優しい手つき
――風の便り
「山へ行っとったよそ者が戻ってきてね。清さんの網の脇に、粟の袋を置いてったと」
「手渡しもせんで。清さん、網を繕う手は止めんかったが、目だけは袋を追っとったよ」
「あの若いのは、腕を吊ったまんま、潮が越えるたびに石まで走っとった」
「石の婆さん、近ごろは呼ばれても、目を動かすだけだそうな」
里からの三日の道で、語り部の話を思い返した。
箱の男の話は、浜ではどれも戒めの形をしている。
石の上の女は、話にすら上がらない。
潮の線から、石の上へ視線を戻した。
女は沖を向いたまま、動かない。
呼んでも、もう返事は返らないという。
隣で、若い漁師が同じ石を見ている。
潮が越えるのは、日暮れだ。
「潮が次に越える前に、もう一度、あの石まで行く」
「……ああ」
その前に、外れの箱の男へ戻ったと告げに行く。
日暮れまでなら、外れを回って戻る間はある。
浜の外れへ向かうと、若い漁師も付いてきた。
「来なくていい。腕に障る」
「……俺の腕が何に折られたのか、まだ聞いてねえ」
「……まだ、分からん」
「なら、そばで見とく」
崩れた小屋が見えてくると、若い漁師の足が半歩ぶん遅れた。
吊った腕を左手で胸へ寄せる。
だが足は、止まりはしなかった。
舟溜まりのほうから続いてきた砂浜は、この外れで終わる。
その先は、すぐ岩場の付け根だ。
小屋の前の砂から、石の根元が二つ、頭を出している。
そのあいだを抜けた先に、箱の男が砂に胡座をかいていた。
膝の箱の、紐の結び目が腹の正面にある。
屋根が落ちる前から日ごとに右へ寄っていく結び目で、発つ前は左の膝頭の外にあった。
留守のあいだに箱を幾回りしたのかは、確かめようがない。
「留守のあいだに、誰か来たか」
「来たな」
山へ発つ前に声をかけたときは、砂を見たままだった。
今日は答えが返ってくる。
「誰が」
「……来る前に、名を訊いた」
名を訊いたのは、箱の男のほうだ。
「あんたが浜へ戻ってから、どれくらいになる」
「ああ……まだ、ここだ」
相変わらず、箱の男は、訊いたことにまっすぐは答えない。
誰を訊けば、何をしたかを。
いつを訊けば、どこかを答える。
誰が来たのかは、分からないままだ。
あたりを見回すと、小屋の並びの端にもう一人、男が立っていた。
浜の者ではない。
着ているものに、潮の染みが一つも無い。
浜の者の着物はどれも裾が塩を吹いている。
この男の着物だけが、裾まで乾いている。
たくし上げた袖から出た腕に、古い傷が何本かあった。
しかし手だけが、その傷と釣り合わないほど綺麗だった。
顔に目をやると、何も載っていない。
一枚も載っていない顔なら、いつもはひと目見てそれで済む。
だがこの顔は、ひと目で済まなかった。
何も無い。無いのに、目が離せない。
視るほうが、何かを勝手に探しつづけていると、男のほうが先に口を開いた。
「あんたが、拾って歩いてる人だね」
「そう聞いたか」
「見ていたよ。あの日、そこの小屋が落ちたときにね」
声を張らない男だった。
こっちの半分ほどの速さで、ゆっくり喋る。
「若い人の腕は、どうだい」
「くっつくかは、分からんそうだ」
「そうかい。……それは、あんたのせいだよ」
叱る言い方ではなかった。
掌を上に向けて、そこに誰かの腕でも乗っているように、指の腹で軽く撫でた。
人の腕を診てきたような手の動きだ。
すぐうしろで、若い漁師の左手が吊った腕を押さえた。
目の前の男は、そっちを見もしない。
乾いた着物の男は、箱の男のほうへ目をやった。
「あの人は、順序を無くしてるんだよ。
何が先で、何が後だったかをさ。
……それを返して、どうするんだい」
さっきの、あのずれた答え方のことだ。
「浜の人らが三年だ三百年だと言い合っているぶん、まるごと失くしたものが、いっぺんに本人の中へ戻るんだ。
生き返らせるのとは違うよ。責め苦さ」
「返しても、失くしたぶんがいっぺんに戻るとは、決まっていない」
「それは、正しいね。
でも……正しいまま、人は壊れるんだよ」
言い返す先が無かった。
壊れかけるところなら、この手が知っている。
「あんたは」
「楽にしてあげるのさ。
泣いてる子を揺すって寝かせるのと、同じことだよ。
……戻るほど苦しいなら、戻さないのも手当てだ」
掌を上に向けたまま、続けた。
「痛みを終わらせてやるのを、慈悲と言うんだよ。
……前にも、いたね。ずっと昔、よその土地で」
答えなかった。
その言葉の並びを、前に一度、紙の上で見たのを思い出した。
〈唸りは、苦しみだ。黙らせてやるのが、慈悲だ〉
里の隅の記録蔵で、埃の積もり方が違う一角から出てきた古い帳面の、一行だ。
名も、場所も、書きかけで途切れていた。
――黙らせた手と、この手と、どこが違う。
「あの人が、忘れたままでいたいと言ったら、どうするんだい。あんたは」
返す言葉は、あるはずだった。
だが、要らないと言う持ち主に、押しつけて返したことは無い。
向こうの言い分は、その一点では正しい。
それでも、呑み込む訳にはいかなかった。
「……あの人に訊く」
「訊いたって、いまのあの人は、まっすぐには答えられないよ。
答えられるようにした時点で、あんたはもう返しはじめてるのさ」
そこで、話は切れた。
乾いた着物の男が、箱の男のほうへゆっくり歩き出す。
その前へ入った。
どいてくれ、とは言われなかった。
言葉の代わりに襟を掴まれた。
引かれて、砂に転がる。
背中の傷が開いたのが、布の内側の温かさで分かる。
起き上がりざまに、相手の足首へ手を伸ばした。
掴んで、引き倒すつもりだった。
掴んだ足が、そのまま前へ出る。
膝が腹に入った。
息が半分どこかへ行き、口の中に鉄の味がする。
力ずくで押し切ろうとは、してこない。
こっちが動きたい方向へ先に体を入れて、行き先を一つずつ潰してくる。
乾いた着物の男は踏みこむ前に、爪先で砂を確かめてから体重を移していた。
腕を取られた。
振りほどくより先に肘を返され、砂に膝をつく。
そのまま、目だけで箱の男を探した。
箱の男は、こっちを見てもいない。
目は砂の一点に落としたまま、腕だけが、膝の上の箱を囲うように抱え直している。
乾いた着物の男の目が、一度だけ岩場のほうへ流れた。
掴まれた腕を捻って、外す。
膝をついたまま、拳を出した。
当たった手応えだけが、先に手首へ返ってきた。
それを信じて次を出すと、そこにもう相手はいない。
――箱の男のまわりは、まだ先と後が入れ替わったままなのか。
岩場の付け根では、潮がもう脛まで来ていた。
舟溜まりのほうへ十歩戻った砂には、まだ水が来ていない。
乾いた着物の男は、その砂の上から動かない。
こっちだけが岩場の側へ追い込まれていく。
水が膝まで来れば、足を取られる。
立ち上がって、退がった。
振り返ると、いま踏んだはずの場所に何も無い。
少し遅れて、誰もいない砂が窪んだ。
砂の足跡は、当てにならない。
あの男は追ってこなかった。
岩場の付け根まで来た水へ、目を落とす。
「……まだ、早いね」
何が早いのかは言わなかった。
こっちを見もせずに、岩場のほうへ歩いていった。
箱の男の前に膝をついた。
顎の線は崩れていない。
箱の紐も、結ばれたままだ。
すぐ脇の、石の根元の片方へ腰を下ろして、息を継いだ。
崩れた小屋の脇で見ていた若い漁師が、黙って駆けだしていく。
小屋の並びのほうから、若い漁師が左手に椀を提げて戻ってきた。
「飲め」
「腕は」
「これは左だ」
掌を見る。砂と血がついている。
「……そこへ、置いてくれ」
もう片方の石の根元を顎で指すと、若い漁師が椀を置いた。
掌を着物で拭ってから、手に取る。
ひと口含んで口を濯ぎ、砂へ吐いた。
もうひと口飲むと、残っていた鉄の味が少し薄れる。
「……助かった」
「背中が、また裂けてる」
「知ってる。……心配するな」
若い漁師は、こっちの背中の布からしばらく目を離さなかった。
岩場のほうを見た。
あの男が、付け根に立っている。
沖を見て、空の雲を追い、一度だけ石の上の女のほうへも顔を向けた。
そのどれの合間にも、目は足元の波打ち際へ戻っていく。
寄せた波が近づくと、半歩退がる。
こっちが見ているあいだ、濡れた砂には一度も足を下ろさなかった。
「あの岩場、潮が上がるまでどれくらいある」
「日が傾く前だ。抜けそこねたら、崖を回るしかねえ。
……半日かかる。
そのあいだに日暮れの潮が来りゃ、婆さんのとこへは、誰も行けねえ。
崖の下の砂から先にも、踏み跡は続いてる。
その先の入江に、家が何軒かある。
……もっとも、岩場か崖を抜けた、そのまた先だ。
行き来は、めったにねえ」
今日、舟溜まりのほうはあの男に先に塞がれた。
次に箱の男を連れて退くなら、開いているのは岩場の側だけだ。
岩のあいだで迷えば、潮に追いつかれて、崖だ。
岩場までの道筋に、ここを通れという印が要る。
足跡では、印にならない。
腰を上げて、砂から貝を拾っては、白いほうを上にして間をあけて置いていった。
付け根に立つあの男の脇を抜けるとき、肩に力が入った。
「……精が出るね」
言葉はそれだけで、手は伸びてこない。
襟を掴まれたのは、箱の男の前へ入ったときだけだ。
貝が一つ増えるたびに、向こうの目がそれを拾って、また足元の水へ戻る。
四つめを置くとき、若い漁師が膝で砂を平らにした。
平らなら、貝は白いほうを上にしたまま転がらない。
片手でもできることを、探したらしい。
五つめは、こっちが置く前に平らになっていた。
貝を置き終えて、外れへ戻った。
さっきの石の根元に腰を下ろして、一息つく。
腹の奥がまだ鈍く痛む。
岩場へ目をやると、付け根に、あの男の姿が無い。
顔を戻すと、あの男が、箱の男の三歩手前に立っていた。
座ってからこっちは、砂を踏む音ひとつ聞いていない。
「もう、いいだろう。……下ろす頃合いだよ」
抱えているものを下ろせ、と聞こえた。
楽にしてあげる、とさっき言ったあの話の続きだ。
箱の男の顎が、わずかに上がる。
「……まだ、済んでねえ」
山の棚の、仕舞いの行が無かった一枚と、同じ言い方だった。
乾いた着物の男は舟溜まりの側に立ったまま、岩場のほうへ目をやっては、また戻す。
立って、二人のあいだへ入った。
あの男が、こっちを見る。
「……どいてくれるかい」
動かなかった。
あの男が、また爪先で砂を確かめた。
二度目だ。
掴みに来る前に、必ずそれをする。
爪先が動いた。
次に来るのは手だ。
その手より先に、体を内へずらした。
伸びてきた腕の下を潜って、肩へ拳を一つ入れる。
骨に当たる音がした。
今度は、音と手応えにずれが無い。
あの男は二歩、間合いを空けた。
肩は押さえもしない。
こっちを見ずに、沖を見て、空を見て、それから足元の水へ目を落とした。
打ち返してはこない。
拳より水のほうを気にしているらしい。
あの男は、そのまま退がった。
退がりぎわに、その目が箱の男の膝へ落ちた。
箱ではない。紐の、結び目のほうだ。
息が上がっている。
こっちには追う足は残っていなかった。
向こうは、息ひとつ乱していない。
あの男は二、三歩、歩いてから、こっちに振り返った。
「あんた、なんで人の名前ばかり返して回るんだい。
自分は、誰に返してもらったんだい」
答えようとして、吸った息が、喉の手前で止まる。
――誰に返してもらったんだったか。
答えは出てこなかった。
なぜ出てこないのかも、分からない。
――ナギ……サ、と呼ばれた声が、耳の底で一度だけ響いた。
「あんたが一人助けてる間に、他が沈むぞ。
……この浜にも、もう一人いるだろう」
穏やかだった声に初めて角があった。
それだけ言って、振り返らないまま歩き出した。
もう一人と聞いて浮かんだのは、石の上の女だった。
日が傾く。
石へ向かうと、若い漁師が並んで歩いた。
「さっきの」
若い漁師が石のほうを見たまま言った。
「まだ済んでねえ、ってやつな。
……婆さんと、同じだ」
「何が、同じだ」
「訊いても、『待ってる』としか言わねえ。
……言い方の感じが、あれと同じだ」
言ってから、自分で困った顔をした。
「何を待ってるかは、分からねえけどな」
石まで下りると、水はもう膝まで来ている。
「波が来てる。上がろう、婆さん」
若い漁師の呼び方を借りても、返らない。
抱えて運ぶのは、浜を発つ前にやった。
運んでも、女は自分の足で石へ戻る。
だから、袖の上から腕を取って、引いた。
――自分で立ってくれれば、それでいい。
肘が伸びきっても、女は動かなかった。
もう片方の手は、膝を抱えたままだ。
足元の砂が流れて、踵が沈み、しばらくして手を離した。
水が、石の裾を越えていく。
◇
日が落ちると、小屋にひとつずつ灯が入った。
戸の閉まる音が端から順に続いて、それきり誰も出てこない。
浜の朝は早い。
夜に火を囲んで語る者は、いない。
坂の上の火だけが、浜のどこからでも見えていた。
◇
次の朝も、坂の上の火は絶えていなかった。
楽々森彦が炊く飯は、二人ぶんのままだ。
坂を下りれば、まず箱の男を確かめ、それから岩場へ行く。
箱の男を連れて抜ける日のために、岩場が水に沈んでから、また通れるようになるまでを測った。
崖を回る道も、端まで歩いた。
崖の中ほどを削った細い道で、足元はところどころ欠け、下の岩で波が砕けている。
抜けるのに、半日かかった。
乾いた着物の男は、行く先々にいた。
舟溜まりの端で沖を見て、崖の上り口で雲を追っている。
こっちへ顔は向けない。
岩場が沈みきるころ、石のほうでも潮が裾を越える。
同じ潮だ。
石へは潮のたびに若い漁師が走っている。
こっちが腕を引いたところで、女は動かない。
それで岩場のほうを先にした。
二日とも、その刻には岩場にいた。
岩の上から水に浸かった石が見える。
走っても、間に合わない。
二日めの暮れ、沈んでいく岩場を挟んだ浜に、あの男がいた。
水が岩の背を一つ呑むたびに、その目が次の岩へ移る。
こっちの目と、同じ順だった。
荷の底から、自分の帳面を出す。
〈こっちが刻を測っている。向こうも、同じものを測っている〉
書いて、荷の底へ戻した。
◇
測り終えた翌朝、坂を下りた。
箱の男は、いつもと同じ場所にいる。
胡座を解いて、膝を立てていた。
立てた膝と胸のあいだに箱を挟み、膝ごと両腕で抱え込んで、その上に顎を落としている。
石の上の女は、昨日も向きが変わっていない。
膝を抱えた形も、そのままだ。
潮はまだそこまで来ていない。
岩場の入り口に、乾いた着物の男が立っていた。
潮の線を見ている。
こっちには、目もくれない。
退がりぎわに結び目へ落ちた、あの目を思い出した。
箱の男の顔が掌の下で崩れかけたのを、この手が知っている。
――あの結び目に、何がある。
――浜の年寄りはね、潮の刻を空では言わんそうな。
舟溜まりの杭がどこまで濡れとるかを見て、網を上げるか、もうひと寝入りするかを決めるもんでね。
杭の色が読めて、ようやく一人前なんだとさ。




