借りていく
――風の便り
「よそ者が、石の婆さんを抱えて小屋の前まで運んだとよ」
「昼前にはもう、石の上に戻っとった。誰も運んどらんのに」
「見とってくれと頼んで回っても、あの石の話になると、どこの戸も閉まる」
「蓬の清さんだけが、戻るまでなら、と引き受けたそうな」
「坂の上の飯炊きの連れは、荷をまとめて、日が傾くまで待たされとったわ」
朝、里を出て北の山へ登った。
浜を空けるのは、行って帰って七日か八日と決めてある。
そのあいだ、石の婆さんのことは浜の年寄り一人に頼んできた。
楽々森彦は里はずれまで見送りに来て、そこから火のそばへ戻っていった。
石段には、あの重圧がある。
里の者は平気で上り下りするのに、楽々森彦だけは膝を沈ませて、それでも拍を数えて自分の足で上りきった。
今日は隣にその姿がない。
段を踏むたびに、こっちの足音だけが響く。
朝の石はひやりとして、草鞋の裏から冷えが上がってきた。
こっちの膝は沈みもせず、里の道を歩くときと同じように動く。
今日も、この身には何も起きない。
重圧のことは隣を見て知っていただけだ。
一人なら、ただ冷たくて長いだけの石段だった。
社の前に立つと、奥の気配はひとつきりだった。
押し合う軋みは、もう無い。
開いたままの戸から、打ち台の平石の脇を抜けて奥へ入る。
書きつけを納めた棚の前に立つと、そのさらに奥の暗がりから温羅の声が鳴った。
低く掠れているのは、あの晩と変わらない。
「……また来たか。回収屋」
「……湿っぽいのは、抜けたな」
「もう、唸らねえで済むからな」
「聞きとりやすくて、助かる。
……借りたいものがある」
「そう言うと思ったさ。棚の、右の奥だ」
棚は薄明かりの中でも、そこだけ滲んで視えた。
里の者が上がってきては足すのだろう、燭の脂が受け皿に厚く溜まっている。
右の奥に、社の言い伝えを写した帳とは別の、古い書きつけの束があった。
虫の食った紙に薄い墨で、海の向こうへ渡って帰った者たちの話が、いくつもまとめてある。
燭の明かりへ一枚ずつ寄せて、繰っていった。
この山の話は、一枚もない。
どこの浜とも、いつの世とも知れぬ書きつけばかりが、いくつもの手で写し継がれて、こんな山の棚まで流れ着いている。
元がどこにあるのかは、どの紙にも書いていない。
どれも短い。
向こうで宝を貰った者、鶴になって飛んだ者、開けてはならぬ物を開けて灰になった者。
話の尻は、みな違っていた。
だが、どの一枚も、帰り着いたところで話が仕舞いになる。
そのあとの日々を書いた行は、まず出てこない。
そのうちの一枚で、目が止まった。
ずっと昔、よその浜の話だ。
向こうから帰った男に、里の者が「よく帰った」と声をかける。
男はそのたび、同じことを返したという。
〈まだ、済んでねえ〉
その一枚だけ、仕舞いの行が無かった。
男がそのあとどうなったかは書かれないまま、写しだけが手から手へ継がれて、ここまで来ている。
浜の外れの、箱の男を思い出した。
戻ったとは言っても、帰ったとは一度も言わない男だ。
里の火のそばでは、語り部も束を繰る指を一枚のところで止めた。
ほかは逃げ戻った話ばかりで、その一枚だけが違う。
あの人は、誰かを探して帰ってきた、と。
その顔に貼りついた一枚は、爪で端を起こすと崩れ、掌で伏せると、そこで留まった。
押し返すもののない一枚が、なぜ掌で伏せれば留まったのか。
帳面にそう書いたきり、答えは出ていない。
この紙の男は、済んでいないと言い続けた。
話のほうも、仕舞いにならずに残っている。
灰になったとも崩れたとも、書いていない。
――済んでいないものは、崩れないのか。
答えと呼べるほどのものではない。
それでも、浜を出てから初めて、何を確かめればいいかが見えた。
三日歩いた甲斐は、紙一枚ぶんあった。
残りの紙を繰っていると、奥から声がかかった。
「あの、拍の男は」
「里で待たせてる。
……留守の番は、あっちが選んだ」
「……そうかい。あれは、いい耳だ。
数百年ぶりに、俺の拍を、まともに聞いた耳だからな」
「……こっちも、あの晩、聞いた」
「聞いたな」
「あれから、唄が離れない」
山は静かだった。
それでも、背中のすぐうしろで、あの拍が鳴っている。
紙に目を落としたまま、続けた。
「離れるまで歩く。そう決めて、山を出た」
「……なんで離れたい」
繰りかけた紙を、指で押さえた。
すぐには、答えが出てこなかった。
背中の唄は、温羅と里の者たちのものだ。
あの晩に横で聞いていただけのこっちが、背負って歩くものじゃない。
「……返せん」
奥で、低い音が一つ鳴った。
笑ったらしい。
「拾ったもんは、みんな返す気か」
返す気でいた。
――拾ったものは、持ち主へ返す。
そうやって食ってきたんだ。
言い返すより先に、声が続いた。
「……唄は、返すもんじゃねえよ、回収屋」
棚の奥で、燭の火が一度ゆれた。
「数百年、聞く者がいなかった。
だから、俺のところにあった。
……いまは、おまえが聞いた。
そう簡単には離れんさ」
紙の端を押さえたまま、黙っていた。
「……それに、さっき俺は、拍と言ったんだ。
それを唄と言い直したのは、おまえのほうだ」
言われてみれば、そう呼んでいた。
押さえていた紙を、また繰る。
その音を聞いてか、温羅の声が鳴った。
「向こうから帰った者は、みんな似た目をしてる。
……帰ってきたのに、まだ帰り着いてないような目だ」
「会ったことが、あるのか」
「唸ってた頃に、一度だけな。
あの浜の男とは、会っちゃいねえ。
……だが、話のほうは、こっちの棚にも流れ着く」
「……その一度は、どんな風だった」
声は、すぐには返らなかった。
「遠目だ。唸るしか能のなかった頃で、戸の隙間から、外がひと筋見えるだけだった。
……石段を上りきって、そこで止まった。
ここまでは、来なかった。
拝みも、供えも、しなかった」
「それだけか」
「日が傾くまで、立ってた。
立ち姿が、いっぺんも揺れなかった。
……顔は日に焼けてた。
その顔の中で、目だけが、こっちの社を見てなかった。
どこを見てるのかは、分からなかった」
「去り際は、どうだった」
「日が落ちる前に、背を向けた。
振り返らなかった。
上ってきたときと同じ足取りで、下りてった。
……こっちは、唸って見送った。
それしか、できなかった」
奥の声は、そこで途切れた。
手もとの束に目を戻す。
話のほうは棚にも流れ着く、と温羅は言っていた。
なら、この束はいつから、どこから流れてきたのか。
紙を繰りながら、しばらくそればかり考えていた。
その手が、止まった。
棚の右の奥だけが、まだ滲んで視えている。
――そもそも、なぜこんなものが視えるんだったか。
考えかけて、やめた。
今さら、答えの出る話でもない。
書きつけを閉じて、脇に挟んだ。
棚の礼にと、荷から砥石をひとつ出した。
浜へ来た日に裏手で薪を拾ったとき、下から出てきたものだ。
塩をかぶっていたが、面はまだ生きている。
磨けば、刃物の一本くらいは研げるだろう。
打ち台の脇に、そっと置いた。
「……礼のつもりか」
「借り賃だ。書きつけは、借りていく。
話の礼も込みでな」
「持って行きな。
ここのは、どうせ、もう誰も読まねえ」
戸口で、一度だけ振り返った。
「……邪魔をした」
返事の代わりに、奥で低い音が短く鳴った。
◇
石段を下りしなに、山の際を探した。
前に視た罅は、まだそこにある。
里へ下りて、楽々森彦と浜への道を引き返した。
書きつけは荷の一番深いところに入れてある。
最初の晩、道ばたの火のそばで帳面を開いて、一行だけ書いた。
〈よその浜にも、「帰った」と言わなかった男がいた〉
帳面を閉じて荷にしまってからも、書きつけのほうは、歩くたびに背中の傷の塞がりきらないところへ当たってくる。
◇
里を出て三日目、坂の上で楽々森彦が足を止めた。
坂の下は、もう浜だ。
この男の膝では、ここから先へは下りられない。
「ここまでだな」
「ああ」
「火を焚いて、飯も炊いとく」
荷を下ろす手つきに迷いがなかった。
座る場所は、来る道々でもう決めていたらしい。
「……頼む。飯が楽しみだ」
楽々森彦は返事の代わりに、かまどにする石を拾いはじめた。
坂の上から浜が見えた。
潮は退いている。
波打ち際から離れた石が、根元まで乾いて出ていた。
その上に、女が一人座っている。
膝の輪郭が肩より高い。
顔は沖のほうを向いている。
桶を提げた者が二人、石の手前で向きを変えて、遠回りに歩いていった。
浜を発つ前と、同じ歩き方だった。
坂を下りて砂を踏むと、舟溜まりのほうから声が飛んできた。
「ともが重いぞ。積みすぎだ」
「まだ半分も積んでねえよ」
網を繕っていた年寄りが、こっちに気づいて顔を上げた。
発つ前に石の婆さんを頼んで、蓬を分けてもらった清だ。
「戻ったか」
「戻った」
「じゃあ、こっちは仕舞いだな。
あんたが戻るまで、という話だった」
「助かった。手間をかけた」
荷から、里で分けてもらった粟の袋を出して、繕いかけの網の脇へ置いた。
手渡しはしない。
繕う手は止まらなかったが、目だけが袋のほうへ動いた。
「……背中は」
「まだ塞がらん。
蓬の礼は、治ってから言いに来る」
年寄りは鼻を鳴らしただけで、網から目を上げなかった。
小屋の陰から若い漁師が出てきた。
右腕は首から吊ったままだ。
添えた板が、前より細いものに替わっている。
「長かったな」
「片道、三日の道でな。
腕、だいぶよくなったみたいだな」
「向こうで、何か知れたか」
「一つだけな」
若い漁師が頷いて、それから石のほうを見た。
「婆さんが、いつもより長く座ってる」
石にいるのが長い、という話なら、発つ前にも聞いた。
男の顔は、そのときより硬かった。
「潮が石を越えても、動かねえ。
呼びに行ったが……もう、返事も返ってこなくなった」
「見ててくれた爺さんは」
「あんたに頼まれた日から、潮が越えるたびに知らせに来た。
そのたび、俺が石まで呼びにいった。
……はじめは顔を上げた。
次は、目を動かすだけだった」
網のほうを振り返った。
年寄りは粟の袋の脇で網の目を拾っていて、こっちを見ない。
その背中へ頭を一つ下げてから、若い漁師のほうへ向き直った。
「その腕で、走らせたな。……恩に着る」
「婆さんのためだ」
もう一度頼めば、石まで走るのは、また腕を吊ったこの男になる。
石の上の女には、浜を出る日に「また来る」と言ってあった。
山で知れたのは箱の男のほうの話で、あの女については浜へ来た日から手持ちが一つも増えていない。
潮の線を見た。
石はまだ根元まで出ている。
次に越えるまで、半日しかない。
――山の社では、近ごろ、打ち台の脇に砥石がひとつ増えた。
誰が持って上がったのか、里の者は知らん。
面はまだ生きとるから、片づける者もおらんでね。




