風向きが変わる
――風の便り
「昼の渡しで、杭のそばに突っ立ってる男がいたろう。
英雄様のお供の犬コロだって名乗ってた新顔さ」
「回収屋に声を掛けられて、来た舟には乗らずじまいだったよ」
「日暮れには二人して土手の道を戻ってきてね。
新顔が先に立って、ぬかるみをひょいひょいよけてくんだ」
「夜の長卓じゃ、鬼退治の話ならいくらでも出てくるんだよ。
それが、自分の話をって言われたとたん、黙りこんじまったんだと」
「伏兵の潜んだ藪だけ、必ず先に射抜くんだ」
男の語る英雄譚を聞くたびに、いつもそこで引っかかった。
――道から見えないはずの藪の中の伏兵を、いったい誰が見つけたのか。
次の日の朝、北の渡し場から古い道をたどった。
英雄様の行軍が通ったという道で、いまは草に半分呑まれて荷車ひとつ通れない。
昨日の帰り道で男に教わったとおり、色の濃い草を避け、土の筋が食い違う所を避けて歩く。
道草の知恵とやらも、なかなか役に立つ。
藪はいくつもあった。
坂にかかるまでの道の右に左にと、似たような藪が五つ六つ並んでいる。
どれも人ひとりなら楽に隠せる。
道の真ん中に立ってみても、どれも同じに見える。
伏兵が中に居るのか居ないのか、外からは何ひとつ見通せない。
英雄譚のとおりなら、英雄様はこのうちの一つへ矢を放って、ほかには目もくれなかったことになる。
勘で射れば、外れた藪からは鳥が立つ。
そんな話はあの英雄譚に一度も出てこない。
誰かが教えたのだ。
一つずつ裏手へ回ってみた。
三つめでそれを見つけた。
膝の高さの、石の祠だった。
苔に沈んで、屋根の角が丸くなっている。
供え物の受け皿に、団子や銭はなかった。
かわりに古い矢が一本、布を敷いた上に丁寧に横たえてあった。
通りすがりの気まぐれの置き方じゃない。
誰かが敬う相手に手向けた置き方だ。
――矢はお供の獣に供える品じゃない。
祠の台座には名前が彫ってあった。
字は四つあるが読めたのは三つで、上から三つめのひと字だけがまるごと磨り減って消えている。
指でなぞると、そこだけがつるりと平らになっていた。
帳面には読めない一字を空けたまま写した。
この空白を自分の名前として埋められるかもしれない者が、ひとり頭に浮かんだ。
ゆうべの車座で藪のくだりにかかったとたん、首を傾けた男がいる。
できるのは、席へ誘って、問いをひとつ置くことだけだ。
◇
その夜も男は長卓に来た。
表の戸が閉まって白湯が回る。
婆さんが筆を舐め、双子の樽職人と川漁師が膝を寄せた。
男がこの車座に座るのも、これで三晩目になる。
「今夜も語れとは言わないよ」と婆さんが先に言った。
「白湯を飲みに来るだけでも、座ってりゃ席の内さ」
「……すまないね。今夜も英雄様の話しか、持ち合わせがないんだ」
「なら、それを聞くよ」と川漁師。
こっちも、今夜はその英雄様の話に用がある。
男は少し気楽になった顔で語り出した。
門の話をして握り飯の話をして、それからいつものくだりへさしかかる。
「極めつけはやっぱり弓さ。
伏兵の潜んだ藪だけ、必ず先に――」
「今日、その藪を見てきた」
男の口が、止まった。
「北の古い道の、坂の手前。
両側から藪が被さってる所だろ。
道の真ん中に立ってみたけど、中は何ひとつ見えなかった」
「……そりゃ、英雄様の勘が」
「風は、どっちから吹いてた」
問いはそれだけにして、湯呑みを引き寄せた。
待つ沈黙の作法なら、ゆうべこの車座に教わった。
男の首が、すっと傾いた。
風を探す、あの角度に。
「……下からだ。夕方は谷から吹き上がる。
風下は藪の側で、匂いはこっちへは来ない。
来ないから、鳥を見るんだ。
ねぐらへ入るはずの鳥が、あの藪だけ避けて飛んだ。
虫の音も、あそこだけ切れてた。
ああいう藪には、中に、居るんだよ」
男は自分の言葉を追いかけるように喋っていた。
左肩の上で、貼りものの端がふわりと浮いた。
ゆうべと同じ端が、今夜は浮いたまま下りてこない。
「教えるんだ。馬の上の英雄様の足元を、こう、とん、とん、と叩いて。
二つなら右の藪、三つなら左。
それだけで英雄様は外さない。
あの人は、教えた的だけは絶対に外さないんだ」
男の指が卓の上で拍を刻んでいる。
獣を座らせた夜と同じ拍が、湯呑みを持つこっちの手にまで伝わってきた。
言い切ってから、男は自分の指を見た。
長いこと、見ていた。
「……おかしいな。犬は、そんな芸当」
婆さんが静かに言った。
「あんたの話だよ。ここは、あんたの話を聞く席だ。
みんな、そのつもりで座ってる」
「樽の話より、よっぽど聞きたいね」と双子の片割れ。
「四年でも待つよ」と、もう片割れ。
「いまの風だの鳥だのは、もう英雄様の話じゃないだろう」と川漁師が笑った。
男は車座をゆっくり見回した。
急かさない笑顔が灯を囲んで並んでいた。
男の口が開いて、閉じて、もう一度開いた。
「……あれは、英雄様の勘が」
いつもの言い方が、先に口から出た。
声はそこで掠れて、落ちた。
男は湯呑みを掴んだ。
飲まずに、ただ掴んだ。
目が白湯の面へ下りかけて、途中で止まった。
「……違うな」
男は顔を上げた。
「あれは……俺が、やった」
左肩の上で、貼りものの端が大きくめくれた。
「藪を読んだのは俺だ。
風を訊いたのも、鳥を数えたのも、馬の上のあの人に合図を送ったのも、ぜんぶ俺の手だ」
ひとつ言うたびに、貼りものの別の端が浮く。
浮いた所が、肩の上から頬へ、頬から額へと広がっていく。
「英雄様の勘なんてものは、ありゃしない。
あの藪の前に居たのは、俺だ。
俺が、あの人を勝たせたんだ」
婆さんが、言った。
「聞いたよ」
聞いた、聞いたよ、と車座がひとりずつ声を重ねていく。
証人の立つ音は、思いのほか静かだ。
藪の話は、とうとう床へ落ちなかった。
本人の手が、最後まで掴んでいた。
そして、貼りものが剥がれた。
男の顔に重なっていた〈英雄様のお供の犬コロ〉のもう一枚が、端という端まで浮ききって、はらりと落ちる。
床へ届く前に、灯の明かりの中で煙のように解けて、消えた。
あとには、はじめからずっとそこにあった男の素顔がひとつ残った。
犬の顔でも、猿の顔でもない。
藪の前で風を読んでいた男の、それだけの顔だ。
男は喋り続けていた。
堰を切った、というのとは違う。
涸れていた川筋に水が帰ってきたように、ゆっくりと声が満ちていく。
焼け落ちる砦の熱を語り、雉の姐さんが空から敵を報せるときの妙な癖を語る。
握り飯を差し出すときの英雄様の左手のことも、涙が出るほど甘かったきびだんごのことも次々に口からこぼれてくる。
ひと息ぶんの長さで男の人生が卓の上を流れていって――ふ、と止まった。
「……なんで俺は、忘れてたんだろうな」
思い当たることがひとつだけあった。
初めて会った夜に猿のことを訊くと、男は数合わせだと言って片づけた。
そう言うときだけ、声がやけに軽かった。
「猿の話を、やめただろ」
「……ああ」
男はしばらく黙って、それからゆっくり言った。
「最初は、謙遜のつもりだった。
手柄は英雄様のもの。
家来が自分の働きを語るのは、忠義に欠けると思ってた。
だから誰かに猿はどうしたって訊かれるたび、数合わせさ、で流した。
そのうち、どの話からも猿が消えた。
……消して回ってたのは、俺だ。
俺が、俺を消してたのさ」
だから、口を添えた。
「語られなくなった席は空く。
……空いた所に何が入り込むのかまでは、知らなかったんだろ」
「残ってた余りものが、犬コロの顔だったってわけかい。
吠える係ってのは、語りやすいからねえ。
犬のとこの下っ端、なんてのも、いつから言い出したんだったかな。
……はっ。安い理屈だぜ、まったく」
男は笑おうとして、失敗した。
婆さんが筆を構え直して、男の湯呑みを引き寄せた。
「で。新顔さん、あんた、名前は」
二晩前とおなじ、軽い問いだった。
男は目を閉じ、長い息をひとつ吐いた。
「――ささもりひこ」
目を開けて、男ははっきり言い直した。
「ささもりひこ。それが、俺の名前だ」
「どう書くんだい」
「楽の字をふたつ、森に、彦。
……楽々森彦だ」
婆さんの筆が動く前に、口を挟んだ。
「北の古い道の、藪の裏に祠があった」
帳面は開かなかった。
字の並びなら、もう覚えている。
「石に、あんたの名前が彫ってあった。
矢が一本、大事に供えてあった。
団子じゃなく、矢をだ。
……ただ、四つの字のうち、上から三つめだけが磨り減って消えてた」
男が顔を上げた。
「……俺の名が、彫ってあったのか」
それだけ確かめるように呟いて、それから続けた。
「――森だ。石から消えてたのは、森の字だ」
白い湯呑みの腹へ、四つの字が並んでいく。
森の字が書かれるところで、男が小さく呟いた。
「……矢、か」
それだけ言って、また黙った。
石が忘れていた一字まで、筆はためらわずに埋めた。
男は長いこと自分の名前を見ていた。
それから湯呑みを取った。
この二晩、注がれた高さから一度も減らなかった白湯を、ひと息に底まで干した。
空になった湯呑みへ、婆さんが新しい白湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気が、湯呑みの腹に書かれた名前をゆらゆらと撫でていった。
夜が更けて車座が解けると、戸口で男が待っていた。
「勘定を聞いてないぜ、回収屋」
「拾って、磨いて、返した。
返す先は最初から決まってた。
……代金は大根でいい」
「豪商が聞いて呆れるね」
男は笑って、それから笑いを引っ込めた。
「あんたが居なかったらさ。
俺は俺の名前を、一生、よその話の隅に置きっぱなしだった」
「戻したのは本人だろ。こっちは隣に座ってただけだ」
「その隣にさ」
男の声は静かだった。
「今まで、誰も座らなかったんだよ。
……ありがとうよ、回収屋。
今度のは、上っ面を滑らなかったぜ」
受け取った側にしか分からない払いっぷりだった。
大根より、だいぶ高い。
「明日、祠へ行ってくるよ。
消えた一字、彫り直してくるさ」
「道案内は要らないな。あんたのほうが詳しい」
「戻ったら、席で語るさ。今度は頭から、俺の話をな」
男は戸のほうへ向きかけて、そこで足を止めた。
「あんたはさ。誰かに、拾ってもらったことは、あったのかい」
答えるかわりに、戸を開けてやった。
夜気がひやりと入ってくる。
男はそれ以上は訊かなかった。
ただ去りぎわに、ふと北のほうの闇へ目をやった。
「……名を思い出したついでに、厄介なことも思い出しちまった。
あの戦で討たれた鬼な。
討たれたあとで、なぜだか社のど真ん中に祀られて、今も唸ってるらしいんだ。
……考えてみりゃ、俺はあの戦の相手の顔も名も、何ひとつ知らないんだ」
鬼の話はそれきりだった。
男は北の闇から目を戻すと、片手を軽く上げて出ていった。
その背中は、来た夜より少しだけ大きく見えた。
足音が闇の向こうへ遠のくまで、戸は開けたままにしておいた。
戸を閉めて振り返ると、長卓では婆さんが男の湯呑みを棚へ上げていた。
棚には常連の名前が書かれた湯呑みが並んでいる。
その端に、書きたての『楽々森彦』がひとつ加わる。
名無しの湯呑みは、もう、この店にない。
【今日の一物 棚】
湯呑みは、名が書かれて初めて棚へ収まる。
棚に並ぶまでは、誰のものとも決まっていない。




