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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第二章 開けて悔しき浜の箱

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沖のほう

――風の便り

「よそ者と腕を吊(つ)った若いのが、外れで箱を抱えとる人を引きずって、岩場の奥へ入ってったよ」

「見かけん男だけが、手のひらに貝を重ねて戻ってきた。浜の子でも、あんなに大事そうには持たんよ」

「岩場はそのまま潮の下さ。三人とも、それきり出てこん」

「坂の上の火は、朝まで消えんかった。ありゃあ飯炊きの連れは、寝とらんね」

 若い漁師と箱の男と三人で、崖の道を夜どおし歩いた。

昼なら半日で抜ける道も、暗いなかを箱を抱えた男の足に合わせると、なかなか進まない。

崖の上へ出たころには、空が白んできた。


 そこからは浜の裏手の高いところを回っていく。


 日が高くなるころ、浜への道へ出た。

山から戻った日に、楽々森彦(ささもりひこ)と歩いた、あの道だ。


 最後のひと曲がりで、風が干した魚の匂いに変わる。


 三人で坂の上へ出ると、そこに煮炊きの匂いが混じった。


 火は、絶(た)えていない。


 燃えさしの脇へ新しい薪が足してある。

ついさっきまで誰かがここに居たらしい。


 控えの薪は、濡れないように平たい岩の上へ積んであり、その上に、見覚えのある連れの荷が置いてある。


 火の端へ寄せた鍋から、細く湯気が上がっている。


 その脇に、椀(わん)が二つ伏せてある。

炊いてから、そう経っていない。


「――火を焚(た)いて、飯も炊いとく」


 坂の上で別れたとき、楽々森彦(ささもりひこ)はそう言った。

その姿が見当たらない。


 鍋の粟(あわ)は、こっちと楽々森彦(ささもりひこ)の、二人ぶんだった。

若い漁師と箱の男を連れて戻るとは、坂の上へ知らせようがなかった。


 三人とも、黙って火のそばへ寄った。

夜風に当たり続けた頬に、火の熱がじわりとしみてくる。


 しばらくそうしていると、どこかで腹の鳴る音がした。

誰のだとは、誰も言わない。


 椀(わん)に粟(あわ)を盛って、若い漁師の前へ置いた。

箱の男の前にもひとつ置く。


「もらう」


 若い漁師が左手で椀(わん)を取った。


 伏せてあった椀(わん)は、二つきりだ。

こっちは、鍋からじかに食うことになる。


 こっちも腰を下ろした。

袖ごしに鍋をつかんで、火から下ろす。


 砂へ据(す)えても、まだ手では持てない。

湯気に指をかざすと、冷えた指の先がじんと痺(しび)れた。


 坂の上からは浜がひと目で見渡せる。


 浜では、普段どおりの暮らしが続いていた。

網を干す場所も、舟溜(ふなだ)まりも、変わらない。


 目が、石を探した。

いつもの石の上に、膝を抱えて沖を向く小さな背中がある。


 ゆうべ、崖の下の岩の切れ目から、潮が石の裾を越えていくのを見た。

いつもなら呼びに走る若い漁師は、こっちの隣で砂に手をついていた。


 山へ発(た)つ前に、石の婆さんを見ていてくれと清(せい)に頼んだ。

その約束も戻った日で仕舞(しま)いになっている。

ゆうべは誰も、声をかけに行けなかった。


 それでも婆さんは、ひと晩を越して、まだあの石の上に居る。

肩から、すっと力が抜けた。


「……座ってる」


 隣で、若い漁師が息と一緒にこぼした。


 しばらく眺めているうちに、ふと目が止まった。


 変わらないまま、石の腹にだけ、白い線が一本、乾いて残っていた。


 潮は毎日あの線まで上がって、引いていく。

線は、ゆうべの潮が引いてから乾いたらしい。

潮が越えたときに石まで走れる者は、いま浜に誰も居ない。


 坂を下りきった縁(ふち)に、広い背中があった。

楽々森彦(ささもりひこ)だ。


 水の音に膝を持っていかれるので、浜の底へは降りられない。

いまは砂の手前で足を止めて、浜の者と話している。

鍋を貸してくれた、三軒目の家の者だ。


 浜の者が岩場のほうを指して、その腕を崖のほうへ回した。

それから、石を指す。

指はそのまま西の空へ上がった。


 楽々森彦(ささもりひこ)が一つずつ頷(うなず)いている。

こっちの行方と潮の刻(とき)を訊(き)いているらしい。


 楽々森彦(ささもりひこ)は、きのうの朝こっちが坂を下りてから、ひとりでここから浜を見ていたはずだ。

いまは縁(ふち)まで下りて、訊(き)けることを訊(き)いている。


 坂の上のこっちには、まだ気づいていない。


 潮が石の裾を越えるのは、日暮れだ。

まだ、間はある。


 ひと晩かけて崖の道を歩き通して、膝がもう笑っている。

この足で駆け下りても、いざというとき走れない。


 ――駆け下りるのも、あの背中を追うのも、腹に何か入れてからだ。


 鍋はもう手で持てる。

抱えて、口をつける。


 ひと口で、腹の底まで熱が下りた。

あとは一気に掻(か)きこんだ。


 二人ぶんを、三人で分ける。

箱の男は手拭いを敷いた膝に箱を置いて、その上で椀(わん)を傾けた。

その椀(わん)が空になるまで、誰も手を止めなかった。


 腹が温まると、夜どおし冷えていた体の奥まで粟(あわ)の温かさが広がっていく。


 きのうの朝に目を覚ましてから、一度も横になっていない。

崖の下で押さえ続けた腕は、肩の付け根までまだ重い。


 鍋を置いて、すぐ立つつもりだった。


 腰を浮かせかけて、瞼(まぶた)が重くなった。

持ち上げても、また下りてくる。

隣で若い漁師の頭がこくりと揺れた。


 火の爆(は)ぜる音が少しずつ遠くなっていった。


  ◇


 肩を揺すられて目を開けると、楽々森彦(ささもりひこ)の顔があった。


 火のそばの三人に、下から気づいたらしい。

縁(ふち)から坂を駆け上がってきた息で、声が割れている。


「潮が、石を、越えた」


 日が西へ傾いていた。


 若い漁師もその声で跳ね起きる。


 箱の男は火の向こうで、抱えた箱に顎(あご)を落としていた。

その顎(あご)が、遅れてゆっくり上がる。

眠っていたらしい。


 潮の線を見た。もう越えている。


 先に行く、とだけ断って、坂を下りる。

若い漁師が、吊(つ)った腕を左手で胸へ押さえて、付いてきた。


 坂の途中で振り返った。

若い漁師のうしろを楽々森彦(ささもりひこ)も下りてくる。


 坂の上では、箱の男が立ち上がっていた。

誰もいなくなった火のまわりを、ゆっくり見回している。

その目が、坂の途中のこっちで止まる。


 少しのあいだ、そのまま動かない。


 箱を抱え直して、浜の外れのほうへ歩きかけた。

一度だけ、足を止める。

浜のほう、石の見えるあたりへ目を向けている。


 それから、また外れのほうへゆっくり歩いていった。


 縁(ふち)で、うしろの足音が止まる。


 振り向くと、楽々森彦(ささもりひこ)の片足が砂へ半分だけ出ている。

そこから先は出ていない。


「……行けねえ」


 目だけがこっちへ動いて、また沖へ戻った。


 頷(うなず)きだけ返して、こっちは足を止めない。


 小屋の並びの前を足早に抜ける。

戸口で話していた者が口をつぐみ、目だけでこっちを追ってきた。


 足を急がせながら、遅れたぶんを数えていた。


 潮が次に越える前に、もう一度、あの石まで行く。

浜へ戻った日に、そう言ったのは、こっちだ。


 石へは、その日に一度、腕を引きに行ったきりだ。

岩場で二日、崖の下で一日。

そのあと夜どおし歩いて、日が傾くまで眠りこけた。


 潮の速さは変わらない。

遅れたのは、こっちだ。


 若い漁師は、何も訊(き)かないまま、息を上げながらも、隣を離れない。


 外れの手前で、砂が濡れはじめた。


 石は、もう白い線まで水に沈んでいる。

今日のぶんにも、間に合わなかった。

それも、遅れのうちだ。


 隣で、足音が止まる。


「……立ってる」


 若い漁師の声が、掠(かす)れていた。


 女は、石より沖に立っている。

石から五、六歩ほど先で、こっちへ背を向けていた。

水は膝の上まで来ている。


 片足のさきが、水の下でゆっくり動く。

いつも座っている石を、足の裏で探しているようにも見えた。


 その石は、女の背中のうしろにある。

探している向きが逆だ。


「潮が越えるたび呼びに行った。

いつも石の上だ。

あんなとこに立ってんのは、見たことがねえ」

「あそこは――」


 最後まで訊(き)く前に、若い漁師が続けた。


「石から少し先で、急に深くなる。

あのあたりから先は、浜のもんは入らねえ」


 女は、その深くなる手前に立っている。


 海へ入った。

夕方の潮は、見た目より力がある。

一歩ごとに、波が膝へ当たる。


 石の脇を過ぎても、深さは変わらない。

あと三歩ほどで、女に届く。


 女は、網も、桶も持っていない。

この浜で初めて見た日と、同じだった。

空いた両手の指が、腰の脇で、網の目でも拾う手つきで小さく動いている。


 あいだに、遮(さえぎ)るものは何も無い。

細い背中が、すぐそこにある。


 こっちが水をかき分ける音にも、女は振り向かなかった。


 振り向かれたことは、この浜で一度も無い。

それでも、聞こえてはいるはずだった。


「婆さん」


 返事は、無い。


 やがて、口が動いた。

こっちへ向けた声ではない。

沖へ向けて、声がこぼれた。


「待ってる」


 この人はこれしか言わない、と聞いてはいた。

声を直に(じかに)聞いたのは、これが初めてだ。


 日は、山の裏へ落ちかけている。

水の色が、足のまわりから順に暗くなっていく。


 足のさきは、まだ水の下で動いている。


 今日は、その先が続いた。


「……ここを離れたら、あの人が、帰らんかったことに、なる」


 言い終えても、声の高さは変わらなかった。

さっきの一言と、同じ調子のままだ。

あの人というのは、待っている相手のことだろう。


 足は、止まらない。


 探して、帰ってきた――語り部の束の中で一枚だけ違っていた、あの一行だ。


 間違いだ、とは言えなかった。

言える筋が、こっちには無い。


 頷(うなず)きも、しなかった。だから、


「決めるのは、あんただ」


 それだけを言った。


 女は、沖を向いたままだった。


 垂らした右手の指が、開いた。

三歩踏みこめば、まだ届く。


 浜へ戻った日、この手で袖ごしに腕を引いた。

肘が伸びきるまで引いても、女は石から動かなかった。


 ――引きずって戻して、また石の上で待たせるのか。


 開いた指を握りこんだ。


 若い漁師は少し離れた浅瀬で足を止めている。


 潮が、また少し上がった。

水の線は、女の腰まで来ていた。


 女は動いていない。

潮も、そんなに速くはない。


 こっちの水は、腿(もも)のなかほどを上下している。

女のほうだけが深くなっていく。


 顔は沖を向いたまま、何ひとつ変わらない。


 波が退(ひ)くたびに、こっちの踵(かかと)の下から砂が抜けて深みのほうへ流れていく。

ほんの一瞬、足もとに目を取られた。


 ――女の立つあたりは、もっと速く削られているはずだ。


 足の裏の砂が、ごそりと沖へ持っていかれた。

前の底が、深みのほうへ崩れたらしい。


 顔を上げると、女の肩が一気に沈んだ。

水面が、顎(あご)に届く。


 声も、水音も、しなかった。


 水を蹴って、右手を伸ばした。

指先が沈んでいく袖にかかる。

濡れた布は、指の腹を滑るだけで掴めない。


 袖をたぐって、その中の腕へ手を滑らせる。


 手首に当たった。細い。

指を回して、握りこむ。

たしかに掴んだ。


 引き上げた。

握った右手から、手首が抜けていく。

何も掴めないまま、こっちの手だけが水の上へ出た。


 握っている。

握っているのに、手の中は空だ。


 あの日は、抱えて運べた。

軽くても、腕の中に居た。


 髪が、浮いてきた。

暗い水の上に、黒いもやが、花のように開いた。

ひらききって、そこで止まり、それから、ゆっくりと落ちていく。


 途中で、水の色へ紛れた。


 大きく息を吸って、一気に潜った。


 水の下は、もう夜のように暗い。

手だけを、水の中に這(は)わせた。


 背中の布の下が、塩でしみる。


 急に深くなる縁(ふち)まで来た。

そこから先は、手が空を切る。


 浮き上がって、吸って、また潜った。

息が続くかぎり、縁(ふち)から先へ手を伸ばし続けた。

指に触れるものは、何も無い。


 三度目に潜っても、手は暗い水を掻(か)くだけだった。

底は、伸ばした指の先より、まだずっと下にある。

それでも、縁(ふち)から足が離れかけた。


「――やめろ! あんたまで沈むぞ!」


 声が聞こえた。


 若い漁師が、石の横まで来ていた。

吊(つ)った右腕を胸元に寄せて、片手で水をかいている。

波が来るたび、足が止まる。

それでも、来られるかぎりのところまで来ていた。


 その声で、縁(ふち)の手前に踏みとどまる。


 こっちだけが、浮き上がった。

女の沈んだあたりには、泡ひとつ上がってこない。

潮はいつもどおり寄せて、いつもどおり退(ひ)いていく。


 ――畜生。


 伸ばしたままの腕を、水から抜いた。


 腕が重い。

何も掴んでいない腕が、重い。


 もっと早く来ていれば。

崖を回らずに済んでいれば。

抱えて運んだ日に、離れずにいれば。


 どれも、もう遅い。

遅いと分かってからも、次から次へ出てくる。

寄せた波が、背中を押しては退(ひ)いていく。

それが、何度もくり返される。

頭上(ずじょう)の空が、いつのまにか赤く染まっている。


 どれだけそうしていたかは、分からない。

腰に当たる潮だけが、少しずつ高くなる。


 濡れた肩に、風が当たる。

水の中より、風のほうが冷たい。


 沖のほうから順に、海の色が落ちていく。

波の背だけが、山の向こうに残る明かりを拾って、細く光っていた。


 その光も、寄せるたびに一つずつ消えていく。


 日が沈んだ。


 石の頭は、暗がりに黒く残った。

女の立っていた場所は、もう分からない。


 振り返った。


 若い漁師は、まだ同じところから動いていない。

こっちが何も掴めずに浮き上がってくるのを、そこから見ていた。


 一歩ごとに重くなる足で、石の横まで戻る。

水は、若い漁師の腰までだ。


 若い漁師の目が、こっちの手から石のほうへ動いた。


 石の頭だけが、まだ水の上に出ている。

その上には、何も無い。


 左手が、石を叩いた。一度。

それから、何度も。


 吊(つ)った腕が、そのたびに揺れる。

それを庇(かば)おうともしない。


「……餓鬼(がき)の頃から、ここに居たんだ。

婆さんだ、身内だって、ずっと聞かされてきた。

……それなのに、俺は……、名前も、知らねえ」


 言った切り、あとは声にならなかった。

濡れた肩が、浅く上下している。


 若い漁師のほうへ、水の中を一歩進んだ。


 手を伸ばしかけて、そこで止まる。

屋根が落ちた日に、あの腕が折れたのも、こっちのせいだ。

婆さんを頼まれたのも、こっちだ。

どちらも、返せていない。


 伸ばしかけた手を、下ろした。


 若い漁師が、顔を上げた。


 口が動きかけて、閉じる。

叩いていた左手は、石の頭に載ったまま止まっている。


 寄せる波が二人の腰を揺すっていく。

どちらも、そこから動けなかった。


 腰にあった水が、いつのまにか腿(もも)まで下がっていた。

満ちきった潮が、向きを変えたらしい。


 西の空も、山の端(やまのは)に細い明るさを残すばかりになった。

浜の砂は、海より先に夜の色へ沈んでいる。


 水を押して、浜へ向かう。

ひと足ごとに、水が膝へ、脛(すね)へと下がる。

そのぶん、足が前へ出る。


 水から上がると、濡れた着物が急に重くなる。

背中で、潮の引いていく音がしている。

石のほうを振り返る気には、なれなかった。


 若い漁師も少し遅れて上がってきた。

水の際(きわ)に座り込んで、それきり動かない。


 舟溜(ふなだ)まりのほうから、砂を踏む音が近づいてくる。

足音は、少しも急がない。


 乾いた着物の男が、水の際(きわ)の三歩手前で止まった。


 石のほうを長いこと見ている。

目だけが、そこから動かない。

若い漁師のほうへは、近づこうとしない。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 やがて、男の口が動いた。

目は石に置いたまま、こっちにも若い漁師にも顔を向けない。


「……呼ばなかった(・・・・・・)な。最後まで、一度も」


 誰が、誰を、とは言わない。

こっちの耳が勝手に埋めた。


 名前も、知らねえ――石を叩きながら、若い漁師がそう言ったばかりだ。

こっちが沖で呼んだのも、婆さん、だった。


 喋る速さは、相変わらずこっちの半分ほどしかない。

急がない声が、暮れた浜によく通った。


 それきり、黙る。

石から目は離さない。


 あんたが一人助けてる間に、他が沈むぞ――乾いた着物の男は、初めて会った日にそう言っていた。


 そのとおりに、なった。

一言も、外れていない。

くそったれの、正しさだった。


「だから言った」


 言い返せなかった。


「二人目を見つけたら、また来る」


 一人目が誰なのかは、言われなくても分かった。


 それだけ言うと、男は乾いた砂だけを踏んで、舟溜(ふなだ)まりのほうへ歩いていく。

歩みに迷いはなく、振り返りもしなかった。


 足音が遠のくと、波の音が戻ってきた。


 寄せて、退(ひ)いて、また寄せる。

さっきまで、この波の音は少しも耳に入ってこなかった。


 小屋の並びに、灯の色がぽつぽつと増えていく。


 縁(ふち)に、楽々森彦(ささもりひこ)が立っているのが見えた。

砂の上へは、足を出していない。


 浜の底へは降りられねえ、あんたが戻るのを待つ。

坂の上で、本人がそう言っていた。


 濡れた着物のまま、そこまで歩いた。

楽々森彦(ささもりひこ)の着物は、乾いたままだ。


 ここからなら、浜のことは、みんな見える。

見えるだけだ。


 水の際(きわ)には、若い漁師の影がまだ残っている。


 楽々森彦(ささもりひこ)の爪先は、砂の際(きわ)で止まったまま、踵(かかと)が何度か浮きかけた。

そのたびに、また元のところへ戻る。

体の脇で、拳(こぶし)が固く握られていた。


「待つのは、……俺もだ」


 何も、返せなかった。


 沖で、暗い水が低く鳴っている。

灯の入った小屋は、どれも戸が閉まったままだ。


 外れの砂では、箱の男が、膝の箱に顎(あご)を落として座っている。


 水の際(きわ)の若い漁師は、さっきから少しも動いていない。


 ――迎えに行って、……何を言えばいい。


 かける言葉は、一つも持ち合わせていない。

それでも、あそこに一人で置いておく気にはなれなかった。


「行ってくる」

「……おう。行ってこい」


 浜へ、もう一度下りた。


 小屋の灯が水の上まで細く届いている。

石のあるあたりも、それで見当がつく。


 若い漁師の脇まで来て、足が止まった。

目のやり場が無くて、下を向く。


 水の際(きわ)に、白い貝がひとつ落ちていた。

岩場の印に使ったのと、同じ貝だ。


 拾い上げて、指の腹で砂だけ落とす。


 潮は、さっきよりも退(ひ)いていた。

顔を上げて、石を見た。

濡れた石の肌が、小屋の灯をうっすら照り返している。


 膝の深さの水を、石までゆっくり歩いていく。


 石の腹に、白い線が一本。

昼に、坂の上から見た線だ。


 その線より上の、石の頭に、貝を置いた。

岩場で道しるべに置いたときと、同じ置き方で。


 白いほうを、上にする。

この暗さでも、浜から見つけられるように。


 次の潮も、ここまでは来ないだろう。


 弔(とむら)い方は知らない。

持ち合わせは、これだけだ。


 波の音にも、山で聞いた唄(うた)はまぎれない。

離れるまで歩くと決めて山を出て、海まで下れば届かないと踏んで、この浜へ来たはずだった。


 唄(うた)は、まだ背中についてくる。


 うしろで、水をかき分ける音がした。


 若い漁師が、こっちの二歩うしろで止まった。

吊(つ)った右腕を胸の上へ引き寄せて、濡れないよう庇(かば)いながら屈(かが)む。

水の中へは左手だけを入れて、砂の上を二度、三度さらった。

指に当たった貝を、ひとつ拾い上げる。


 それから隣まで来て、拾った貝を横に並べた。


 浜の外れのほうで、砂を踏む音がする。


 若い漁師が先に振り返った。

それから、こっちも振り返る。


 箱の男が、箱を片腕に抱えたまま水へ入ってくる。

石の手前で止まった。

何も言わずに、ただ、立っている。


 坂の上でも一度、石のほうへ目を向けていた。

何をしに来たのかは、本人も分かっていないらしい。


 石の先へ、目をやった。

灯の届かない水が、そこから一段と暗い。


 急に深くなる、と若い漁師が言っていたあたりだ。

手首を掴んだのは、そこだった。


 手は、たしかに届いている。

届いていて、掴みきれなかった。


 それだけが、残った。

――燃えさしってのはね、燃えきらんで残った木の端のことさ。

半ばまで炭になったところで、火が止まっとるんだと。

浜じゃ、それを捨てんで、次の火の焚(た)きつけにするそうな。

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