留守を頼む
――風の便り
「網の爺さまたち、きのうもまた三年だ三百年だって言い合っとったよ」
「そこへよそ者が『誰の話だ』って口を挟んだら、三人ともぴたりと黙ったんだと」
「山の鬼を手懐けたっていう、あのよそ者かい。外れのあの人の隣に座っとったねえ」
「三軒目の戸口には、頼みもせん薪が積んであったと。追い返した家にだよ」
浜へ来た日の夜は、小屋の並びへは上がらず、来るときに下ってきた坂の上で越した。
松の根方で焚いた細い枝は、明け方まで持たなかった。
火の跡に土をかけて、また来ると決めた浜へ下りかけたときだった。
聞き覚えのある足音に追いつかれた。
振り返るより先に、声のほうが届いた。
「よう。達者かい」
楽々森彦だった。
里から、荷も持たずに歩き通してきたらしい。
夜もろくに休まなかった顔で、肩で息をしている。
左肩のあのひとすじは、まだ薄く残っている。
ふう、と長い息がひとつ抜けた。
ずっと詰めていたらしい。
「起こしもしねえで出てったろ。
里で聞いたのさ、あんたが一人で東の浜へ向かったと」
「目の多い土地だ」
「そっちの噂も届いてるぜ。
山でのことが、里じゃもう『鬼を手懐けた』って話になってる」
「知ってる。
浜には、こっちより先に着いてた」
楽々森彦は笑ってみせたが、続かなかった。
里で一緒に戸を閉められた男だ。
「用件は」
「一緒に行く」
前置きがなかった。
道々そればかり考えてきたらしい。
「あんたの用は済んでるだろう。
字も彫った。
名前も戻った」
「済んだから来たんだ。
……借りっぱなしってのが、どうにも寝覚めが悪くてね」
北の山へ行くと言いだしたときも、この男は同じ言い草だった。
――今度ばかりは、寝覚めが悪いのはこっちのほうなんだがな。
「……起こさずに出たのは」
言いかけたのを、楽々森彦が手で止めた。
「言うな。分かってる」
話はそれで打ち切りにして、土をかぶせた火の跡を足の先でつついている。
「野宿かい」
「宿は断られた」
「何軒だ」
「三軒だ」
「頼み方が悪いんだよ、あんたは。
愛想ってもんを、どこかに置いてきたろ」
「持って出た覚えがない」
違えねえ、と声を立てて笑う。
つられて、こっちも少し笑った。
二人で坂にかかる。
下の浜では、干した網が朝の風にふくらんでいる。
その向こうで、海が白く光っていた。
下りるにつれて、波の音が近くなる。
遠くではひと続きのざわめきだったのが、寄せる波、引く波と、一つずつ聞き分けられるようになった。
そのあたりから、隣の口数が減った。
どちらも黙ったまま、三歩下りる。
四歩目で、横の足音だけが止まった。
振り返ると、楽々森彦の膝が本人の意思とは別に沈みかけていた。
腿を叩いて、押し戻している。
「……あの時と同じだ。
息を吸うたび、胸の奥に冷たいのが溜まる」
「社の石段のときか」
「ああ。
だが、あれより薄い。
薄いが、足の下からずっと続いてやがる。
……坂の下の浜が底で、そこに溜まってる」
波が一つ寄せて、退いた。
その音が届くたび、男の指が腿の上で拍を刻みかけては、途中で止まった。
「社は、あいつが居た。
居るところで足が止まるなら、まだ話が分かる。
……ここには誰も居ねえ」
「それが」
「誰も居ねえのに、膝を持ってかれる。
……水の音に、どっかへ引っぱられるみてえにな」
こっちは待った。
「藪を報せた、あの戦の終いな。
島の浜だった」
「そこにいたのか」
「いた。
はじめは岸で、数える役だ。
……途中で列が割れてな。
数えてるどころじゃねえ。
前へ出るしかなかった。
砂の上でごちゃ混ぜになって、膝まで水に浸かって、誰が誰だかも分からねえまま、手が動いた」
波がまた寄せて、退いた。
「数えるだけじゃなく、その手でもか」
「ああ。何人かは」
それきり続けずに、楽々森彦は自分の掌を見た。
「向こうも同じことを考えてたろうよ。
一度、喉の先まで刃が来た。
……そこから先は、前も後ろもねえ。
怒鳴り声と水を蹴る音ばっかりの中で、ただ刃を振るった。
必死で、気がついたら終わってた。
覚えてるのは、水が冷てえってことだけでな」
「相手は」
「知らねえままだ。ずっとな」
「山で、あいつの名は知った」
「ああ。
名があった。
唄があった。
その名を、俺が呼んだ」
楽々森彦は下りかけた足を見た。
「そうしたらな。
あの浜で手にかけた連中にも、ひとりずつ名があったことになっちまった。
……いまさらだ」
「それが、ここで」
「水の音がすると、あの浜に戻る。
数えかけても、あのときみてえに途中で切れる。
……で、足がそっちへ行こうとするんだ。
膝から先が、俺の言うことをきかねえ」
「名を知らずにいたうちは」
短い頷きが返ってきた。
「どこへでも行けたさ。
思い出しもしなかったんだからな」
楽々森彦は坂を上がり直して、波の音が遠くなるところまで退がった。
それから、こっちを見ずに言った。
「浜の底へは、俺の足じゃ降りられねえ」
こっちが言う前に、本人が言った。
同じ坂に立っていても、膝が沈むのはこの男だけだ。
「だがな、縁までなら行ける。
ここまでなら立てる。
……あんたが戻ってきたときに、座る場所をひとつ空けて待つ。
それくらいならいいだろ」
――坂の上で待つだけなら、断ることもないか。
「上で何をする」
「火を焚き、飯を炊く。それだけだ」
そう言って、屈託なく笑った。
「焚くのも炊くのも、昔から得意でな。
食うのはもっと得意だ」
「……じゃあ、飯のほうは任せた」
楽々森彦は、親指で自分の胸を指した。
「お供の犬は、留守番かい」
「犬に飯は任せない。
……留守を頼む」
楽々森彦は鼻で笑って、松の根方に腰を下ろした。
こっちがゆうべ火を焚いた跡のすぐ脇だ。
膝を抱えず、あぐらでもなく、いつでも立てる座り方をしている。
あの町の長卓では、こっちが席をひとつ頼んでこの男を座らせた。
今度は、この男が席を空けて待つほうに回るらしい。
◇
浜へ下りると、網を繕う年寄りの脇に見覚えのある背中がしゃがんでいた。
〈首の社〉の前で鬼を語っていた、あの語り部だ。
楽々森彦が止まった坂を下りきって、この男は濡れた砂まで平気で踏んでいる。
膝も、息も、里で会ったときのままだ。
筵も敷かず銭も置かずに、年寄りの話に耳を寄せている。
聞いては頷き、頷いては次の小屋へ移っていく。
人の話を集めて回っているらしい。
「精が出るな」
「ゆうべ着いたのさ。
あんたの行く先なら、話が拾えると踏んでね。
……銭にならん話ばかりだが。
源の爺さんなんぞ、三年前の時化の話だけで夜が明けかけた」
「三年と言ってた爺さんか」
「そうさ。
時化のことなら、舟の数から帆桁の折れ方まで覚えとる。
それが……あの人のことになると、ピタリとそこで止まる」
語り部は腰を伸ばして、それから声をひそめた。
「おまけに、集めた話は人前じゃ喋らん。
当人に返す。
……自分で決めたことだが、業腹だよ。
喉のあたりが、ずうっと据わりが悪い」
「こっちと同じ稼業だな」
「よしてくれ。
おれが返すのは、話だけさ。
……あんたが返しとるのは、その話に埋もれた当人のほうだろう」
言ったそばから、長年の癖で「むかし、この浜に――」と節をつけかけた。
語り部は慌てて口を閉じ、顎に手をやって決まりが悪そうに掻いた。
「まあ、今度はおれが聞く番だ。
長いこと、噂を聞かせるほうで食ってきたんでね」
「浜のほうは、どうだ」
「みんな、おんなじことを言う」
語り部は浜の外れを顎でしゃくった。
目で追うと、外れの小屋の前に膝に箱を載せた男が座っている。
「あれはあの人の箱だ、と。
海の向こうで貰って、開けるなと言われて、自分で開けて、自分で老いた。
ぜんぶ自分の始末さ。
ここらじゃ、子どもに聞かせる戒めの話になっとる」
「三年前の話としてか。
三百年前の話としてか」
「年のほうは、訊くたんびに変わる。
……変わるくせに、箱のことだけは変わらん。
あれはあの人の箱だ。
そこだけは、みんな口をそろえて言う」
――そこが、貼りものか。
「ひとつだけ、噛み合わんのがある」
語り部は、商売人の手つきで指を一本立てた。
「浜の連中は、『戻ってきた』と言う。
当人も、『戻った』とは言う。
だが、『帰った』とは、一度も言わん」
「どう違う」
「知らん。
意味までは知らん。
……ただ、あれは、帰ってきた者の言い方じゃないよ。それだけさ」
語り部は言い切って、口をつぐんだ。
前なら、ここから先を勝手に埋めて聞かせた男だ。
昨日、外れの男も「戻ってから」と言った。
どこからと訊けば「向こうからだ」と返ってきた。
「それと……もう一人、話の集まらんのが居る」
語り部の目が波打ち際のほうへ動いた。
追うと、少し離れた石の上に女が一人座っている。
昨日の暮れに段を上がっていったのに、今朝はもう同じ石に戻っている。
「あの人は、時々ひとりで『待ってる』と言う。
誰に言うでもなくな。
……何年座っとるのかも、誰を待っとるのかも、誰も知らん。
話が無いんじゃない。
あの人に訊いてみた者がおるとは、とんと聞かんのさ」
語り部は試すように、箱の男の小屋へ向かって歩きだした。
五歩ほどで足を止めて、戻ってくる。
「近づくと、膝を回すのさ。
箱が、こっちから遠いほうへ行く。
……気づいてるのか、あれは」
膝を回す。
昨日、こっちが見ていたときは、膝も腰も動かなかった。
箱だけが回っていた。
語り部の目には、そう映るらしい。
礼を言って、浜の外れへ歩いた。
途中、干した網の陰から見られているのに気づいた。
若い漁師が一人、網の破れに手をかけている。
その目が一度、波打ち際の石の女へ流れて、またこっちへ戻ってきた。
目が合うと手元へ視線を落として、それきり顔を上げない。
網を繕う手は止まったままだった。
箱の男は昨日と同じ場所に、同じ格好で座っていた。
砂を払って、座る場所を空けてくれる。
それも昨日と同じだった。
軽く頭を下げて腰を下ろした。
「あんた、名は」
同じことを訊かれた。
「回収屋だ」
「それは昨日聞いた」
昨日はそれで済んだ。
回収屋と聞いたことは、覚えている。
それを、こっちの名とは受け取らないらしい。
口を開きかけて、やめた。
――この名は、誰に呼ばれて覚えたんだったか。
それが出てこない。
出てこないまま、渡すことになる。
砂を、指で一度ならした。
「……ナギ、だ」
「そうかい」
男はそれだけ言って、また砂を見た。
潮の音だけが、間を埋めた。
昨日から聞いた話を並べてみる。
三年と三百年。
あれはあの人の箱だ。
戻ったとは言うが、帰ったとは言わない。
もう一度、顔を見た。
貼りものは皺の一本まで写し取って、輪郭どおりに食い込んでいる。
瞬きをすれば、そのとおりに動く。
昨日から三度同じところを目で追ったが、端はどこにも浮いていない。
――視てるだけじゃ、明日も同じだな。
「昨日から、そこばかり見てるな」
男が言った。
咎める声ではなかった。
「悪い」
「構わんよ。
誰も見ねえからな、この面は」
人の顔だ。
断られれば、それまでだ。
「あんたの顔に、触っていいか」
「好きにしな」
指を伸ばした。
貼りものに指で触れるのは、これが初めてだった。
これまで視てきた一枚は素顔の上に載っているだけで、下には人ひとりぶんの厚みがあった。
押せば押し返してくると思っていた。
この一枚は、紙を一枚押したような手応えしか返してこなかった。
厚みが、無い。
「薄いな」
「なにがだい」
「あんたに貼りついてるやつだ」
男は首をかしげた。
それから、自分の頬を撫でた。
指は何にも引っかからずに頬を滑り落ちた。
何を言われているのか、分かっていない手つきだった。
爪を立てかけて、やめた。
好きにしな、と言われたのは触るところまでだ。
北の山の二枚は互いに押さえ合っていて、継ぎ目のほかに手の入る所が無かった。
この一枚には、押さえる相手も、押し返す力も無い。
「……これなら、手が入る」
言ってから、掌についた砂を払った。
払った手の先に、膝の箱がある。
角の擦れ方からして、造りは安物じゃない。
腰を下ろしたとき、紐の結び目は男の左の膝頭の外にあった。
昨日の暮れは、箱の裏側だった。
ひと晩のうちに何度回ったのかは、分からない。
――持ち主が寝てても、お構いなしか。
「重そうだな。
……昨日も訊いたか」
「聞いたな」
「中身は」
「知らねえ」
同じ答えが返ってきた。
今日も、答えを作っているようには見えなかった。
「あんた、何を拾いに来た」
今度は男が訊いた。
答えずにおいた。
さっきこの男は自分の頬を撫でて、何にも触れなかった。
言えば、本人には確かめようのない話になる。
それきり日が西へ傾くまで、並んで潮の音を聞いていた。
「明日、潮が引くころに来る。
……そのときは、あんたのそれに、もう一度触っていいか」
「好きにしな」
それだけ置いて、立ち上がった。
沖からの風が、背を押してくる。
数歩も行かないうちに、あの声が追ってきた。
「あんた、名は」
三度目だった。
名は昼に渡してある。
「ナギだ」
男が頷いた。
それから、砂を見たまま言った。
「ナギ……サ、だったか」
風が止んだ。
「ナギだ」
「ああ」
男はそれきり、沖のほうへ顔を戻した。
砂に置いた手は、指一本、動かなかった。
名の尻に付いた「サ」を、言い直して落とした。
それだけの、なんてことない話だった。
浜を戻る道すがら、石の女の前で足を止めた。
潮が満ちはじめて、波が石の裾を濡らしている。
この女に訊いてみた者がいるとは聞かない、と語り部は言っていた。
「あんたは、誰を待ってる」
また、返るものは無かった。
今日も膝を抱えて、沖を見ている。
昨日と、指の一本も違わない形だった。
坂へ足をかける前に、浜を一度振り返った。
外れの砂で男が顔を上げて、沖ではなく坂の上のほうを見ていた。
目でたどると、松の根方から細い煙が上がっていた。
楽々森彦がもう火を焚いている。
あの一音が、坂を上がりきるまで、耳の底に残っていた。
――浜の話は、どれも途中で切れていてね。
肝心なところほど、誰も持っていない。
……埋めて聞かせりゃ、銭にはなるんだがね。
この浜のは、埋めた端から、座っている当人の顔と合わなくなりそうで。
やめておいたよ。




