奥に焦げた匂いが刺さった。
炭と、土と、もうひとつ。鉄の匂いだ。
舌の裏に血によく似た味が湧いた。
――誰かがいまも、ここで火を入れている。
指の灰を払って顔を上げると、社殿の脇に積まれた灰の山の陰で、年寄りがひとり鉄くずを選り分けていた。
その背中に見覚えがあった。
市の通りでひっくり返った籠を起こしてやった、あの釜番だった。
そばの切り株に小さな子どもが座って、唸りが来るたびにぴたりと合わせて両手を打っている。
市で年寄りが話していた孫だろう。
「や、また会ったね、回収屋さん。
市の衆が、あんたをそう呼んどったでね」
「精が出るな」
「歳をとっても、仕事は減らんでねえ」
年寄りは笑って腰を伸ばした。
楽々森彦へちらりと目をやってから、また手もとへ向き直る。
「炉の跡だろう、あの穴は」
年寄りの手が、止まった。
切り株のほうでは、子どもの手だけが同じ間で鳴りつづけている。
ほんの一拍で、鉄くずを選る手はまた動きだした。
さっきより少し速い。
「昔からあったもんさ。誰も気にしとらんよ」
「灰が、まだ熱い。
誰かが、いまも火を入れてる」
年寄りの手は止まらない。
こっちを見ないまま、掌の鉄くずを籠へ落とす。
かん、と軽い音がした。
「回収屋さんは、耳がいいねえ。
里の衆はみんな、あの唸りを風の音だと思っとるよ」
答えではなかった。
褒めてみせて、こっちの問いも籠へ落としてしまう。
「そういえば、いつぞやの荷は、助かったよ。
ああいうのはね、若い衆でも腰をやるでね」
「籠を起こしただけだ。腰、大事にな」
そう返して、もう一度訊いた。
「火を入れてるのは、あんたか」
「……さあて」
年寄りは籠を担いで立ち上がった。
まだ半分も選り分けていない籠を、だ。
孫の腕を掴んで、切り株から下ろす。
「日のあるうちに、降りなさるこったね。
この山の夕暮れはね、足元から来る」
孫の手を引いてこっちの脇をすり抜け、坂のほうへ歩きだす。
その背中は、早く帰れと言っているように見えた。
こっちの問いには、なにひとつ答えないまま。
――言われて帰る柄でもない。
社の裏手へ回ると、唸りが近くなった。
落ちて、間があって、また落ちる。
「速い」
楽々森彦が唸りのほうへ耳を向けた。
顔つきが硬い。
「前に来たときより、速い。
……行軍でもな、合図の拍が速まるときは、決まってる。
急がせるときだ」
その声に覚えがあった。
長卓で藪の話を語り直した夜の声に、よく似ている。
行軍の合図を数えてきた耳は、拍にだけは誰より敏いのだろう。
「合図の拍じゃない」と楽々森彦。
「もっと重い。……何かを、鳴らしてる拍だ」
次の一歩で楽々森彦の足がもつれ、よろけてそばの石垣に手をついた。
額に汗が浮いていた。暑さの汗ではない。
目の焦点が社の奥へ吸い込まれていく。
この社の底には、何代もの人が信じてきたものが溜まっているのだろう。
何が溜まっているのかは、視えない。
視えないまま、そこにある。
それが、楽々森彦の足の裏から這い上がっているらしかった。
膝が、本人の意思とは別のところで沈みかけている。
誰かに引かれているのなら、まだいい。
引いている手を探せばいいだけだ。
これには、探すべき手がどこにも見当たらない。
目を戻すと、楽々森彦は石垣に手をついたまま動けずにいた。
名を取り戻して、まだひと月にもならない。
その足で立つには、この社の底は深すぎた。
だがこっちが立っているのも、同じ土のはずだった。
爪先で足元の土を蹴ってみると、土くれがころりと転がって、坂道で踏んできたのと同じ手ごたえが返ってきた。
踏みしめても、掴まれない。
息も、乱れない。膝も、沈まない。
いつもそうだ。
この身には、何も起きない。
だから、隣で見ているしかない。
いや。
何も起きないのではなく、起きても気づかずにいるだけなのかもしれない。
この身に触れているものを、起きていることを、こっちだけが、知らずにいるのだとしたら。
「大丈夫か」
「……いや。すまん」
楽々森彦は自分の手を見ていた。
細かく震える指先をもう片方の手で押さえたが、震えは止まらない。
こっちの荷から竹筒を出して、石垣の上の手の届くところへ置いた。
楽々森彦はしばらくそれを見てから、栓を抜いてひと口飲んだ。
「平気だ。行こう。……ちょっと、脅かされただけさ」
「三日三晩、裸足で歩いた男がか」
「……それとこれとは、別口さ」
竹筒を石垣へ置いて、無理に笑ってみせる。
その笑い方は、名前の書かれた湯呑みを受け取った晩とは少しだけ違っていた。
◇
社殿の壁に沿って正面へ回り、閉じた扉の前に立った。
その奥に、何かがいる。
視えるのは、顔だ。
世間が語ってきた分の、もう一枚の顔。
それが扉の板を透かして、こっちへ浮き上がって視える。
二枚、重なっている。
板の向こうで、二枚は見ているあいだじゅう押し合っていた。
目を凝らしても、そこに何が描かれているのかまでは視えない。
――おかしい。
本人と食い違った顔には、どこかに綻びが出る。
端が浮いて、めくれかける。
これまで拾ってきた顔は、みんなそうだった。
そこから先は本人の仕事だが、こっちはその端を見つけてやれた。
どちらも本人と食い違っているなら、綻びは二枚ぶんあるはずだ。
だが、この二枚には、めくる端がない。
どちらも、もう片方に押さえつけられている。
端を探すのをやめて、もう一度二枚を見た。
押さえつけ合う分だけ、二枚とも落ちずに済んでいる。
押し返された端が、また相手を押さえる。
取り合っているように見えて、そのじつ、互いを立たせている。
待っていても、端は浮きそうになかった。
ただ、押さえ合う二枚のあいだには、どちらのものでもない継ぎ目が一本通っていた。
あの晩に町から視えた軋みは、たぶんここから来ている。
端は無い。あいだは、ある。
手が入るとすれば、そこだけだ。
◇
日が山の端にかかるころ、年寄りの言ったとおり木立の足元から暗くなりはじめた。
鳥居を潜って坂へ出たところで、下から声がかかった。
「火はね」
見ると、年寄りが坂の少し下に立っていた。
籠を担いだまま、こっちを見てはいない。
「絶やしちゃいかんのさ。理由は、聞かされとらん。
ただ――絶やせば、止まる。
それだけは、代々、言い伝わっとる」
「止まる。何が」
「さあねえ」
同じ「さあ」でも、さっきの「……さあて」とは響きが違っていた。
「荷の礼だよ。わしが知っとるのは、そこまでさ」
年寄りはそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
籠ひとつ起こした礼にしては、重たいものを置いていかれた。
◇
里へ向かって坂を下りながら、楽々森彦は長いこと黙っていた。
半分ほど下りたところで、前を向いたまま口を開いた。
「俺は、あの英雄様に藪を教えた。
合図も送った。あの勝ち戦に、俺も手を貸した」
「知ってる。あの晩、ちゃんと聞いた」
楽々森彦は足を止めて、坂の上の社のほうを振り返った。
「知らないだろ。……俺たちが何を討ったのか、俺は、いまだに知らない」
声は震えていなかった。
震えていたのは、さっきの手のほうだ。
「次は、もっと近くまで行く。
今度は、知らんままじゃ帰らない」
「転ぶなよ」
「……ああ」
それきり、ふたりとも前だけを見て坂を下りた。
あの継ぎ目の軋む音だけが、ずっと背中についてきた。
あの二枚で、まだ塞がっていないのは、その音のする一本きりだ。
【今日の一物 金槌】
金槌は、打つための道具である。
打たれる物と、打つ者がいて、はじめて意味を持つ。




