間が持たない
――風の便り
「夜更けにね、あの回収屋さんが連れに肩を貸して、山から下りてきたんだよ」
「連れのほうは、白湯をすすって『戻ったよ』だと。いったい、どこまで行ってたんだか」
「釜番の爺さまは、返された松明の燃えさしを見たきり、ひと言もなかったねえ」
「そのあとさ。山の唸りを、誰かが唄っとるなんて言いだしたのは」
昨夜のうちに、麓の火のそばで釜番に話は通してあった。
二つの言い分を社の前に揃って立たせる、と。
金槌も、そこで借り受けた。
夜の拍を打ち終えると、このところは社に置かずに持ち帰っているのだという。
夜明け前に楽々森彦と里へ下りて、〈首の社〉の前で語り部を待った。
あの語り部は、いつも朝市より先に来て筵を敷く。
やって来た語り部に、借りてきた金槌を見せた。
柄より頭のほうが、ずっと古い。
「なんだって、こんなものを」
「あんたの話が、これを説明できるか。
今から、確かめに行く」
「正しいに決まっとる。代々、そう語り継いできたんだ」
語り部はそう言いながら、敷きかけた筵をそのままにしてついてきた。
道々、銭の袋をときおり握りしめている。
正しさを確かめたいのか。
それとも、自分の語ってきた話の行く末を見届けずにいられないのか。
――たぶん、両方だな。
麓へ戻ると、釜番が支度を終えて待っていた。
孫と、握り飯をくれたあの女もいる。
「わしも、行く」
声は震えていたが、足はもう山を向いていた。
「ゆうべ、何のための拍かと訊かれて、わしは何も答えられなんだ。
……あの朝、この子の手が止まった。
あれを見てしもうたら、もう知らんふりはできんでね」
「その子は、置いていったほうがいい」
こっちがそう言うと、釜番は首を振った。
「この子の手も、あの拍を打っとる。
知らんまま置いてはいけん」
横から女が孫の手を取った。
「爺さまは、主さまのほうで手いっぱいになるだろうさ。
守りは、あたしがするよ」
そう言って、先に石段のほうへ歩き出した。
◇
石段の途中で、楽々森彦の息が変わった。
釜番と女、手を引かれた孫は平気な顔で上っていく。
生まれてからずっと、この山で暮らしてきた者の足取りだ。
語り部も里の男で、息が荒いのは上りのせいらしい。
こっちの足元にも、何も起きない。
ただの石段だ。
こたえてるのは、楽々森彦ひとりだった。
膝が一度沈みかける。
ゆうべはだらりと下がっていた指が、拍を刻んだ。
膝が持ち直した。
「大丈夫……数えてりゃ、平気だ」
誰に言うでもなくそう呟いて、先へ上っていく。
夜の石段を踏み損ねた足取りとは、もう違った。
◇
社の前に皆で立った。
供物の棚に金槌を戻す。
隣には、おもての凹んだ打ち台の平石がある。
炉の灰は今日も、まだ熱い。
灰の底に、赤い芯が残っている。
「この金槌は、なぜここに供えてある。
どっちの話に、その理由があるか」
語り部も、釜番も、答えなかった。
封じた鬼に、道具はいらない。
拝む神に、打ち台はいらない。
柄だけが何度も替えられ、頭は古いまま残っている。
使い続けてきた者がいる証だけが、そこにあった。
どちらの話にも、この金槌の居場所がない。
語り部が進み出た。
金槌からは目を逸らしたまま、社の奥へ顎をしゃくる。
「……あれは、討たれた鬼の呻きよ。
服従の証、それだけのこと」
楽々森彦が静かに返した。
「……俺は、数える役だった。
呻きに、拍はいらねえ。
数えられて、節のついた呻きが、どこにある」
語り部の口が、止まった。
助けを探すようにあたりを見回したが、今日は聞き手がいない。
銭を投げる筵もない。
声だけが行き場をなくして、残った。
釜番が、女に預けていた孫の手を引いて進み出た。
「うちの社のは、お告げだ。
訊けば、答えてくださる」
同じ唸りのことだ。
片方は呻きと言い、片方はお告げと言う。
呻きは答えないが、お告げは答える。
同じ唸りが両方であるはずがない。
だから、問いを置いた。
「呻きなのか、お告げなのか。
……いつもどおり、何か訊いてみてくれ。
それで分かる」
年寄りが社の奥へ向き直った。
「主さま。今年の麦は、どうでございましょう」
唸りが答えた。
いつもと同じ節だった。
いつもなら、ここで釜番が読んでやる。
豊作だ、と。案じなさるな、と。
年寄りは口を開けて、そのまま閉じた。
皆の目が、その口に集まっている。
もう一度開きかけて、また閉じた。
長年読んできた男が、いちばん先に知っていた顔だった。
あれは答えちゃいない、ということを。
社の扉の向こうで、二枚の貼りものが軋んだ。
悪鬼の一枚と、祟り神さまの一枚。
押し合うことで互いを立たせてきた二枚が、支えを失って傾く音だった。
金槌はまだ供物の棚にあった。
楽々森彦が手を伸ばす。
こっちが間へひとつ打ったあの晩も、この男の手は柄の手前で止まった。
あと指一本。そこから先へ動かない。
「……この手は、あいつを討たせた手だ」
低く言って、それでも今度は握った。
柄の艶びたへこみが手のひらに吸いつく。
その目が、こっちへ来た。
拍には、もう手を出さない。
ゆうべ山道の入り口で、釜番にそう言ったのはこっちだ。
答えるかわりに、年寄りのほうを見た。
釜番はしばらく、その手の金槌から目を離さなかった。
「……打ちなされ。わしには、もう読めん」
こっちの手は、下ろしたままにした。
楽々森彦へ、頷いてみせる。
――拍を読むのは、あんたの耳の仕事だ。
唸りが低く伸びて、ふっと切れる。
何も鳴らない、あの一拍が来た。
そこから、討たせた手が打ちはじめた。
こつん、こつん。
間をひとつ置いて、もうひとつ。
手を止めずに、楽々森彦が呟いた。
「……藪を報せたときと、同じ数だ」
唸りが、止んだ。
息をひそめたのは、山だけではなかった。
語り部も、釜番も、孫の手さえ、その先を待っている。
やがて、唸りがまた低く鳴りはじめた。
さっきより少し長く伸びたが、あの一拍の手前で、やはり切れる。
楽々森彦が、もう一度、同じ拍を打った。
今度は、低い音がその拍をなぞって、ゆっくりと上がり、下りてきた。
打っては、待つ。
唸りが返す。また打つ。
返ってくる節は、そのたびに長くなった。
同じところを繰り返すだけだった音が、うねって、連なって、ひとつの唄の形を取りはじめている。
あの「間」は、もうどこにもなかった。
釜番が代々空けたまま打ってきた一拍だ。
そして――唸りの奥から、声が来た。
「……その打ち方」
低く、掠れて、長く使われずにいた喉から出るような声だった。
語り部の手が銭の袋の口を握り込んだ。
声は途切れずに、先を継いだ。
「あの戦で、藪の外から聞こえてた……合図の拍だ」
楽々森彦の手の中で、金槌の頭が下がった。
それでも、逃げなかった。
「……ああ。俺だ。
俺が、数えて、あんたを討たせた」
唸りが長く、低く伸びた。
とがめる声でも、許す声でもない。
ただ、確かめる声だった。
楽々森彦は金槌を握ったまま、動かない。
釜番は喉が塞がっている。
語り部は銭の袋を落とした。
拾う手も出ない。
この場で二つの話のどちらにも立っていないのは、こっちだけだった。
さっき語り部と釜番に置いたのと同じように、今度は社の奥の声へ問いだけを置いた。
「その唸りは、誰に向けたものだった」
「…………民に、だ」
釜番の手が孫の肩の上で止まった。
奥の声は、低いまま重ねた。
「俺は、この山で鉄を打つ民の、頭領だった」
釜番の口が、開いた。
何も出てこないうちに、閉じた扉の向こうから、次の声がした。
「……釜番、お前さんも、その子も、その民の末だ」
釜番が孫の手を強く握った。
握った手が震えている。
「……なんで。なんで、わしらには、何も」
「言えば、おまえらが庇う。
庇えば、おまえらも同じ目に遭う」
答えは間を置かずに返ってきた。
「戦に負けた頭領が名を残して死ねば、また旗印に担がれる。
次は、民ごと根を絶やされる」
声はそこで一度切れた。
年寄りの目が、そばの子へ落ちる。
「だが、名も物語もない唸りになっちまえば、祟りよけに祀っておくだけで済む。
民は、鉄を打つ手として、この土地で生きていける。
……そういう勘定だった」
楽々森彦の喉から、声にならない音が漏れた。
炎の立っていない炉の上を、社の奥の声が低く這った。
「きれいな理由だけで、選んだわけじゃねえ。
守るために、よその土地とも、ずいぶん争った。
血も、流させた」
誰も口を挟まなかった。
長い間のあとで、閉じた扉の向こうから、もう一度声がした。
「名も、物語も、自分から捨てた。
……それでも、選んだのは、俺だ」
声はすぐには続かなかった。
灰の底で熱がひとつ、小さく鳴った。
「ただ、あの拍だけは、手放さなかった。
誰にも聞かれなくても、あれだけは、俺の唄だ」
少し間があって、声はまた低く続いた。
今度はこっちへ向けた言葉ではなかった。
「――打て。打て。
火を絶やすな。
一つ、二つ。
親も、こう打った。
三つ、四つ。
子も、こう打つ。
五つ、六つ。
手を止めるな。
七つ、八つ。
息だけ継げ。
九つ。
数は、俺が数えてやる――」
鉄を打つ者へ向けた、仕事唄だった。
数百年、誰にも唄とは知られないまま、山の底で唄われ続けていた。
唄が、ふつりと止んだ。
孫の手が宙で止まった。
灰の底の赤い芯が、すっと痩せた。
灰の色に近づいていく。
誰も動かない。
動けばそれを最後に、火が絶えてしまう気がした。
「……絶やせば、止まる」
釜番の声だった。
孫を抱き寄せ、炉に向いていたその頭を胸へ押しつけた。
楽々森彦の手から、金槌が落ちた。
打ち台の上で、きんと高い音が鳴る。
「……俺が、拍を止めたからか」
赤い芯が、また一段痩せた。
落ちた金槌へ、こっちの手が伸びかけて、止まった。
――ひとりで打っても拍にならない、か。
ゆうべこの男が言ったとおりだな。
だが、この場の誰もあの唄の続きを知らない。
とん、とんと。
鳴ったのは、孫の手だった。
祖父の腕の中で、いつもの拍をいつものように打っている。
生まれつき、そうしてきたとおりに。
釜番が目を見開き、孫の手を見た。
しばらくして釜番が腰をかがめ、落ちた金槌を拾った。
柄を握り直す手がまだ震えている。
それでも、打ち台へこつんと打ちつけた。
孫の拍に、遅れずに。
楽々森彦が社に向かって頭を下げた。
「温羅。……呻きでも、お告げでもねえ。
あんたの唄だ。俺が、聞いた」
――唄を聞いてから呼んだ名なら、外から着せたことにはならないな。
女もそばで手を打って、孫の拍に合わせた。
語り部はしばらく動かなかった。
それから背を向けて、石段を下りかけた。
が、数歩で止まる。
戻ってはこなかった。
ただ、少し離れた石段に腰を下ろし、筵の上でしていたのと同じに膝を打った。
銭にはならない。
ならないが、ピタリと拍は合っていた。
唸りに、いくつもの拍が重なっていく。
灰の底の芯に、赤い色が戻りはじめた。
何代ものあいだ、誰も返事とは知らずに打ち返してきた唄に、初めて、土地の手が揃った。
温羅の声が、その中で鳴った。
今度は、はっきりと、拍を刻んで。
「――止めやしねえ。
この拍は、おまえらに、返す唄だ」
二枚の貼りものが、支え合っていた重みを失った。
片方ずつ、はらりと落ちるのではなかった。
押し合っていた二枚が、同時に力を抜いた。
継ぎ目という継ぎ目が緩んで、崩れて、熱い灰の上へ落ちて、そのまま溶けて消えた。
語り部の顔から、語りの調子が抜け落ちている。
明日から何を語ればいいのか、その顔にはまだ何も浮かんでいない。
ただ、膝を打つ手だけは止まらずにいた。
銭のためではない拍を、この男は、いつのまにか打っていた。
社の奥の気配は、もう押し合っていなかった。
ひとりぶんだけが、そこに残っている。
その拍の中で、楽々森彦がふいに膝をついた。
目が遠くを見ている。
「……熱いな。……鉄の、匂いだ。
……誰かが、名前を、呼んでる」
うわ言に近い、途切れ途切れの声だった。
ひと息ぶんだけ続いて、それきりになった。
誰の熱なのかまでは、こっちには視えない。
肩を支えると、楽々森彦は首を振って、自分の足で立った。
その左肩の上に残っていたひとすじは、ひどく薄くなっている。
それでも、消えてはいなかった。
里の機は、今も動いている。
唄がひと区切りついて、拍がひとつずつ止んだころ、釜番が炉の灰を見つめたまま口を開いた。
「お告げが聞けんようになったら……麦の作柄は、どう読みゃええ」
温羅の声が答えた。
「自分らで、決めろ。
……今までも、そうだったんだろう。たぶん、な」
釜番はしばらく黙って、それから小さく笑った。
困った顔の、笑いだった。
「絶やせば、止まる。
……それも、もう掟じゃのうて、わしらが決めることだ」
「止めるのか」
こっちが訊くと、釜番は首を横に振った。
「止めん。だが、詫びのためじゃのうて、唄うためだ。
……そう思うと、詫びで打っとった頃より、この手は軽い」
孫はまだ拍を打っている。
生まれつきの、あの拍だ。
釜番はその頭を、そっと撫でた。
「この子の手も、もう詫びる手じゃない。唄う手だ」
社の奥から、声がひとつ、こっちへ向いた。
「……初めの晩、間へひとつだけ、打って寄越したのは。
……お前さんか」
「……ああ」
◇
その夜、語り部が麓の火の端まで来た。
輪の外でしばらく立っていたが、女が黙って横へずれると、そこへ腰を下ろした。
語り出したのは、鬼の話ではない。
銭にもならない、短い身の上話だ。
「親父も、その親父も、〈首の社〉の前で鬼を語ってきた。
おれは、教わったとおりに喋ってきただけでね」
誰も急かさなかった。
「膝を打つのは、物心ついたころからの癖でな。
……誰に習ったのかは、おれも知らん」
楽々森彦がちらりとこっちを見てから、白湯をひとつ語り部へそっと差し出した。
こっちは何も語らなかった。
語る話も、返す拍も、持ち合わせていない。
ただ隣に座って、聞いていた。
今夜は、それで十分だった。
◇
明くる朝、楽々森彦がまだ麓の小屋で眠っているうちに、里へ向かった。
握り飯をくれたあの女も、ちょうど市へ出るところで、道で一緒になる。
しばらく行くと、女がふと足を止めた。
「近ごろ、里のほうで、また妙な噂が立っとるそうだよ。
よそ者が、今度は、鬼まで手懐けたと」
山でのことは、きのうの昼だ。
近ごろと言うほど、日は経っていない。
噂にしては、足が速すぎる。
答えなかった。
噂は拾って磨いて返せるものではない。
ただ――山を振り返ったとき、それが視えた。
社から離れた山の際に、見覚えのない罅が一本、走っている。
長く積もった何かを、誰かが外から削り取っていったような痕だった。
――誰が削った。何のために。
市で初めて会った日に、釜番がこぼしていたのを思い出した。
唸りがせかせかしてきて、何かを探しとるみたいだ――若い衆がそう言うとる、と。
こっちが山へ上がるより前の話だ。
隣の女は同じ山を見ても、眉ひとつ動かさずに歩いていく。
訊ける相手は、いなかった。
帳面に、一行だけ書いた。
〈罅一本。削った者は、分からない〉
そこから里までの道で、山の拍がずっと背中についてきた。
初めてこの山を下りた日暮れは、軋む音だった。
今日は、唄だった。
唄は、もう、ひとりのものではなかった。
――山の金槌は、柄だけが替えられて、頭は古いままだという。
柄を握る手が代わっても、打つ拍は同じだったそうな。
……替えた手の数までは、誰も数えていないがね。




