年が合わない
――風の便り
「〈首の社〉の語り部がね、ゆうべの火の端で、鬼じゃのうて自分の身の上を話したんだよ」
「銭にもならん話なのに、誰も急かさんで、しまいまで聞いとったねえ」
「山の唸りも、けさは唄に聞こえる。釜番の爺さまが、孫と並んで打っとるよ」
「あの回収屋さんは、朝のうちに里へ下りたきり、とんと見んねえ」
背中についてくる唄が離れるまで歩く。
そう決めて、山を出た。
――あの唄は、もう里に返った。
こっちが連れて歩くもんじゃないだろう。
楽々森彦には声をかけずに来た。
出がけに見ると、あのひとすじはまだ左肩に薄く残っていた。
それでも名は戻り、あの男の用はもう済んでいる。
起こせば、ついてくると言いだすだろう。
峠で一度だけ振り返ると、山の際の罅は遠目にもまだ視えた。
東へ三日。
四日目の朝、風に潮の匂いが混じった。
海まで下れば、波の音にまぎれて唄はもう届かない。
そう踏んで、坂を下った。
浜へ下りて、最初に耳へ入ったのは潮の音ではなかった。
網を繕う年寄りが三人、砂の上で言い合っていた。
膝に網を広げた一人が、手を止めずに言っている。
「舟が二艘やられた時化の年だ。
折れた帆桁を浜まで担いで運んだのが、あの人だった。
わしは覚えとる。あの人が戻ってきたのは、三年前の秋だ」
隣の声の大きいのが、そこへ食ってかかった。
「三年? うちの蔵に古い帳面がある。
浜の家並みが墨で描いてあってな、外れの小屋だけ、そのころから今とおんなじ形で建っとる。
あの人が戻ってから、人の代なら十は越えとるわ。
三百年の間違いだろう」
いちばん年かさの一人が、首を横に振った。
「どっちも違うわ。浜に石の鳥居があったろう。
今は根元しか残っとらんが、あれが立っとる時分に、あの人はもう戻ってきて、小屋におった。
わしの祖父さんの、そのまた祖父さんが子どもの時分に、とうに昔話だったそうだ。
年なんぞ、数えようがないわ」
誰も譲らなかった。
三人とも笑っておらず、言い分より先に証拠を出した。
同じ一人の話らしかった。
同じ浜の、外れの小屋の男の話だ。
いつから居たのかと本人に訊いたという話は、出てこなかった。
それが三年と、三百年と、いつとも知れない昔になっていた。
「話の途中に、すまない。誰の話だ」
声をかけると、三人がそれぞれ違う形で話をそらした。
三年と言った年寄りは、繕いかけの網を膝に置いたまま、指だけが止まった。
帳面を持ち出した年寄りは、急に喋りだした。
今朝の漁がどうの、鰺の値がどうの、訊いてもいないことを続けざまに並べた。
祖父さんの話をした年寄りは、何も言わずに立ち上がり、舟を引き上げてある波打ち際のほうへ歩いていった。
答えは返ってこなかった。
さっきまで一歩も譲らなかった三人が、その男のことだけは、揃って口にしなくなった。
それ以上は訊かずに網のそばを離れた。
舟が七艘、小屋が二十ばかりの、海沿いの小さな漁村だ。
潮の匂いに干した魚と煮炊きの煙が混じっている。
板切れを引きずった子ども達が、こっちを追い越していった。
先を行く子が振り返って笑い、後ろから来る子に、早く、と手を振っている。
波打ち際では、浜の男たちが舟を引き上げていた。
「艫を押さえろ」
声がかかると、二人が舟の後ろへ回った。
船底が砂を擦って、それきり止まった。
肩を入れ直しても、舟はびくともしない。
一人が浜のほうへ振り向いて、誰かの名を呼んだ。
網の脇にいた者が、手を拭いながら下りてくる。
人手が増えて、船底がもう一度、砂を鳴らした。
舟を引き上げた男たちが、杭に綱を結んで離れていく。
ずいぶん高いところまで引いてあった。
夕方にはそこまで潮が満ちるのだろう。
浜を端から歩いた。
誰か一人でも、さっきの話を継いでくれる相手がいないか。
だが、近づくと浜の者の手が止まり、通り過ぎるとまた動きだす。
誰も顔を上げない。
声をかける前に、相手のほうが背を向けてしまう。
足を止めて周りを見渡すと、波打ち際から少し離れた石に、女が一人座っていた。
膝を抱えて、沖を見ている。
網も持たず、桶も持たず、ただ座っている。
浜を半分ほど歩いても、話の続きを聞ける相手はいなかった。
振り返ると、女はまだ同じ石の上にいた。
沖を見つめる目の向きまで、さっきのままだ。
波が寄せて、女の座る石の裾を濡らし、また退いていった。
動かないのは、女だけだった。
子ども達が石の手前で足の向きを変えて、そのまま走っていった。
毎日そうしているような、迷いのない曲がり方だった。
桶を提げた者が二人、そちらへ顔も向けずに通り過ぎた。
避けているというより、気にも留めていない歩き方だった。
声をかけるには遠く、放っておくには近い。
日暮れまでは、まだ間がある。
浜の外れまで来て、小屋の前に座る男を見つけた。
年寄りたちが言い合っていた、外れの小屋の男だろう。
男は砂に胡座をかいて、膝に木箱を乗せている。
両手ほどの大きさの、古い箱だ。
角は擦れて丸くなり、蓋の合わせ目を紐が二重に回っている。
結び目は固く、長いこと解かれていないように見える。
見ているうちに落ち着かなくなってくる。
どこがとは言えないが、何かが合っていない。
――この男、いくつなんだ。
頬は日に焼けて張っている。
二十歳そこそこの張りだろう。
その目の脇だけ、皺が深く畳まれている。
六十を越えた者の皺のように見える。
手の甲は若いのに、指は節くれて太い。
髪には白いものが混じっているが、うなじの生え際だけは黒々としている。
どこを見ても、年が一つに定まらなかった。
その顔の上に、一枚。
世間に長く語られた者には、もう一枚の顔が貼りつく。
それが視える者はまずいない。
これまで拾ってきた貼りものは、素顔の上に載っているだけで、どこかしらに端が浮いた。
この一枚には、浮いた端がひとつも見えない。
目を凝らすと、貼りものは頬の窪みにも顎の線にも輪郭どおりに食い込んでいた。
目の縁の皺も、口の脇の皺も、一本ずつ写し取っている。
男が瞬きをすると、貼りものもそのとおりに動いた。
作りものが顔に載っているのではなく、顔のほうがその形をしているように見えた。
帳面を出して、一行だけ書いた。
〈貼りもの一枚。浮いた端が、ひとつも無い〉
帳面を閉じると、潮の音の下に背中の唄が聞こえた。
耳ではなく、うしろで鳴っている。
――海まで来ても、まだついてくるのか。
このまま浜を出れば、明日には次の土地だ。
分かっていても、足はもう男のほうへ向いていた。
見て見ぬふりというやつが、どうにもできない。
男の前で足を止めた。
「何か落としたかい」
男が言った。
顔は上げず、砂を見たままだった。
「落とし物を探しとる目つきだ」
悪くない目利きだ。
稼業を当てられる者はそう多くない。
「近いな。拾って歩いてる」
「何をだ」
「あんたみたいなのを」
男は少し考えて、ああ、と言った。
怒りも笑いもせず、それ以上は訊き返しもしない。
砂を払って、座る場所を空けてくれた。
居場所を空けられたのは、浜へ下りてから、これが初めてだった。
「悪いな」と一言だけ返して、そこへ腰を下ろした。
「あんた、いつからここに」
「……戻ってから、ずっとだ」
「どこから戻った」
「向こうからだ」
「そうか。……浜の年寄りが言い合ってた。
あんたが戻ったのは、一人は三年前だと言う。
もう一人は三百年前だと言う。
残りは、石の鳥居が立ってた時分だと言う」
「そうかい」
「どれが本当か、気になってな」
男は少し首を傾げた。
困った顔でも、数え違いを咎められた顔でもなかった。
「……あのころから、浜はそう変わらんよ」
それきり黙ったので、こっちも黙った。
波が三つ、寄せては引いた。
「あんた、名は」
男が訊いた。
こっちの口が半分だけ開いて、そのまま閉じた。
「――回収屋でいい」
「そうかい」
男は頷いた。
黙っているあいだ、男の膝の箱を見ていた。
腰を下ろしたとき、紐の結び目は男の腹の正面にあった。
それが今は、少し右へずれている。
座り直したのだろう。
そう思って、沖へ目を戻した。
しばらく、潮の音だけが続いた。
もう一度見ると、結び目はさらに右へ寄っていた。
男の膝も腰も、さっきのままだ。
手は腰の少しうしろの砂に置いたきりで、箱へ伸びる気配もない。
箱だけが、一度も戻らずに、ゆっくり右へ回っている。
「重そうだな、それ。中身は」
「さあ、……知らねえ」
答えを作っているようには見えなかった。
◇
日が傾くころ、浜より高みにある小屋の並びで、宿を頼んだ。
一軒目は戸が細く開いて、すぐに閉まった。
二軒目は飯だけならと言いかけたが、奥から誰かが呼んだ。
戻ってきたときには、その話は無くなっていた。
三軒目に着くころには、噂のほうが先に届いていた。
「山の鬼を手懐けたっていう、あんたかい」
戸口の男は敷居から出てこなかった。
「北の社の鬼だよ。
討たれたはずの鬼を、よそ者が手懐けて、言うことを聞かせとると。
三日も前から聞いとる」
握り飯をくれたあの女から、里へ下りる道で聞いたのと同じ噂だった。
山を出たのは、その日のうちだ。
そこから三日、歩き詰めで来た。
――こっちが山を出た日には、もう浜に着いてたのか。
誰の口が運んだのかも分からないまま、この浜ではもう話が広まっている。
「泊めてくれとは言わない。
薪を少し、分けてもらえると助かる」
「うちに余分はねえ」
戸口の男はそれだけ言って、戸を閉めた。
ほんとうに余分が無いのか、断るための言い分なのかは分からなかった。
腹は昼から空のままだ。
せめて今夜の火くらいは欲しい。
浜の裏手に、波の運んできたものが溜まっていた。
流木のほかに、割れた櫂の先、藻を巻いた縄、欠けた瓦、角の落ちた石。
潮の具合で、みなここへ寄せられてくるらしい。
木は潮を吸って重いが、芯は生きている。
三日も風に当てれば、悪くない焚き物になる。
思わぬ拾いもんだ。
手ごろな太さのを選って引き出すと、下から平たい石が出てきた。
手に取ると、片面だけが滑らかだった。
塩をかぶっているが、面はまだ生きている。
砥石の代わりくらいにはなりそうで、荷へ入れた。
余分が無いというなら、こっちで足しておけばいい。
引き出した木を抱えて段を上がり、三軒目の閉まった戸口の脇に積んだ。
崩れないように低く組んで、平らな板を一枚載せて雨よけにした。
自分の分には、日に乾いた細いのを二、三本だけ抜いておいた。
戸は叩かない。
叩けば、断った家に借りを作らせることになる。
三日もたてば乾く。
使うかどうかは、あの家が決めればいい。
◇
石の上の女が、まだ気にかかっていた。
段を下りて浜へ戻ると、日はもう海の際まで落ちていた。
潮が満ちて、女の腰かけた石は半分ほど水の下だった。
女は膝を抱えて、昼と同じ形で座っている。
変わったのは、水の高さだけだった。
浜から誰かが呼びに来る気配もない。
昼に見たときは、まだ放っておける気がした。
だが、いまは、そうは思わなかった。
石まで下りて、声をかけた。
「もうそこまで、波が来てるぞ」
返事はなかった。沖を見たままだ。
瞬きはしている。息もしている。
ただ、声が肩から先を通り抜けていくようだった。
視ても、何も浮いてこない。
貼りものが載っているのかどうかさえ、視て取れなかった。
肩に手をかけると、着物が濡れていた。
「濡れたままじゃ冷える。戻ろう」
手を貸そうと、腕を出した。
膝を抱えた手は、ほどけない。
取ろうともしない。
差し出したまま、しばらく待った。
波が二度、足首を洗った。
差し出していた手を戻した。
この先、水がどこまで上がるのかが読めない。
石の頭まで来るのか、この高さで止まるのか。
それが分からないうちは、ここを離れていいのかも決められない。
浜の外れへ歩いた。
訊けそうな相手は、もうあそこにしかいない。
男は昼と変わらない姿で、小屋の前に座っていた。
箱も膝に載せたままだ。
ただ、紐の結び目だけが、箱の裏側まで回っていた。
空けてもらった所へ、また腰を下ろした。
「また、邪魔する。あの石、どこまで浸かる」
男は沖を見たまま、少し考えた。
「石の腹まで濡れると、帰るよ」
水のことを訊いたが、男は石の上の人のことを答えた。
さっき足首を洗われながら見た石の腹には、横へ走る窪みがあった。
水面はまだその下にある。
息をひとつ吐いた。
日が落ちきるまで、そこにいた。
男はそれきり何も言わず、こっちも、それ以上は訊かなかった。
遠くで舟を引き上げる掛け声がした。
「艫だ、艫を上げろ」
男の唇が、小さく動いた。
声にはなっていない。
掛け声が止むと、唇も閉じた。
訊きたいことはいくつもあった。
三年と三百年のこと。
結び目のこと。
戻ったという向こうのこと。
いま、何を言いかけたのかも。
だが今日はここまでだ。
立ち上がって、砂を払った。
「ああ。明日な」
男が言った。
こっちの足が止まった。
「――まだ、何も言ってない」
男はゆっくりこっちを向いた。
わざと言った顔でも、からかった顔でもない。
自分が何を言ったのか、分かっていない顔だった。
「そうかい」
男はそれだけ言って、沖へ顔を戻した。
膝の箱にそっと手を置いた。
歩きだす前に、石のほうを見た。
水は腹の窪みのすぐ下で止まっていた。
窪みのあたりだけが、波をかぶって黒く濡れている。
石の上に、人影はもう無かった。
薄暗い段を、女が一人、ゆっくり上がっていく。
明日また来る。
そう決めてはいたが、まだ口に出していない。
この男にも、誰にも。
――浜というのは、銭にならない話ばかり落ちている土地でね。
たとえば、外れの砂に三年座っている男の話。
いや、三百年だという者もいる。
年寄りが三人がかりで言い合って、誰ひとり譲らない。
……三人とも、証拠があると言うんだよ。
おかしいだろう。だが、嘘をついている顔じゃあ、なかったね。




