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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第二章 開けて悔しき浜の箱

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その日で仕舞いだ

――風の便り

「若いのの腕、肘から手首まで紫じゃったな」

「屋根が落ちる前に折れとった、と本人は言うとる。二十歩も離れとったのに」

「自分の腕より先に、婆さんは、と訊(き)いたそうな」

「よそ者のほうは背中を裂かれて、かすり傷だと言うとったとよ」

「かすり傷なもんか。清(せい)が布を当てながら、裂けとる言うて叱っとったわ」

 朝のうちに、浜を発(た)つつもりでいた。


 夜のうちに引いた潮が、まだ戻りきっていない。

濡れた砂が低い日を受けて光り、干した網から潮の匂いが立っていた。

荷を背負うと、背中の傷が布の下で脈を打った。


 ゆうべ帳面に一行だけ書いて閉じてから、行き先は決まっている。

北の山の社(やしろ)まで、箱の男のことを調べに行く。


 発(た)つ前に小屋の前へ回ると、若い漁師が戸口の脇に座っていた。

板を二枚あてがわれた右腕を首から吊(つ)っている。

左手で椀(わん)を膝に押さえ、匙(さじ)は諦めて縁(ふち)から直に(じかに)口をつけていた。


 砂を踏む音に、椀(わん)を傾けていた手が止まった。


 男は顔を上げて、こっちの背中のほうへ目をやった。


「背中は」


「たいしたことはない」


 男は椀(わん)を膝に戻して、しばらくこっちの肩口を見ていた。


「爺さんは、裂けとると言ってた」


 答えなかった。

布は内側から張って、昨日より熱を持っている。


 この男の腕を折っておいて、先に訊(き)かれた。


「……腕は」


「昨日より痛え。

爺さんたちは、くっつくかどうかは分からんとさ。

網は、当分引けん」


 男は吊(つ)った腕のほうへ顔を落とした。

板の間から覗(のぞ)く指を少しだけ動かして、息を詰めた。


 それから息を吐いて、顔を上げた。


「訊(き)きてえのは、そっちじゃねえ。

あれは、何だったんだ」


「分からん」


 男は、こっちの顔から目を離さなかった。

膝の椀(わん)を押さえた左手に、力がこもった。


「……分からんのか」


 答えられなかった。

順序が入れ替わったこと、屋根が落ちる前にこの男の腕が折れていたこと。

分かったのはそれだけで、なぜそうなったのかは、まだ何ひとつ言えない。


 言えないまま、この男は当分網を引けない。


 二十歩も離れれば届かないと踏んで、あの杭(くい)まで退(さ)がらせたのは、こっちだった。


 浜のほうで波が一つ崩れる音を聞いてから、口を開いた。


「……悪かった」


「いらねえ。もらっても、腕は動かねえ」


 それきり、詫(わ)びは重ねなかった。

板の間から覗(のぞ)く指を見ていた。


 残りの汁を男が飲み干すまで、どちらも口をきかなかった。


 男は左手で椀(わん)を置いた。

目は、浜の石のほうへ行っていた。


「婆さんは、まだあそこだ。

俺はもう、担いでは運べねえ」


 聞き終える前に、足が石のほうへ向いていた。

若い漁師も戸口の柱に手をついて立ち、後から付いてきた。

吊(つ)った腕が揺れるたび、息を詰めている。


 石まで下りた。潮はまだ来ていない。


「運ぶ。どこがいい」


「いちばん手前の家の前だ。

あそこなら日が当たるし、潮も来ねえ」


 若い漁師は小屋の並びを顎(あご)でしゃくってから、腕をかばって石の脇にしゃがんだ。


「婆さん。この人が、運んでくれるとよ」


 顔が、声のほうへ少しだけ上がった。

声は返らない。


 若い漁師は、それで足りたように一つ頷(うなず)いた。


 潮が満ちるころには、こっちはもう浜を発(た)っている。


「濡れないところまで、連れていく」


 断りも承知も、返ってこない。


 それでも、言ってから手を入れた。

背中と膝の裏へ腕を回して持ち上げると、裂けた所の布が引きつれた。


 軽い。

膝を抱えた形は、崩れなかった。

頭がこっちの肩へ落ちる。

抗(あらが)いもしない。


 砂を踏んで小屋の並びまで運び、言われた家の、戸口の前へ下ろした。

下ろしても腕はほどけず、抱えた形のままそこにいる。

下ろした向きは、浜とは反対だった。


 顔だけが、ゆっくり沖のほうを向いた。


 戸の内の話し声が止んだ。

が、戸は、開かなかった。


「……軽いだろ」


 後ろで、若い漁師が言った。

こっちの空いた腕を見ていた。


「ああ」


 男は黙って、沖を向いた顔をしばらく見ていた。


  ◇


 まだ日の低いうちに浜の小屋を回って、網を繕(つくろ)う年寄りを三人、順に当たった。

頼むのは一つ。

石の婆さんを見ていてくれ、だけだ。


 源(げん)は戸を開けなかった。

戸の向こうから「石の婆さんのことなら、わしは知らん」とだけ声がした。


 安(やす)は戸を開けた。

肩へ回した布に目をやって、背中の具合を訊(き)いた。


「歩けるくらいには。昨日は、世話になった」


 石の婆さんの話を出すと、安(やす)は目をそらして「……すまんな」と戸を閉めた。


 その手で昨日、三人がかりで若い漁師の腕を手当てしてくれた。

それでも、あの婆さんのことになると、戸が閉まる。


 二人目の戸口を出たところで、浜のほうを見た。


 石の上に、女がいた。


 朝、小屋の並びまで連れ戻したはずだった。

運んでいく者は、見かけなかった。


 ――自分の足で、歩いて戻ったのか。


 石まで下りた。潮はまだ来ていない。


 隣に座る場所は無かった。

石の根元は濡れている。


 ――なんで戻った、とは訊(き)けないな。

連れていったのは、こっちの都合だ。


 立ったまま、何も訊(き)かずにそばにいた。

波が何度も寄せて、寄せては退(ひ)いた。


 石工(いしく)のときは隣に座って、それで足りた。


 ――ここには、座るところ(・・・・・)が無い。


 日が巡って、影の向きが変わった。

潮が踵(かかと)まで来て冷たい。


 抱えた膝は、朝と同じだ。


「また来る」


 返事は待たなかった。

浜を上がって、三人目の戸口へ回った。


 家の前で、年寄りが背を丸めて手を動かしている。


「少し、いいか」


 清(せい)が、蓬(よもぎ)を揉(も)んでいた手を止めて顔を上げた。


「石の婆さんを、見ていてやってくれ。

潮が石を越えたら、あの若いのに知らせてやってくれ」


 昨日、同じことを頼んだ相手は、いま腕を吊(つ)っている。


 清(せい)はすぐには答えず、手もとに目を落とした。


「……あの若いのは、寝かせとかんと、腕がくっつかん。

あんたが戻るまでだな」


「戻る。山まで行って帰って、七日か八日だ」


「戻ってきたら、見とるのはその日で仕舞(しま)いだ」


 頭を下げた。

期限を切ってくる相手のほうが、かえって当てにできる。


 朝のうちに発(た)つつもりが、頼みごと一つに、半日かかった。

年寄りは揉(も)んでいた蓬(よもぎ)を半分に分けて、片方をこっちの荷へ押し込んだ。


「背中。まだ塞(ふさ)がっとらんだろ」


 荷の口から、青い匂いが立った。


「治ったら、礼を言いに来る」


 年寄りは鼻を鳴らして、残りの蓬(よもぎ)をまた揉(も)みはじめた。


 浜へ来た日に、余分はねえと断ってきた家では、こっちが積んで、楽々森彦(ささもりひこ)が割った薪が、半分ほど減っていた。

この家で借りた鍋は、戸口の脇に伏せて返してある。

閉じた戸の煙出しから、細い煙が上がっていた。


 浜の外れまで歩いた。


 屋根の落ちた小屋の前で、崩れた砂から、石の根元が二つ、人が三人は並んで通れるほどの間を空けて頭を出していた。

あれが浜へ来た日に年寄りが言っていた、石の鳥居の根元だろう。


 その二つのあいだの先に、箱の男が座っている。

坂を下りたときと同じ場所に、同じ格好だ。

顎(あご)の線は、昨日手を離したところに留まっている。


「山まで行ってくる。何日か、留守にする」


 男は砂を見たままだった。


 聞こえたかどうかは、分からない。

それでも、言ってから行く。


 男の目が、一度だけ、こっちの足もとへ動いた。


 あの男は、どこへも行きそうにない。

三年でも三百年でも、ずっとそこにいた者だ。

三百年に比べれば、数日の留守など瞬(まばた)きほどだろう。


 それに、今の手持ちであの男にできることは、もう無かった。

爪を立てれば、あの男の形が崩れる。

崩れれば、まわりの順序まで狂う。

手をつける前に、知らなきゃならないことがまだあった。


 あれは何だったんだ、と若い漁師に訊(き)かれて、分からんとしか言えなかった。


 ――その答えを、山で探してくる。


  ◇


 日はもう傾いていた。

坂を上がると、松の根方(ねかた)で楽々森彦(ささもりひこ)が荷をまとめて待っていた。

ゆうべ、朝には発(た)つと言ってあった。


「待たせた」


「朝には、と聞いてたがね」


 返す言葉が無い。


「どこへ行く」


「北の山だ。

麓(ふもと)の里の記録蔵は、あんたと洗ったろう。

あの社(やしろ)の奥にも、古い書きつけが積んであるらしい」


「向こうへ渡って、帰ってきた話。

……あの箱の男みたいなのが、ほかにもいたかどうか、か」


「いたなら、その先が、どこかに書いてあるかもしれん」


 楽々森彦(ささもりひこ)は少し考えて、荷を背負い直した。


「里までは、一緒に行く。

……それより先は、どうせ足がついていかねえ」


 浜を背にして、三日、歩いた。


 潮の匂いが薄れて、土と草の匂いに変わっていく。

楽々森彦(ささもりひこ)は道々、どの沢の水がうまいだの、芋は皮ごと煮るに限るだの、どうでもいい話ばかりよく喋った。

浜の底で何があったかは、ひとことも訊(き)かない。

訊(き)かないまま、当たり障りのない話をしてくれているのだろう。


 下手な気の遣い方だと思いながら、相槌(あいづち)だけは、ずっと打っていた。


 三日目の日暮れに、里へ着いた。

楽々森彦(ささもりひこ)が祠(ほこら)の字を彫り直しに戻った、あの里だ。

入っていくと、何人かが顔を上げてこの男に声をかける。

山でのことがあってから、この里ではこの男を名前で呼ぶ。


 浜では、そろそろ潮が満ちるころだろう。

石の裾を越えれば、呼びに行くのは、腕を吊(つ)ったあの男になる。


  ◇


 夜、里の火を囲んで輪になった。


 楽々森彦(ささもりひこ)のほかに、里の者が数人加わった。

浜へ網の繕(つくろ)いに出向く者もいれば、山の麓(ふもと)の釜番の身内もいる。

十人ほどの輪だ。

鍋で芋が煮えて、串に刺したのが皿に載って回っていく。

端に座った語り部が、いちばんよく喋った。

浜を先に発(た)って、こっちより早く里へ戻っていたらしい。


 楽々森彦(ささもりひこ)は串を二本、続けて平らげた。


「よく食うようになったなあ」


 釜番の身内の年寄りが笑った。


「名を彫り直しに来たときは、汁を半分残して帰ったくせに」


「勘弁してくれ、福(ふく)さん。

あのころは、腹に何を入れても、味がしなかったんだ」


 楽々森彦(ささもりひこ)は三本目に手を伸ばして、それきり言い訳をしなかった。


 火のまわりは暖かく、芋の串を載せた皿が回ってきて、目の前に置かれる。


 一本取って、串の芋を、一つだけ口に入れた。

熱くて、息を吐く。


 鍋の湯が沸くと、手の空いているこっちは、めいめいの湯呑みに白湯(さゆ)を注いで回った。

楽々森彦(ささもりひこ)の湯呑みは注ぐそばから空いていく。

名を取り戻してから、この男はよく食いよく飲む。


 注ぎ終えて、その隣に腰を下ろす。

膝のわきに置いたこっちの湯呑みから、湯気がまっすぐ立っている。

注いだ高さのまま、減らない。

隣の男の湯呑みが空くたび、鍋から足してやった。

注ぐ端から空くのは、なかなか悪くない。

こっちの湯呑みには、手が伸びなかった。


 楽々森彦(ささもりひこ)が湯をすすって、空いた自分の湯呑みと、こっちのを見比べた。

口の端だけで笑って、息をつく。


「足さえ言うことをきけば、山までついて行くんだがな」


「里で待っていろ。

北の社(やしろ)は、あんたの足に障る」


「分かってるさ。

あの石段は、この足で上りきった。

今度は、置いていかれるんじゃねえ。

待つほうを、俺が選ぶ。

……留守を頼まれに来たわけじゃ、ないんだがね」


 軽い口ぶりだった。

隣の湯呑みがまた空いていたので、黙って足してやった。


  ◇


 火が少し落ちて、鍋の湯も冷めかけたころだった。

明日の朝が早い者から一人、また一人と腰を上げていく。

鍋を洗いに立つ者もいた。


「飲みすぎて、夜中に何べんも起きるなよ」


 福(ふく)さんが楽々森彦(ささもりひこ)の肩をひとつ叩いて、先に立っていった。


 輪が半分ほどになったところで、端の語り部が膝の上で紙の束をそろえた。

浜じゅうを回って、あの箱の男の話を集めてきたのだという。


「先に言っとくがね、これは当人の話じゃない。

周りが勝手に語ってきた話だ。

……そっちなら、おれが喋っても決まりに障らん」


 誰に向けてでもなく、そう断ってから始めた。


「どれもこれも、おんなじ形さ。

開けるなと言われた箱を開けて、勝手に老いた。

逃げ戻って、罰を受けた愚か者。

……子どもに聞かせる、戒(いまし)めの話だ」


 束を繰(く)って、一枚のところで指を止めた。


「ただ、ひとつだけ、毛色が違う。

……こいつは、『あの人は、誰かを探して帰ってきた』と言っとる。

ほかは全部『逃げ戻った』ことになっとるのに、この一枚だけな」


 語り部はその一枚をしばらく見てから束の下へ戻し、束ごと膝へ伏せた。

意味までは、言わなかった。


「そういえば」


 語り部が思い出したように顔を上げた。


「浜に、もう一人来てたよ。

外れに座っとる箱のあの人を、遠くから、ただ見とった。

銭も置かず、話も集めず、声もかけずにな。

……見物に来るだけのもんなら、ほかにもおるさ。

けど、あれは何をしに来たんだか、さっぱり読めなくてね。

妙に、引っかかる」


 背格好は、と訊(き)いた。歳は。

いつから居た。どこへ行った。


 語り部は一つずつ思い出そうとして、そのたび首を振った。

四つ訊(き)いて、四つとも。


「……おかしいな。この目で見たんだ。

見たのに、何ひとつ出てこん」


 語り部は自分の額を指で押さえた。

人の顔を覚えて食ってきた男が、初めて見せる顔だった。

――山の麓(ふもと)の里では、祠(ほこら)の名を彫り直したあの男を、いまは名で呼ぶ。

呼ばれるようになってから、ずいぶんよく食うようになったそうな。

腹が減るのは、名が戻ってきた証拠(しょうこ)だと、釜番の身内は笑っていたがね。

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