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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第二章 開けて悔しき浜の箱

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あとの祭り

――風の便り

「坂の途中で膝をばしばし叩いとった男、とうとう浜まで下りてこんかったねえ」

「鬼を手懐(てなず)けたよそ者の連れだと。坂の上の松の下で、飯ばっかり炊いとるよ」

「よそ者のほうは、外れのあの人の顔に指を当てとったけどね。何をしとったんだか」

「その坂の上の煙をさ、あの人が珍しく顔を上げて見とったって」

 明くる朝、目を覚ますと、坂の上の松の根方(ねかた)で鍋が湯気を上げていた。


 楽々森彦(ささもりひこ)が石を三つ組んで、その上に鍋を掛けている。

ゆうべは火しか無かったはずだ。

鍋の腹には、浜の家の焼き印が押してあった。


「その鍋、どこで」

「三軒目で借りてきた。

あんたが寝てるうちにな」

「起こさずに出たのか」

「お互いさまだろ」


 悪びれもしない。


「戸口に、濡れた流木が積んであってな。

割って、軒下に干してやったら、貸してくれたのさ。

……あんたの真似だよ」


 ――頼み方は、向こうが一枚上らしい。


 鍋の中で、粟(あわ)がゆっくり回っていた。


「今日で仕舞(しま)いかい」

「たぶんな」

「早えな」

「薄い一枚だ。手間はかからない」


 潮の線が、じりじり沖へ退(ひ)いていく。

潮が引くころに来ると、昨日のうちに外れの男へ言ってあった。

この時分、浜の連中は舟溜(ふなだ)まりで舟の手入れにかかり、外れには人が寄らない。


「ここで待ってる」

「ああ」


 楽々森彦(ささもりひこ)は鍋の縁(ふち)を布で拭いた。

空いた椀(わん)を重ねて脇へ寄せてから、その布を膝の上でたたんだ。

それきり、何も訊(き)かなかった。


 坂を下りきると、若い漁師が待ち構えていた。


 昨日、網の陰からこっちを見ていた男だ。

肩が厚く、腕が太い。

近づいてくる足取りに迷いがなかった。


「あんた、人を拾って歩いてるんだって」

「そう聞いたか」

「浜じゃ、もうそういうことになってる」


 ここでも、噂のほうが先に着いている。


 若い漁師は、そこで言い淀んで、太い指で首の後ろを一度掻(か)いた。


「……なら、うちの婆さんを、拾ってやっちゃくれねえか」


 そう言って、石のほうを顎(あご)でしゃくった。

潮が退(ひ)いて、女の腰かけた石が根元まで出ている。

膝を抱えたまま、今日も動かない。


「石の上の人か」

「そうだ」

「身内か」

「筋でいえば、そうなる。

母方の、何代か上にあたるらしい」


 言い方が濁った。

婆さんの年は、身内にも数えられないらしい。


「近ごろ、石にいるのが長くなってな。

前は日が落ちりゃ戻ってきた。

ここ三日は、暗くなりきるまで戻ってこねえ」

「呼びに行ったことは、あるか」

「ある。返事はする。……返事はするんだ。

だが、それだけだ」


 返事をする。


 浜へ来た日の暮れも、昨日の夕方も、こっちが声をかけたときは沖を見たままだった。

瞬(まばた)きも、息もしていたが、それだけだった。


 同じ相手に声をかけて、この男には返り、こっちには返らない。


「あんたは、なんて呼んでる」

「何てって……婆さん、としか」


 名で呼んだことは無いらしい。

男は自分の手を見た。

指の付け根が固く盛り上がっている。

網を引く手だ。


「昨日、外れの人の顔に触ってたろ。

網の陰から見てた。……順は後でもいい。

婆さんも、頼む」

「順は決めない。今日はあっちだ。それだけだ」

「……じゃあ、手伝わせてくれ」


 断る筋を探して、見つからなかった。


「今日は、外れの人のところで、ひとつ試すことがある。

何が起きるか、こっちにも読めん」


 若い漁師が、口を結んだ。


「だから、離れていろ。

舟溜(ふなだ)まりの、いちばん向こうの杭(くい)のところまで」

「そんなに離れるのか」

「離れる。……そこから、婆さんを見ててくれ。

潮が石を越えたら、呼べ」


 そう頼むと、若い漁師は一度石の上の女へ目をやった。

それから、素直に退(さ)がっていった。

外れの小屋から杭(くい)までは、二十歩以上ある。

杭(くい)からなら、石がよく見える。


 外れへ行く前に、石まで下りた。

潮は退(ひ)いて、根元まで乾いている。

膝を抱えた形は、昨日と変わらない。


 手の届くところまで寄って、若い漁師の呼び方を借りて、呼んだ。


「婆さん」


 顔は動かない。

瞬(まばた)きも、息もしている。


 杭(くい)のほうで、若い漁師がこっちを見ていた。

同じ言葉でも、あの若いのが呼べば返るのだという。

耳が遠いわけではないらしい。


 ここを離れれば、今日はこの人を後回しにしたことになる。


 波が三度寄せて、三度退(ひ)いた。

そのあいだ、外れへ向かう足が出なかった。


 ――順は決めない、か。よく言う。


 外れの男とは、先に約束がある。

石に背を向けて、浜の外れへ歩いた。


 箱の男は昨日と同じ場所に、同じ格好で座っていた。


「来たな」

「潮が引くころだと言った」

「そうだったか」


 砂を払って、座る場所を空けてくれる。

今日で三日目だった。

礼を言って、腰を下ろした。


「あんた、名は」


 四度目だった。


「ナギだ」

「そうかい」


 男は頷(うなず)いて、また砂を見た。


 ――あの「サ」は、無しか。


 膝の上では、箱の紐の結び目が昨日の暮れより少し右へ寄っている。


 波がひとつ寄せて、退(ひ)いた。


 昨日は、触れて、確かめて、それで終わった。

今日は、その先まで行くと決めてきた。

潮が満ちてくる前に、石のほうへも戻りたい。


「顔に触るぞ」


 返事は無い。

今日は、答えを待たなかった。


 指を伸ばして、頬に触れた。

手応えは昨日と同じだった。

紙を一枚押したほどしか返ってこない。

押し返してくるものが、どこにも無い。


 いつもなら、浮いた端から本人へ届く筋を探す。

この一枚には、その端が無い。


 ――端が無いなら、こっちで作ればいい。


 これまで一度もやったことのない手だった。

昨日は、ここで爪を止めた。


 頬から顎(あご)へ下りる線に沿って、爪の先をかけた。


 爪が入った。


 薄い紙を布から起こすときの、あの引っかかりがひとつだけあって、それから、端が起きた。


 初めての手が、通った。


 ざ、と音がした。波の返る音だ。


 目の前の波は、まだ寄せてくる途中だった。

返るより先に、その音だけが耳へ届いた。


 浜じゅうで、順が逆さまになりはじめた。


 舟溜(ふなだ)まりのほうで「ともが振れてるぞ」と声がして、それから舟の後ろが振れた。

砂に足跡がつき、そのあとで人がそこを通った。


 結果のほうが、先に来る。


 こっちの身にも、同じことが起きていた。

瞬(まばた)きをする前に、目の前が一度暗くなった。

波が岩に当たる前に、しぶきが顔にかかった。


 外れの小屋の柱が、みしみしと鳴りだした。


 一本の柱の中で、まだ白い木肌と潮に朽ちきった木肌が、まだらに入れ替わっている。

三年ぶんの潮と三百年ぶんの潮が、一本に重なっているように見えた。

持つはずがない。


 杭(くい)のほうへ振り向いて、退(さ)がれ、と叫んだ。


 若い漁師は、もう退(さ)がっていた。

二十歩の外にいる。

落ちてくるものも、跳ねあがる材も、そこまでは届かない。

そう見ていた。


 それなのに、若い漁師の右腕は肘の先から妙な向きに折れ曲がっていた。

見えない棒で、横から打たれでもしたように。

屋根は、まだ落ちていない。


 背中のほうで、柱が根元から砕けた。

屋根が横へ落ちた。


 振り返ると、屋根は小屋の脇で、片側を砂に埋めている。


 そのとき、悲鳴が上がった。


 顔を戻すと、杭(くい)のそばで若い漁師が自分の腕を見下ろしていた。

痛みのほうが、あとから追いついてきたのだ。

膝が折れて、砂に横倒しになった。


 それから、こっちの背中の布が裂けて開いた。

触れられてもいない所から血が出て、傷が熱くなった。

何かが当たったのは、そのあとだ。


 何が背中を裂いたのかは、見えなかった。

目は、自分の背中までは映さない。


 外れの一角だけ、砂がさざ波のようにうねっていた。

干した網が朽ち、朽ちる前に戻り、また朽ちた。

三年ぶんと三百年ぶんが、ここだけで一度に進んでいるようだった。


 箱の男は座っていた。


 屋根の材が砂を跳ね上げて、頭から被(かぶ)っても、動かなかった。

両手が箱にかかっていた。

抱くというより、覆(おお)っていた。


 男の輪郭が崩れはじめた。


 起こした端の下を、見た。


 素顔があるはずだった。

これまでの一枚は、どれも本人の顔の上に載っていた。


 それがこの男には、無かった。


 端を起こしたぶんだけ、その下の頬が、支えを失ったように内へ落ちていく。

目の縁(ふち)が流れる。

顎(あご)の線が、若いとも年寄りとも言えない形に崩れていく。


 昨日から紙一枚ほどの手応えしか無かったのは、このせいかもしれない。


 この一枚は、顔の上に貼りついているのではなく、男の顔そのものを支えている。

そう見えた。


 起こせば起こすほど、男の形が崩れていく。


 端にかけていた指を離して、掌(てのひら)で伏せた。

爪を立てれば、また起きる。


 自分で起こした端を、自分で押し戻す。


 掌(てのひら)で伏せたまま、動かずにいた。


 波の音は、まだ目の前の波より半拍早く届く。

そのずれが、寄せるたびに縮まっていった。

三つ目の波が返ったとき、ざ、と鳴った。

音は、もう先に来なかった。


 手を離した。崩れは止まっていた。

戻ってはいない。

顎(あご)の線は、さっきより浅いところで留まったままだった。


「ナギ」


 男が言った。砂を見たままだった。


「ああ」


 杭(くい)のほうで、若い漁師を呼ぶ声が上がった。


 走りだす前に、一度だけ男を見た。

箱に両手をかけたまま、手を離したときの顔で座っている。

その場に残して、杭(くい)のほうへ走った。

網の干し場のほうからも、年寄りが三人駆けてきた。


 浜へ来た日に、外れの男の年を言い合っていた三人だ。

若い漁師の腕を見るなり、その場でまた言い合いが始まった。


 まず口を開いたのは、膝に網を広げていた一人で、三年前の時化(しけ)を覚えていた源(げん)だ。


「塩水で洗え。昔からそうと決まっとる」


「馬鹿を言え、源(げん)。塩は沁(し)みる。

真水だ、井戸から汲(く)め」


 声の大きいのが言い返した。

蔵の帳面を持ち出した年寄りだ。


「安(やす)も源(げん)も、どっちも違うわ。

蓬(よもぎ)を揉(も)んで当てるんだ。

うちの祖父さんの代から、腕はそれで治しとる」


 祖父さんの話をした、いちばん年かさの一人だ。

声の大きいほうは、安(やす)というらしい。


 誰も譲らない。

三人とも、言い分より先に手が動いていた。


 安(やす)が桶を提(さ)げて、井戸へ走りだした。


「転ぶなよ、安(やす)」


 源(げん)はその背に声をかけて、自分は波打ち際(ぎわ)で海の水を汲(く)んできた。

若い漁師の腕を洗う。

残る一人は、浜の裏手へ蓬(よもぎ)を探しに行っている。


 井戸の水が届いて、安(やす)が真水で洗い直した。

遅れて、葉を握った年寄りが戻ってくると、安(やす)が声を張り上げた。


「遅いわ、清(せい)」

「揉(も)むのに手間がかかるんじゃ」


 清(せい)が揉(も)んだ葉を当て、源(げん)が拾ってきた板切れを二枚、腕の両脇へ添えた。

言い合いはやまないのに、塩水も真水も蓬(よもぎ)も、一本の腕にちゃんと揃った。


 三人とも、自分の手当てが効いたと言いたげな顔をしている。


 こっちの口の端が一瞬緩みかけたのを、締め直した。


 置いてきた外れのほうを振り返った。

屋根の落ちた小屋の前で、箱の男はまだ同じ格好で座っている。

駆けつけた三人は、あっちへは一度も目を向けていなかった。


 若い漁師が、詰めていた息をひとつ吐いた。

腕の内側は、肘から手首まで紫に変わっていた。


 清(せい)の指が、そこで止まった。

添え板の結びを確かめてから、顔を上げた。


「あんたのも見せろ」


 顎(あご)で、こっちの背中を指していた。


「かすり傷だ」

「かすっとらんだろ。裂けとる」


 布を当てられた。

年寄りの手は、腹立たしいほど手際(てぎわ)が良かった。


「……すまん」


 こっちが言うと、清(せい)は手を止めずに返した。


「礼なら、治ってから言え」


 若い漁師が、砂に横たわったまま声を出した。


「婆さんは」


 石のほうを見た。

女は朝と同じ形で座っている。


「石にいる。動いてない。……あんたは、腕を動かすな」

「……そうか」


 それだけ言って、若い漁師は目を閉じた。


 ――自分の腕より先に、婆さんか。


 その顔を、憶(おぼ)えておくことにした。


 年寄りたちが若い漁師に肩を貸して、小屋の並びへ上がっていく。

後ろから付いていき、戸口の内へ運び込まれるのを見届けてから、坂へ足を向けた。


  ◇


 坂を上がると、鍋がまだ火にかかっていた。


 楽々森彦(ささもりひこ)は駆け寄りかけて、背中の布を見て、足を止めた。

何も言わずに椀(わん)へ粟(あわ)を盛って、こっちの手の届く所へ置いた。


 手渡しはしない。

戸を叩かずに流木を積んできた、こっちのやり方だ。

これも、真似だった。


「腕は動くか」

「動く」

「……そうかい」


 楽々森彦(ささもりひこ)の肩が、ようやく下りた。

朝からずっと、気を張りつめていたらしい。


 それから、洗いざらしの布をひとつ椀(わん)の横に置いた。

三軒目で鍋と一緒に借りてきたのだろう。

背中に当てろ、ということだ。

それきり、何も訊(き)かなかった。


 椀(わん)を取った。

粟(あわ)は煮詰まって、焦げが混じっていた。

それでも、まだ温かかった。


 布を取ると、日なたの匂いがした。

何も訊(き)かれないのが、今日はありがたかった。


 帳面を出した。


 書くことは決まっていなかった。

分かったのは、やってはいけないことばかりだ。


 〈押し返すもののない一枚が、なぜ掌(てのひら)で伏せれば留まったのか〉


 一行だけ書いて、閉じた。


 下の小屋の並びでは、三人の年寄りがまだ言い合っている。

声だけが坂の上まで届いてくる。

あの言い合いが、さっきは一人の腕を繋(つな)いだ。


 爪の先が、まだ白かった。


 拾って、磨いて、返す。


 その手(・・・)だった。

人ひとりを傷つけたのは。

――折れた腕にはね、両脇から板を一枚ずつ添えるもんだそうな。

骨は、自分でつながる。板は、そのあいだ腕が動かんように、添えてあるだけだという。

……あの浜じゃ、添えた手のほうが、まだ言い合っとるんだと。

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