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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第二章 開けて悔しき浜の箱

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まだ、済んでねえ

――風の便り

「外れで、よそ者が見かけん男に砂へ転がされとったよ。向こうは裾ひとつ濡れとらんかった」

「あの若いのが、腕を吊(つ)ったまんま椀(わん)の水を運んどったねえ」

「よそ者は岩場のほうへ、貝を間をあけて並べとった。子どもの遊びでもあるまいに」

「石の婆さんは、よそ者に腕を引かれても、腰ひとつ浮かさんかったそうな」

 坂の下から、外れへ向かった。


 背中の布は朝のうちに巻き直してある。

傷口の蓬(よもぎ)はもう匂いだけになっていた。


 歩けば布の内側が少し張り、深く息を吸うと痛む。


 岩場の入り口の乾いた着物の男は、こっちが歩きだしても潮の線から目を上げない。


 岩のあいだの貝は、測っていた二日、潮が引くたびに置き直してきた。

置き場は、あの男にも知られている。


 小屋の並びの前を通ると、戸口の話し声が小さく細くなった。

過ぎてからは、また元に戻る。


 この浜へ来た日から、ずっとこれだ。


 箱の男は、外れのいつもの場所から動いていない。

蓋に紐をかけた木箱を、胸へ押しつけるように抱えている。

箱はもう、膝の上には無い。


 小屋の陰から、若い漁師が出てきた。

右腕はまだ首から吊(つ)っている。


「今日も、箱の男のほうか」

「そうだ」

「婆さんは」


 石のほうへ目をやった。

女はさっきと同じに、膝を抱えて沖を向いている。

潮の線は、まだ石の裾より下だ。


 この二日、あの石が水に浸(つ)かっていくのを、岩場の上から見ているだけだった。


「潮が石を越えるまでには、まだ間がある。

……日暮れの前に、石まで行く」

「……そうか」


 若い漁師はもう一度だけ石を見てから、付いてきた。


 断る理由ならあった。吊(つ)った右腕だ。


 ただ、ここで何が起きるかまでは、読みきれない。

浜のことも、石に座る女のことも、こっちより若い漁師のほうが知っている。


「あんたが危ないと思ったら、そこで退(ひ)け」


 それだけを伝えた。


「……退(ひ)くのは、あんたのほうだろ。

岩場ばかりに行ってたな。

……日が傾きゃ、あそこは沈むぞ」

「知ってる。

沈みきるころに、石のほうでも潮が越える」


 若い漁師は、また石のほうを見た。

返事は無い。


 外れまで来て岩場の入り口へ目をやると、あの男はもう立ち去っていた。


 箱の男の前に腰を下ろした。

聞いてほしいことがある。

顔を見て、話したい。


 抱えた箱で、両腕が塞(ふさ)がっている。

いつもなら砂を払って隣を空けてくれるが、今日はその手が箱から離れない。


 若い漁師も吊(つ)った腕をかばいながら、隣の砂に腰を下ろした。


 荷の一番深いところから、書きつけを出した。

山で借りて、浜へ戻ってから出さずにいた、あの書きつけだ。


「よその浜の、ずっと昔の話だ。

向こうから帰った男に、里の者が、よく帰ったと声をかける。

その男は、そのたび同じことを答えたそうだ」


 紙をひらいて、箱の男のほうへ向けた。

並んだ字を指でなぞりながら、その行だけを読む。


 〈まだ、済んでねえ〉


 箱の男の眉が少し上がった。


 若い漁師が横から手元を覗(のぞ)き込む。

紙の上のその一行を、長いこと見ている。


 行の終わりで、指が止まる。

紙の脇に、小さな字で、もう一行ある。

山の燭(しょく)の明かりでは、そこまで読み取れていなかった。


 指の下の一行を、声に出して読む。


 〈帰った者の言い方じゃない〉


 若い漁師が顔を上げた。


「……やっぱり、婆さんのも、これだ」


 言ってから、自分で言い直した。


「……言葉は違う。

けど、どっちも、目の前の俺らに言ってるんじゃねえ」


 書きつけを畳んで、荷の一番深いところへ戻した。


 語り部が集めてきた束のことも伝えた。

どれも浜の戒(いまし)めの話と同じ形で、一枚だけが違う。

その一枚の男は、誰かを探して帰ってきた、と書いてある。


「探して、帰ってきた」


 若い漁師が繰り返した。

それから、箱の男のほうへ体ごと向いた。


「あんた、その箱、誰にも触らせねえよな。

俺の腕が折れた日も、それだけは抱えてた。

……開けもしねえのに、離しもしねえ」


 箱の男は答えない。


 答えないかわりに、抱えた箱を半寸ぶん、若い漁師から遠ざけた。

踏み込まれてもいないのに、体のほうが先に動く。


「……あんたは、まだ、用事の途中なんじゃねえのか」


 波が寄せて、退(ひ)いた。

濡れた跡が、さっきより一足ぶん近い。


「なら、返しに行きゃいいじゃねえか。

どこへ持って行きゃいい?」


 箱の男が口を開いた。

目は、誰のほうも向いていない。


「向こうへ……いや、先にこれを渡して、それから舟に……」


 声が細くなって、また始まった。


「舟に乗って……渡して、それから……向こうへ……」


 言い直すたびに、先と後が入れ替わる。


 舟溜(ふなだ)まりのほうから、人が一人、砂を踏んで歩いてきた。

乾いたところだけを選び、急いではいない。


 片膝を立てて、座り直した。


 言葉で順序が戻らないなら、あの結び目のほうから解(ほど)くしかない。


 先に切り出すなら、今しかない。

あの男が来る前に、話しておきたかった。


 ――解(ほど)けば、保(も)たんかもしれん。


 それを承知で、口を開いた。


「その紐を、解(ほど)いてみないか」


 箱の男が顔を上げた。


「蓋を開ければ、それはあんたの手から離れる。

もう、抱えていなくていい」

「終わるのか」

「分からん。

……開けるかどうかは、あんたが決めることだ」


 この手で解(ほど)けば、取り上げたのと同じだ。


 返事を待った。


 箱の男は、抱えた腕にもう一度力を入れた。

それから、砂ではなく、こっちの顔を見た。


「……返せなくなる。開けたら。

……今も、預かってる。

これは、俺が……預かった(・・・・)んだ」


 言ったのは、それだけだった。


「――いい話だね」


 声のほうを見た。

あの男が、三歩ほど後ろに立っていた。

相変わらず、喋る速さはこっちの半分ほどしかない。


 立ち上がって、向き直る。

背中の布が、内側で引きつれた。

隣で、若い漁師も腰を上げた。


「開けなよ。紐を解(ほど)いて、蓋を開ける。

それだけで、あんたの用は終わる」


 箱の男は答えない。


 あの男がその場に屈(かが)んで、箱の男と目の高さを合わせた。

立っているこっちには、目もくれない。

掌(てのひら)はまた上を向いている。


「持ってるから、終われないんだ。

下ろせば、楽になれる。そうだろう?」


 言い返そうとして、言葉が出てこなかった。


 ――言い分の半分は、さっきこっちが言ったのと同じじゃないか。


 箱の男が砂の上で尻をずらして、箱をあの男から遠ざけた。

その二人のあいだへ、こっちが踏み込んで体を入れる。


 箱の男は、あの男には何も返さなかった。


「潮は待たないよ」


 膝を伸ばしながら、あの男が言った。

声は、さっきまでと変わらずゆっくりしている。


 あの男の足元を見た。

今日は爪先で砂を確かめない。

足運びが変わった。


 伸びてきた手だけが、速かった。

こっちの襟ではない。

箱の紐の、結び目のほうだ。


 その手を払った。

腕が当たるより先に、痺(しび)れだけが肘へ返ってくる。


 あの男は退(さ)がらない。

箱の男を舟溜(ふなだ)まりのほうへ逃がそうと体を入れれば、先に塞(ふさ)がれる。

海寄りに波打ち際(ぎわ)のほうから回ろうとすれば、その前にもう立っている。


 二度、三度と繰り返すうちに、舟溜(ふなだ)まりのほうへ抜ける道が無くなっていた。

残っているのは背中のほう、岩場の付け根へ出る道だけだ。


 あの男はそこへは入ってこない。

入る必要が無い。

潮が上がるぶんだけ、こっちの足場のほうが減っていく。


 波が退(ひ)くたびに、濡れた砂の幅が一足ずつ広がっている。


 箱の男が砂の上を後ろへ下がった。

座ったまま、踵(かかと)と尻で砂を押している。

両腕は箱で塞(ふさ)がったままだ。


 屋根が落ちた日にも動かなかった男が、手を伸ばされるたびに、一尺ずつ後ろへ動いた。


 若い漁師が左手を箱の男の背に当てて、行く先を岩場の付け根のほうへ向けた。


 貝を置いた道の、入り口だ。

乾いた砂は、もうそこへ向かう一筋しか残っていない。


 あの男の指が結び目にかかった。


 箱の男がはじめて体ごとねじる。

腕の中で、箱が、こと、と鳴った。

中で何かが転がった音だ。


 あの男の指が結び目から外れたのは、その音が消えるより早かった。


 箱の男の顔で、何かが動いた。


 顔に貼りついた一枚には、頬から顎(あご)へ、縫い目が一本食い込んでいる。

屋根が落ちた日に、この爪で端を起こして、掌(てのひら)で押し戻したところだ。


 その縫い目が、縮んだ。

引かれて、顎(あご)の先が輪郭からずれる。


 岩が鳴った。

波が当たったのは、そのあとだった。


 あの日と同じだ。

音のほうが、先に来る。


 次の波が、足元まで来る。

乾いた砂の一筋も、もう水に沈んだ。


 肩の下へ手を入れて、引いた。

若い漁師が左手で襟をつかんで、箱の男を一緒に引く。


 箱を抱えたまま、砂の上を滑っていく。

足は使わない。ただ引かれるだけだ。


 重い。


 布の下が、じわりと温かい。


 一つめの貝は、岩場の付け根にある。

置いておいた貝を、そこから一つずつ辿(たど)った。

ここを通れ、という印だ。


 貝は、岩と岩のあいだを抜ける細い砂の筋に、間をあけて並んでいる。


 筋の砂は低い。

波が寄せるたびに水が入り、引いている箱の男の腰まで浸(つ)かる。

水が退(ひ)いたところで、次の貝まで引いた。


 五つめの貝を過ぎると、岩場が切れて崖になる。

その下に、潮の届かない砂が細く残っていた。

崖の道はそこから上っていく。


 その細い砂まで引いて、箱の男を下ろした。


 下ろしたところで、縫い目がまた縮みはじめる。


 縮んだぶんだけ、縫い目の内側で頬の輪郭が削れていく。


 剥(は)がれているんじゃない。

この一枚と一緒に、男の形まで消えようとしている。

顔を透かして、後ろの砂の色が滲(にじ)んだ。


 また、岩が鳴った。

波が当たったのは、そのあとだ。


 若い漁師が鳴った岩のほうへ顔を上げた。

左手が吊(つ)った腕の板を押さえている。


 岩場のほうで砕ける波は、当たってから鳴っている。

順が狂っているのは、崖の下の、この細い砂の上だけだ。


 紐を解(ほど)いてみないかと言ったのは、こっちだ。


 ――言わずにいれば、この男はまだ、外れの砂に座っていたんだ。


 砂に膝をつく。


 掌(てのひら)を開いた。指は使わない。

止まるかは分からなかった。

縮んでいく縫い目に沿わせて、頬から顎(あご)へ掌(てのひら)の面を当てる。

指先が口の脇にかかった。


 押した。手応えは無い。

無いまま、押さえ続けた。


 掌(てのひら)の下で、縫い目はまだ縮もうとしている。

力を抜けば、抜いたぶんだけ縮む。

押していれば、縮まず留まっている。


 波を四つ数えて、五つめで数えるのをやめた。

そのうち、どれだけ経ったのかも分からなくなる。


 肘から先が痺(しび)れてきた。

掌(てのひら)の付け根から色が引いて、指の関節だけが白く残る。

布の下を、生ぬるいものが伝った。


 指先に、箱の男の息が当たっている。

押さえた時と変わらない。


 参っているのは、押さえているこっちだけだった。


 岩場の端で、あの男が足を止めていた。

崖の下の砂へは、上がってこない。

上がってくるまでもない、と踏んでいるらしい。

渡ってきた道筋を目でなぞっている。


 それから岩の上に屈(かが)み、筋の砂へ手だけを伸ばして、こっちが置いた貝をひとつ拾い上げた。

岩の背を伝って浜側へ戻りながら、次のも拾って、掌(てのひら)の上へ重ねる。

帰りの印が、一つずつ無くなっていく。


 貝を数えながら、こっちへ言った。


「潮は待たないよ」


 四つめを拾って、最後の一つのところで、こっちを見た。


「その手を離さないうちは、そこから動けまい。

……戻りは、崖だね」


 最後の一つも掌(てのひら)に乗った。

置いた印は、もう一つも残っていない。


 あの男は、掌(てのひら)の貝から目を上げた。


「……あんたは、その人に、荷を下ろさせてやらなかった。

もう少しで、楽になれたのにね」


 あの男は潮が来る前に浜へ戻り切った。

貝も、掌(てのひら)に乗ったままだ。


 次に渡るときは、印から置き直しになる。


「今なら、まだ通れる」


 若い漁師が言った。

こっちにだけ聞こえる声だった。


「岩の背が、まだ出てる。

……いま出りゃ、間に合う」


 答えなかった。

掌(てのひら)を、そのままにする。


 背中越しに、若い漁師へ声をかけた。


「あんただけでも行け。石には、まだ間に合う」


 若い漁師は岩の背の先へ目をやった。

浜の、石のあるほうだ。

しばらく、目がそこから戻ってこなかった。


「……やだね。そばで見とく、って言ったろ」


 若い漁師は左手を砂について、そこから動かなかった。


 波をまた数えた。


 腕の置き所を変えたくなる。

動かせば、動かしたぶんだけ縫い目が縮む。

動かせなかった。


 肩から先が他人の腕のように重くなってきた。

濡れた裾が冷えて、腰のあたりまで冷たい。

それでも、縫い目は掌(てのひら)の下で止まっている。


 岩の根に波が当たりはじめた。

当たる場所が、少しずつ上がっていく。


 日が傾いた。


 岩の切れ目から、浜が細く見えた。

潮は、石の裾を越えている。

女は、石の上から動いていない。


 潮が越えるたびに、石まで走っていたのは若い漁師だ。

行っても、女は石から動かない。

それでも水に浸(つ)かっていくあいだ、そばには誰かがいた。

今日は走る者がいない。


 日暮れの前に石まで行く、と言ったのは、今朝のことだ。


 砂についた若い漁師の左手が深く入っていく。

指の付け根まで砂に埋まっている。


 掌(てのひら)は、動かさなかった。


 やがて、指先に当たる息が、一度、引く。


 大きく吸い込んで、長い息が漏(も)れた。

箱を抱えた腕から、力が抜ける。

抜けたのに、箱は落ちなかった。


 それきり、縫い目は動かなくなる。


 岩は、まだ波より先に鳴っている。

押さえたまま聞いていると、鳴ってから当たるまでが、寄せるたびに短くなっていった。


 三つめの波が岩に当たって、それから、岩が鳴った。


 それを確かめてから、ゆっくり手を離した。


 落ちない。消えない。

一枚は、そこにある。


 目の脇の皺(しわ)も、うなじの生え際(ぎわ)も、最初に会った日のままだ。


 ただ、頬から顎(あご)へ走る縫い目が、掌(てのひら)の幅のぶんだけ、ずれた場所に残った。

もとは輪郭に沿っていたのが、いまは少し外れたところを通っている。


 押さえた手の、跡だ。


 手を離していれば、石には間に合った。


 ――分かってて、離さなかった。


 崖の道は、ここから半日だ。


 若い漁師は、潮に沈んだ岩場のほうを一度見てから、背を向けて箱の男の隣へ寄った。


 箱の男が、腕の中の箱を膝の上へ戻した。


 引かれてくるあいだに、腰から下はずぶ濡れになっていた。

砂の混じった裾の上に、箱の底がじかに乗っている。

潮気の抜けない布だ。


 若い漁師が膝をついた。

吊(つ)った腕はそのままに、左手で首から手拭いを外す。

砂の上でひろげて、二つに折り、もう一度折った。

片手なので、時間がかかる。


「……箱には触らねえ。下だけだ」


 箱の男は、箱を遠ざけなかった。


 若い漁師が、畳んだ手拭いで箱のまわりの裾を軽く拭ってやる。

それから、そのまま、膝の上の箱の底と濡れた裾のあいだへ、そっと差し入れた。

差し入れるあいだだけ、箱の男が箱を少し浮かせた。


 若い漁師は、それ以上は何も言わなかった。


 箱の男も、何も言わない。


 箱の男が、箱の下からのぞく布へ目を落とした。

それから、若い漁師の吊(つ)った腕のほうを見た。


 波が一つ、寄せる。


 こっちが言った。


「返す相手に会うまで、あんたが預かってることは、憶(おぼ)えとく」


 箱の男がこっちを見た。

それから、頷(うなず)いた。


 深くはない。一度だけだ。


 帳面へ伸ばしかけた手を、下ろした。


 箱の男が箱を片手へ持ち替えた。

畳んだ手拭いごとだ。


 空いたほうの手を、砂へついた。

一度では膝が伸びない。

それでも、立ち上がった。


 両腕で抱え込んだままでは、できない立ち方だ。

二歩で足が止まって、三歩目からは止まらなかった。


 崖の道の入り口は、すぐそこにある。


 崖の上に、坂の火が小さく見えた。

まだ絶(た)えていない。


 箱の男が先を歩く。

若い漁師が半歩あとについた。


 その足に合わせて、歩いた。

――この浜は、山を背にしとるぶん、日の落ちるのが早くてね。

沖がまだ明るいうちに、砂の上はもう暮れてしまうんだと。

崖の中ほどを通る道だけは、もう少しのあいだ、明るいまま残っとるそうな。

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