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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第二章 開けて悔しき浜の箱

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借りていく

――風の便り

「よそ者が、石の婆さんを抱えて小屋の前まで運んだとよ」

「昼前にはもう、石の上に戻っとった。誰も運んどらんのに」

「見とってくれと頼んで回っても、あの石の話になると、どこの戸も閉まる」

「蓬(よもぎ)の清(せい)さんだけが、戻るまでなら、と引き受けたそうな」

「坂の上の飯炊きの連れは、荷をまとめて、日が傾くまで待たされとったわ」

 朝、里を出て北の山へ登った。

浜を空けるのは、行って帰って七日か八日と決めてある。

そのあいだ、石の婆さんのことは浜の年寄り一人に頼んできた。


 楽々森彦(ささもりひこ)は里はずれまで見送りに来て、そこから火のそばへ戻っていった。


 石段には、あの重圧がある。

里の者は平気で上り下りするのに、楽々森彦(ささもりひこ)だけは膝を沈ませて、それでも拍を数えて自分の足で上りきった。


 今日は隣にその姿がない。

段を踏むたびに、こっちの足音だけが響く。


 朝の石はひやりとして、草鞋(わらじ)の裏から冷えが上がってきた。

こっちの膝は沈みもせず、里の道を歩くときと同じように動く。

今日も、この身には何も起きない。

重圧のことは隣を見て知っていただけだ。


 一人なら、ただ冷たくて長いだけの石段だった。


 社(やしろ)の前に立つと、奥の気配はひとつきりだった。

押し合う軋(きし)みは、もう無い。


 開いたままの戸から、打ち台の平石の脇を抜けて奥へ入る。

書きつけを納めた棚の前に立つと、そのさらに奥の暗がりから温羅(うら)の声が鳴った。

低く掠(かす)れているのは、あの晩と変わらない。


「……また来たか。回収屋」


「……湿っぽいのは、抜けたな」


「もう、唸(うな)らねえで済むからな」


「聞きとりやすくて、助かる。

……借りたいものがある」


「そう言うと思ったさ。棚の、右の奥だ」


 棚は薄明かりの中でも、そこだけ滲(にじ)んで視えた。

里の者が上がってきては足すのだろう、燭(しょく)の脂が受け皿に厚く溜まっている。


 右の奥に、社(やしろ)の言い伝えを写した帳とは別の、古い書きつけの束があった。

虫の食った紙に薄い墨で、海の向こうへ渡って帰った者たちの話が、いくつもまとめてある。


 燭(しょく)の明かりへ一枚ずつ寄せて、繰(く)っていった。

この山の話は、一枚もない。

どこの浜とも、いつの世とも知れぬ書きつけばかりが、いくつもの手で写し継がれて、こんな山の棚まで流れ着いている。

元がどこにあるのかは、どの紙にも書いていない。


 どれも短い。

向こうで宝を貰った者、鶴になって飛んだ者、開けてはならぬ物を開けて灰になった者。

話の尻は、みな違っていた。


 だが、どの一枚も、帰り着いたところで話が仕舞(しま)いになる。

そのあとの日々を書いた行は、まず出てこない。


 そのうちの一枚で、目が止まった。


 ずっと昔、よその浜の話だ。

向こうから帰った男に、里の者が「よく帰った」と声をかける。

男はそのたび、同じことを返したという。


 〈まだ、済んでねえ(・・・・・)〉


 その一枚だけ、仕舞(しま)いの行が無かった。

男がそのあとどうなったかは書かれないまま、写しだけが手から手へ継がれて、ここまで来ている。


 浜の外れの、箱の男を思い出した。

戻ったとは言っても、帰ったとは一度も言わない男だ。


 里の火のそばでは、語り部も束を繰(く)る指を一枚のところで止めた。

ほかは逃げ戻った話ばかりで、その一枚だけが違う。

あの人は、誰かを探して帰ってきた、と。


 その顔に貼りついた一枚は、爪で端を起こすと崩れ、掌(てのひら)で伏せると、そこで留まった。


 押し返すもののない一枚が、なぜ掌(てのひら)で伏せれば留まったのか。

帳面にそう書いたきり、答えは出ていない。


 この紙の男は、済んでいないと言い続けた。

話のほうも、仕舞(しま)いにならずに残っている。

灰になったとも崩れたとも、書いていない。


 ――済んでいないものは、崩れないのか。


 答えと呼べるほどのものではない。

それでも、浜を出てから初めて、何を確かめればいいかが見えた。

三日歩いた甲斐(かい)は、紙一枚ぶんあった。


 残りの紙を繰(く)っていると、奥から声がかかった。


「あの、拍の男は」


「里で待たせてる。

……留守の番は、あっちが選んだ」


「……そうかい。あれは、いい耳だ。

数百年ぶりに、俺の拍を、まともに聞いた耳だからな」


「……こっちも、あの晩、聞いた」


「聞いたな」


「あれから、唄(うた)が離れない」


 山は静かだった。

それでも、背中のすぐうしろで、あの拍が鳴っている。


 紙に目を落としたまま、続けた。


「離れるまで歩く。そう決めて、山を出た」


「……なんで離れたい」


 繰(く)りかけた紙を、指で押さえた。


 すぐには、答えが出てこなかった。


 背中の唄(うた)は、温羅(うら)と里の者たちのものだ。

あの晩に横で聞いていただけのこっちが、背負って歩くものじゃない。


「……返せん」


 奥で、低い音が一つ鳴った。

笑ったらしい。


「拾ったもんは、みんな返す気か」


 返す気でいた。


 ――拾ったものは、持ち主へ返す。

そうやって食ってきたんだ。


 言い返すより先に、声が続いた。


「……唄(うた)は、返すもんじゃねえよ、回収屋」


 棚の奥で、燭(しょく)の火が一度ゆれた。


「数百年、聞く者がいなかった。

だから、俺のところにあった。

……いまは、おまえが聞いた。

そう簡単には離れんさ」


 紙の端を押さえたまま、黙っていた。


「……それに、さっき俺は、拍と言ったんだ。

それを唄(うた)と言い直したのは、おまえのほうだ」


 言われてみれば、そう呼んでいた。


 押さえていた紙を、また繰(く)る。

その音を聞いてか、温羅(うら)の声が鳴った。


「向こうから帰った者は、みんな似た目をしてる。

……帰ってきたのに、まだ帰り着いてないような目だ」


「会ったことが、あるのか」


「唸(うな)ってた頃に、一度だけな。

あの浜の男とは、会っちゃいねえ。

……だが、話のほうは、こっちの棚にも流れ着く」


「……その一度は、どんな風だった」


 声は、すぐには返らなかった。


「遠目だ。唸(うな)るしか能のなかった頃で、戸の隙間から、外がひと筋見えるだけだった。

……石段を上りきって、そこで止まった。

ここまでは、来なかった。

拝みも、供えも、しなかった」


「それだけか」


「日が傾くまで、立ってた。

立ち姿が、いっぺんも揺れなかった。

……顔は日に焼けてた。

その顔の中で、目だけが、こっちの社(やしろ)を見てなかった。

どこを見てるのかは、分からなかった」


「去り際(ぎわ)は、どうだった」


「日が落ちる前に、背を向けた。

振り返らなかった。

上ってきたときと同じ足取りで、下りてった。

……こっちは、唸(うな)って見送った。

それしか、できなかった」


 奥の声は、そこで途切れた。


 手もとの束に目を戻す。

話のほうは棚にも流れ着く、と温羅(うら)は言っていた。

なら、この束はいつから、どこから流れてきたのか。

紙を繰(く)りながら、しばらくそればかり考えていた。


 その手が、止まった。

棚の右の奥だけが、まだ滲(にじ)んで視えている。


 ――そもそも、なぜこんなものが視えるんだったか。


 考えかけて、やめた。

今さら、答えの出る話でもない。


 書きつけを閉じて、脇に挟んだ。


 棚の礼にと、荷から砥石(といし)をひとつ出した。

浜へ来た日に裏手で薪を拾ったとき、下から出てきたものだ。

塩をかぶっていたが、面はまだ生きている。

磨けば、刃物の一本くらいは研(と)げるだろう。


 打ち台の脇に、そっと置いた。


「……礼のつもりか」


「借り賃だ。書きつけは、借りていく。

話の礼も込みでな」


「持って行きな。

ここのは、どうせ、もう誰も読まねえ」


 戸口で、一度だけ振り返った。


「……邪魔をした」


 返事の代わりに、奥で低い音が短く鳴った。


  ◇


 石段を下りしなに、山の際(きわ)を探した。

前に視た罅(ひび)は、まだそこにある。


 里へ下りて、楽々森彦(ささもりひこ)と浜への道を引き返した。

書きつけは荷の一番深いところに入れてある。


 最初の晩、道ばたの火のそばで帳面を開いて、一行だけ書いた。


 〈よその浜にも、「帰った」と言わなかった男がいた〉


 帳面を閉じて荷にしまってからも、書きつけのほうは、歩くたびに背中の傷の塞(ふさ)がりきらないところへ当たってくる。


  ◇


 里を出て三日目、坂の上で楽々森彦(ささもりひこ)が足を止めた。

坂の下は、もう浜だ。

この男の膝では、ここから先へは下りられない。


「ここまでだな」


「ああ」


「火を焚(た)いて、飯も炊いとく」


 荷を下ろす手つきに迷いがなかった。

座る場所は、来る道々でもう決めていたらしい。


「……頼む。飯が楽しみだ」


 楽々森彦(ささもりひこ)は返事の代わりに、かまどにする石を拾いはじめた。


 坂の上から浜が見えた。

潮は退(ひ)いている。

波打ち際(ぎわ)から離れた石が、根元まで乾いて出ていた。


 その上に、女が一人座っている。

膝の輪郭が肩より高い。

顔は沖のほうを向いている。


 桶を提(さ)げた者が二人、石の手前で向きを変えて、遠回りに歩いていった。

浜を発(た)つ前と、同じ歩き方だった。


 坂を下りて砂を踏むと、舟溜(ふなだ)まりのほうから声が飛んできた。


「ともが重いぞ。積みすぎだ」


「まだ半分も積んでねえよ」


 網を繕(つくろ)っていた年寄りが、こっちに気づいて顔を上げた。

発(た)つ前に石の婆さんを頼んで、蓬(よもぎ)を分けてもらった清(せい)だ。


「戻ったか」


「戻った」


「じゃあ、こっちは仕舞(しま)いだな。

あんたが戻るまで、という話だった」


「助かった。手間をかけた」


 荷から、里で分けてもらった粟(あわ)の袋を出して、繕(つくろ)いかけの網の脇へ置いた。

手渡しはしない。

繕(つくろ)う手は止まらなかったが、目だけが袋のほうへ動いた。


「……背中は」


「まだ塞(ふさ)がらん。

蓬(よもぎ)の礼は、治ってから言いに来る」


 年寄りは鼻を鳴らしただけで、網から目を上げなかった。


 小屋の陰から若い漁師が出てきた。

右腕は首から吊(つ)ったままだ。

添えた板が、前より細いものに替わっている。


「長かったな」


「片道、三日の道でな。

腕、だいぶよくなったみたいだな」


「向こうで、何か知れたか」


「一つだけな」


 若い漁師が頷(うなず)いて、それから石のほうを見た。


「婆さんが、いつもより長く座ってる」


 石にいるのが長い、という話なら、発(た)つ前にも聞いた。

男の顔は、そのときより硬かった。


「潮が石を越えても、動かねえ。

呼びに行ったが……もう、返事も返ってこなくなった」


「見ててくれた爺さんは」


「あんたに頼まれた日から、潮が越えるたびに知らせに来た。

そのたび、俺が石まで呼びにいった。

……はじめは顔を上げた。

次は、目を動かすだけだった」


 網のほうを振り返った。

年寄りは粟(あわ)の袋の脇で網の目を拾っていて、こっちを見ない。

その背中へ頭を一つ下げてから、若い漁師のほうへ向き直った。


「その腕で、走らせたな。……恩に着る」


「婆さんのためだ」


 もう一度頼めば、石まで走るのは、また腕を吊(つ)ったこの男になる。


 石の上の女には、浜を出る日に「また来る」と言ってあった。

山で知れたのは箱の男のほうの話で、あの女については浜へ来た日から手持ちが一つも増えていない。


 潮の線を見た。

石はまだ根元まで出ている。

次に越えるまで、半日しかない。

――山の社(やしろ)では、近ごろ、打ち台の脇に砥石(といし)がひとつ増えた。

誰が持って上がったのか、里の者は知らん。

面はまだ生きとるから、片づける者もおらんでね。

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