底が割れる
――風の便り
「じょうの爺さまがさ、石の前で、外れの人に深々と頭を下げたんだよ」
「まりさんなんか、蒸かした芋を握らせて、名前で呼んでたってさ」
「来年から、あの刻は外れでまた音が鳴るんだと。あたしらはそれを黙って聞くのさ」
「よそから来た人は、戸を一枚貸すって言われて、笑いもしないで出てったよ」
〈万の棚〉の板の間で目を開けると、もう外は明るかった。
並んだ背の模様が寝転んだままでも見分けられる。
起き上がって、荷の口から帳面を出してみた。
一晩おいても、膨らんだままだ。
掌で押さえて離すと、ゆっくり元の厚みへ戻っていく。
綴じ紐はゆるめたまま、荷の底へしまった。
――見てもらう相手を、探しに行くか。
町では、紙を漉いている家を一軒も見なかった。
ふと、湯呑みに名を書いてもらった晩の語り部を思い出す。
山ひとつ向こうの道で紙の束を落として、風に飛ばされたのを半日かけて拾い集めた、と話していた。
ばらけた紙は、通りかかった者が、めくれる形に綴じてくれたそうだ。
畑の合間に、頼まれた紙を綴じている者だという。
どの山かまでは、聞きそびれた。
草鞋の紐を締めて戸口を出た。
窪みの底へは、今朝も細い道がいくつも下りてきている。
町へ抜ける一本は、行きも帰りも歩いた道だ。
今日は、林の切れ目へ上がっていく一本を行く。
◇
斜面を上りきると、向こう側がひらけた。
ゆるい下りの先に、竹やぶが広がっていた。
風が涼やかに通り抜けるたびに、葉がさやさやとさざめいて、やぶ全体が明るくなったり暗くなったりする。
その上を、燕が何羽も低く飛び交っていた。
巣立ったばかりなのか、羽ばたきのまだおぼつかない若い鳥も混じっている。
燕は人の住む家の軒に巣をかける。
あれだけ飛んでいるなら、やぶの先に家があるのかもしれない。
――道を訊くなら、燕のほうが早そうだ。
燕の多いほうへ斜面を下りた。
竹やぶの脇の道へ出ると、道の真ん中に竹が散らばっていた。
どれも腕の長さほどに切りそろえた太い竹で、そのあいだで年寄りが片膝をついて大きな籠を抱えている。
籠の底の編みが割れて、拾って入れるそばから竹が割れ目を抜けて転がり出ていた。
年寄りはこっちに気づくと、腰を浮かせた。
「ああ、すまん。道をふさいだ。
じき片づける」
言い終わらないうちに、また一本が割れ目から抜け落ちた。
荷を下ろして転がった竹を拾い集めた。
年寄りの横へ積んでから、抱えた籠に手を添えて、二人で底を上へ返す。
底の竹ひごが三本ほど折れて、割れ目が拳の幅まで広がっていた。
荷から布切れを出して端を細く裂いた。
裂いたほうを指で撚ってから、割れ目の両側の編み目へ通していく。
何度か回して引き締め、上と下でもう一度同じだけ掛けた。
親指で押すと、指の下で編み目がしっかり張っている。
年寄りは繕った所をしばらく眺めていたが、やがて結び目の一つに指を掛けてするりとほどいた。
「ええ繕いや。……けど、この結びでは、担いどるうちに緩む」
年寄りは布の端で輪を二つこしらえて、互い違いに掛ける。
きゅっと締めてから、余った端を結び目の下へ潜らせた。
結び目のどこからも、端が出ていない。
「こう結べば、ほどけん。
端を隠しとけば、どこにも引っかからん」
残りの二つも、同じ形に結び直していく。
指は少しも迷わない。
――繕ったのはこっちで、仕上げは向こうか。
年寄りは割れた編み目を指でなぞって、苦笑いした。
「籠を編んで食うとる者が、このざまや。
編む者の籠ほど、よう割れる。
人のを先にこしらえて、自分のは後回しになるでな」
足もとに積んだ竹へ目をやった。
「この竹も、籠にするのか」
「いや。月見に立てる竹や。
十五夜には、このやぶの広場へ、下の土地の者がみな寄る。
月を見ながら、毎年おんなじ話を聞きよる。
……その席の竹は、わしが割る」
繕った底をかばって、竹を寝かせて詰め直すと、三本だけ入りきらなかった。
荷を背負い直して、その三本をそろえて抱える。
年寄りは籠を背負い直して、頭を下げた。
「恩に着る。家は、すぐそこや」
竹やぶを抜ける細い道を、年寄りのあとについて歩いた。
道の先に、家が一軒あった。
軒の下に戸板が何枚も立てかけてあって、どの板にも紙が一枚ずつ貼りつけて干してある。
紙は白というより、ほんのり黄みがかっている。
――綴じる家ではなく、漉く家か。
年寄りは土間の脇に籠を下ろして、腰を一つ叩いた。
こっちも抱えてきた三本を、籠の横に立てかける。
「わしは、造いう者や。竹を割って暮らしとる。
籠も編む。ああして、紙も漉く」
造と名乗った爺さまは、土瓶の麦湯を椀に二つ注いだ。
一つを上がり口の板に置き、もう一つを持って自分も上がり口に腰を下ろす。
「いただく」
ひと口含むと、香ばしい匂いが鼻へ抜けた。
爺さまも一口すすって、長い息をついた。
「どっから来なさった」
「斜面の向こうからだ。燕の多いほうへ下りてきた」
「燕に、道を訊いたかい」
「訊いた。おかげで、迷わずに来られた」
爺さまは、声を立てずに笑った。
「燕も、今年はよう来た。
十五夜が過ぎたら、みな南へ発つ」
軒の下を、燕が一羽、低く潜り抜けていった。
爺さまは椀を置いて、膝に手をついた。
「さて……もうひと仕事」
土間にしゃがんで、籠に編むぶんの竹を割りはじめる。
竹の頭に鉈の刃を当てて、背を木槌で一つ打つ。
乾いた音がして、竹がまっすぐ縦に割れた。
割った竹を、今度は小刀で薄くそいでいく。
細く巻いた削り屑が膝の前に散った。
爺さまは手を止めると、その屑を掌で土間の隅へ寄せた。
隅にはもう小さな山ができている。
「減ったぶんだけ、渡っとる」
誰に言うでもない、言い慣れた口ぶりだった。
爺さまは、戸口の脇へ目をやった。
編み上がった籠がいくつも積んである。
どれにも色の違う布切れが一枚ずつ、端の出ていないあの結び方で留めてあった。
頼んだ家の目印らしい。
――削られた竹が、あの籠になって、頼んだ家へ渡っていくわけか。
竹を削る背中を眺めているうちに、荷の底の帳面を思い出した。
――そういえば、紙を見てもらいに来たんだったな。
麦湯を飲み干して、帳面を荷から抜き出した。
「紙を漉くなら、見てほしいものがある」
上がり口の板に帳面を置く。
爺さまは小刀を脇へやり、前掛けで手を拭ってから取り上げた。
表紙を指の腹で撫で、頁を一枚つまんで戸口の明るみに透かす。
「ええ紙や。どこも傷んどらん」
それから閉じて、上から掌で押さえた。
手を離すと、帳面はゆっくり元の厚みへ膨らんでいく。
「湿気た紙なら、押さえたら押さえたまんまになる」
爺さまは、ゆるめてあった綴じ紐をつまんで、少しだけ締めた。
締めたところが細くなって、その下が、見ているうちに膨らんでいく。
紐をつまんだまま、爺さまの指が止まった。
しばらくそうしてから、紐を元のゆるさに戻した。
「紙なら、分かる」
爺さまは指先で帳面を押して、こっちへ寄せた。
「だが……この綴じは、分からん。見たことがない」
「畑の合間に紙を綴じる者を、知らないか」
「……さあ。この辺りでは、聞かんなあ」
「紙のせいじゃないと分かっただけでも、ありがたい。助かる」
帳面を荷へ戻して口を締めかけたとき、梁から吊るした籠に目が止まった。
両手に載るほどの小さな籠だ。
竹がすっかり色づいて、編み目の角が丸くすり減っている。
戸口の脇の新しい籠と比べると、使いこまれ方がまるで違う。
「あれは、何を入れる籠だ」
爺さまは脇へやった小刀を取り直しかけて、顔を上げた。
「あれかい。あれは子や。籠に入れて育てた。
……そら、小さかったさかいにな。
それが、三月もせんうちに、籠からはみ出しよったがな」
それから削りかけの竹へ目を戻す。
「竹やぶで拾うた。
光っとったんで、照とつけた」
冗談を言う口ぶりではなかった。
干してある紙の話をしたときと同じ声で言った。
爺さまは新しい竹を一本立てて、頭に鉈の刃を当てる。
「あんたは、何をして歩いとる」
「回収屋だ。落ちてるものを拾って、持ち主に返す」
振り上げた木槌が、宙で止まった。
爺さまはしばらく刃の先を見ていた。
それから木槌を下ろして、竹を割った。
割れた竹を脇へ寄せて、爺さまは何か言いかける。
そのまま口を閉じて、次の竹を立てた。
二本目を割ってから、ようやくこっちを見た。
「……急ぐ旅でないなら、日が傾くまで、割った竹を運ぶのんを手伝うてくれんか」
帳面を見てもらった礼を、まだ何も返していない。
「ああ」
割った竹を壁ぎわへ運んで、立てていった。
爺さまが割って、こっちが運ぶ。
太いものから順に、端の高さをそろえて並べていく。
割る手を休めるたびに、爺さまはやぶの奥へ続く細い道へ目をやった。
何本目かで爺さまが手を止めて、並んだ竹を眺めた。
「繕いも、並べ方も、器用なもんや」
――〈万の棚〉の並びが、すっかり手になじんだか。
日が傾いて、戸口の外で燕の声がした。
表へ出ると、竹やぶの切れ目から下の土地の屋根が見えた。
燕はもう昼のようには飛び交っていない。
屋根のほうへ低く下りていって、いちばん高い棟のあたりへ次々に吸いこまれていく。
竹やぶの上には、半分より太った月が白く浮かんでいた。
――棚へ戻るなら、そろそろ発たないと斜面の道が見えなくなるな。
そう思って荷に手をかけたとき、やぶの奥から、葉を踏む音がした。
細い道を娘が一人、籠を背負って出てくる。
籠には枯れ枝が詰まっていた。
爺さまが戸口から顔を出した。
娘を見て、目もとがゆるむ。
「おう、戻ったか」
娘が小さくうなずく。
「照。ちょっと、こっちへ」
娘は籠を背負ったまま、爺さまのそばまで来た。
爺さまが低い声で何か言う。
娘の目がこっちへ向いて、しばらくそのまま動かない。
その目が一度だけ、竹やぶの上の月へ上がった。
籠を下ろすと、娘は両手の土を払った。
それから爺さまの耳もとへ、ひと言だけささやく。
爺さまが、こっちへ向き直る。
「この子が、あんたに頼みがあると言うとる」
娘が一歩、前へ出た。
「取ってきてほしいもんが、ある」
――「底が割れる」というのはね、籠の話なら、繕えばしまいさ。
話の底が割れると、そうはいかん。
詰めとったもんが、思いもよらん所からこぼれてくる。
……もっとも、割れてみるまで、底があったことにさえ気づかん話も多いがね。




