手を合わせる
――風の便り
「朝っぱらから、回収屋がひとりで北の古い道へ入ってったよ」
「その晩、犬コロの新顔が長卓で『あれは俺がやった』って言い切ってね。
車座がひとりずつ『聞いたよ』って返したら、やっと名乗ったんだと」
「婆さんの棚にゃ、楽々森彦って湯呑みがひとつ増えてるよ」
「北の社の主がね、このごろ、よう唸るんだと」
ある晩、旅の途中で店に寄った塩売りが椀の湯気へ向けてぽつりと言った。
誰に聞かせるふうでもないのに、長卓のざわめきがそこだけ薄くなった。
その話なら半月ばかり前にも聞いている。
名を取り戻して店を出ていく男が、戸口で言い残していった。
討たれたはずの鬼が社のど真ん中に祀られて、今も唸っている――。
そう、あの晩は、それきりだった。
それが今夜はまるきり別の口からこぼれてきた。
箸を置いて、塩売りのほうへ向き直る。
「主って、討たれた鬼のことかい」と川漁師。
「祟りじゃなけりゃいいがねえ」と店主。
「昔から唸ってるよ、あの社は」と、別の客が続けた。
塩売りは首を振った。
「昔とは、唸り方が違うんだと。
近ごろのは、何かを数えるみたいに、拍を刻んで唸るって」
拍を刻む、という言葉が耳に引っかかった。
獣でも人でも唸るときに拍まで数えはしない。
その引っかかりを隣の卓の客が別の話で押しのけた。
声を落として店主のほうへ身を寄せ、こっちを顎でしゃくる。
「なあ。あれが噂の回収屋かい」
「回収屋がどうかしたかい」と店主。
「よその土地で聞いたのさ。
よそ者が一人、英雄様の忠犬をたぶらかして、ありもしない名前を騙らせたとよ。
人の在り方をいじくる、物騒な手合いだと」
妙な話だった。
名前なら本人が自分の口で取り戻した。
こっちは隣で聞いていただけだ。
だが、こっちを名指す声は昔から乗らない。
糊のきかない紙みたいに、貼ろうとしても、するりと剥がれて落ちるきりだ。
少なくとも、目に映る場所へは。
落ちた話が、そのあとどこへ行くのかは知らない。
ただ、それを拾う者がいることは知っている。
拾って、焚きつける。
焚きつけられた者が、そのうち言葉では足りなくなるのを、よその土地で、一度だけ見たことがある。
「うちの回収屋を、物騒呼ばわりするんじゃないよ」
婆さんが筆の先を隣の卓へ向けていた。
「当人の居ないところで、当人のことをああだこうだ。
あたしゃね、それが一等きらいなんだ。
この人は、落とし物を拾って持ち主に返すだけの人さ。
あんたの分も、いつか拾ってやるかもしれないよ」
どっと笑いが起きる。
婆さんがちらりとこっちへ目をよこしたので、「助かった」とだけ返して頭を下げた。
――借りがひとつ増えたな。
噂はそれで流れた。
流れたように見えた。
だが店を出るとき、戸口の暗がりで、二人ばかりが顔を寄せて囁いていた。
こっちの背中へ、ときおり目をやりながら。
昔はなかったことだ。
見られているのは、背中だ。
そこだけは、こっちからも視えない。
◇
次の日は朝から市に用があった。
人の流れが詰まっていると思ったら、通りの真ん中で大籠がひっくり返っていた。
塩の袋と鉄くずが道に散らばって、そばで年寄りがひとり途方に暮れている。
籠の縁に手をかけて起こすと、見た目よりずっと重かった。
年寄りは腰を伸ばしてのんびり笑った。
「や、すまんねえ。
歳をとると、籠のほうが重うなってな」
散らばった鉄くずを拾って籠へ戻しながら、訊いた。
「重い荷だな。どこまで運ぶ」
「北の社さ。釜の番をしとってね。
灰やら鉄くずやら、運び屋みたいなもんでよ」
北の社と聞いて、拾いかけた手が止まった。
「その社の主が、近ごろよく唸るって聞いたが」
「よう知っとるねえ。唸るとも。
夜も昼もなしさ」
年寄りは困った風もなく、孫の自慢でもするみたいに目を細めた。
「けどねえ、何も怖いもんじゃないよ。
うちの孫なんぞ、唸りに合わせて手を打って遊んどる。
昔っからの、あの子らの癖でね」
「合わせて?」
「そうさ。こんなふうにな」
自分の膝を掌で打ってみせる。
ぽん、とひとつ鳴らして、ひと息おいてまた、ぽん。
「妙なもんだろ。ただの唸りのはずが、なぜだか、手が合っちまうのさ」
合っちまう。
――でたらめな音には、手は合わない。
「近ごろは、その拍が変わったとも聞いたが」
「ああ、それな」
年寄りははじめて少しだけ笑いを引っ込めた。
「変わったというか……せかせかしてきた、というかね。
何かを探しとるみたいだと、若い衆は言うとるよ。
……まあ、気のせいさね」
気のせい、と言うときだけ、年寄りの声はやけに軽かった。
――どこかで聞いた軽さだ。
猿のことを「数合わせさ」で流していたころの楽々森彦も、ちょうどこんな話し方をしていた。
礼だと言って、籠から鉄くずをひとつ選んで握らせようとする。
「社へ届ける荷だろう。そっちで使ってくれ」
押し返すと、「欲のないお人だねえ」とまた笑って北へ籠を担いでいった。
揺れる籠の先、ずっと北の低い山の中腹に社の屋根がひとつ霞んでいた。
ここから見るかぎり、どこにでもある屋根に見える。
それでも、目が離せなかった。
◇
三日たっても、市の通りから見た社の屋根が頭の隅に居座っていた。
その晩、長卓に車座がそろってまもなく、閉めた表の戸がもう一度開いた。
夜風といっしょに、聞き覚えのある軽口が転がりこんでくる。
「よう、回収屋。達者かい」
楽々森彦だった。
半月あまり前、消えた一字を彫り直しに、北の古い道の祠へ出かけていった。
顔は前より陽に灼けて、背筋がまっすぐ伸びている。
「変わりない。そっちは、ずいぶん焼けたな」
「お天道さまの下を歩き回ってりゃ、こうもなるさ」
婆さんはもう棚の端へ手を伸ばしていた。
腹に『楽々森彦』と書いた湯呑みを、迷いもせずに下ろして長卓へ置く。
「おかえり。空けといたよ、あんたの席」
「留守を頼んでたわけじゃないんだがね」
言いながら、まんざらでもない顔で席に着いた。
「彫れたのか、名は」
「彫ってきたぜ、森の字をな。
石が硬くて往生したが、まあ、俺の字だ。
下手でも文句は言わせない」
言って、両の掌をこっちへ向けた。
潰れて固まった豆の跡がいくつも並んでいる。
その手をしばらく引っ込めなかった。
「……硬い石だったんだな」
「おうよ。のみの先を二度も欠かしたぜ」
得意げに鼻を鳴らして、男はようやく手を膝へ戻した。
二杯目の白湯が注がれて車座がひとしきり温まったころ、楽々森彦がふと声を落とした。
「なあ。あんたにひとつ頼みがあって戻ってきたんだ」
「頼み」
「この町でも、あの鬼の唸りの話を聞いた。
北の社で今も唸ってる、あれさ」
男は湯呑みを口の手前で止めたまま、続けた。
「思い出しちまったんだ。
名前といっしょに、ぜんぶな。
あの戦で、俺は英雄様に藪を教えた。
合図を送って、勝たせた。
……けど、石を彫りながらいくら思い出しても、討った鬼のことは何ひとつ出てこない。
はなから知らなかったんだ」
語尾が少し掠れた。
「そいつが、なんで社のど真ん中で拝まれて、今も唸ってるのか。
誰に訊いても、知らんと言う。
みんな知らんまま拝んでる。
それが、どうにも寝覚めが悪くてね」
名の書かれた湯呑みの縁を指でなぞる。
「だから行くのか」
「ああ。あの社へ。
あんたが一緒なら、心強いんだが」
「拾ってもらった礼に、仕事をひとつ持ってきたってわけか」
「そんな上等なもんじゃないさ。
知らんまま放っとけないってだけだよ」
犬コロの顔で喋っていたころとは違う、本人の声だった。
「頼みって顔じゃないな。
あんたが行きたいんだろ」
楽々森彦は湯呑みを置いた。
空いた掌を開いて豆の跡を眺め、その手をゆっくり握った。
「そうさ。俺が、行きたいんだ」
行きたいと言うときも、目は白湯へ落ちなかった。
まっすぐこっちを向いている。
「なら、付き合う。
市の通りから屋根を見て、こっちも気になってたところだ。
日取りは、あんたに任せる」
「そうこなくっちゃな」
湯呑みを取り直して、うまそうに白湯をすする。
「ひとつ訊いていいか」
「なんだい」
「名前は、どこから戻った」
男は首をひねって、少し考えた。
「……訊かれたから、だな。
あんたに風の向きを訊かれて、口が先に答えた。
思い出したのは、そのあとだ。
あれを訊かれなかったら、犬コロのまんま、どこかで仕舞いだったろうよ」
そうか、とだけ返した。
勘定なら半月前の戸口でもう済んでいる。
「ところで、その英雄様はいま、どこに」
訊くと、楽々森彦は少し黙った。
「知らないのさ。戦が済んだら、ぷつりとね。
……あの人の話なら、いくらでもできるのに」
湯呑みの縁をまた指でなぞる横顔を、黙って見ていた。
この男の貼りものには、めくれる端があった。
名前ひとつ忘れていただけで、剥がす端は本人が持っていた。
社のほうは店の客が「昔から」と言うほど長く唸っている。
――たぶん、そんな端の探し方では済まないだろう。
そのことはまだ胸にしまっておいた。
長卓の向こうで、双子の樽職人がまた何か言い合って、川漁師を笑わせている。
車座がお開きになって、戸口まで楽々森彦を送った。
半月前にも、この戸から送り出している。
戸を引いて、表へ一歩出た。
虫の声が、あの晩より減っていた。
「じゃあな、回収屋。また来る」
「足もと、気をつけてな」
「誰に言ってるんだい」
笑ってから、男は北の闇を指さした。
「社は、あの辺りさ」
それだけ言って、夜道を帰っていった。
指さしていた先に、あの低い山がある。
三日前には市の通りから、その中腹に屋根が霞んで見えていた。
夜のいまは山も屋根も闇に溶けて、何も見えない。
それでも、視えた。
長く語られた分だけ濃く滲むのなら、あれは、こんな遠くまで届くほど濃い。
その方角の闇に貼りものが浮いている。
世間に語られてきたもう一枚の顔だ。
楽々森彦の顔にも半月前まで一枚重なっていた。
だが、これは一枚じゃない。
二枚、あった。
互いに食い違って重なり、片方の端が浮けば、もう片方が押し返す。
継ぎ目が、ぎしぎしと軋んでいるのが、こんな遠くからでも視えた。
――貼りものが、二枚。
どういう理屈でそうなるのか、見当もつかなかった。
そのとき、山のほうから風に乗って、低い唸りがひと筋、届いた。
途切れてはまたひと筋。
唸りが、ふっと止んだ。
止んで――こっちを、見た気がした。
【今日の一物 灰】
灰は、燃えたあとに残るものである。
何が燃えたのかは、灰を見ただけでは分からない。




