戻ってきた
――風の便り
「あの日の、日の傾く刻に黙ってる決まり。わけも知らずに守ってきたけどねえ」
「じょうの爺さまが言ったんだよ。黙ってることが、約束だったって」
「夕方、通りの真ん中を、音を連れてひとりきりで歩いてくお人がいてさ」
「戸の隙間からのぞいてたら、あのゆうごさんが走って出てきたんだと」
日の落ちかけた石畳。
じょうの爺さまの家の前に、紙が散っていた。
通りを戻ってきたこっちは、そのそばで足を止めた。
道の脇に居たあの男が、広場で名乗ったあと、ゆうごに肩を支えられて戸口を潜っていく。
肩は借りていても、足は自分で前へ運んでいた。
支えるゆうごのほうが、片方の足を引きずっている。
あとから入るじょうの爺さまが、散った紙のほうを戸口で一度振り返った。
拾いには来ないまま、家の戸も開いている。
――放っておくわけにもいかないな。
荷を下ろして、散った紙をこっちが一枚ずつ拾い集めた。
石の継ぎ目に挟まった一枚も、軒下まで飛んでいた一枚も残さず拾う。
いちばん遠くまで飛んでいたのは、束の中で一枚だけ薄い、頭の欠けた紙だった。
紙の端に付いた土を指で払ってから、膝の上で端をそろえて一つの束にした。
束を戸口の敷居の内へ置いて、表へ一歩下がった。
戸口の奥に灯が一つ点くと、外からでも土間と板の間が見えた。
板の間には男が横になっている。
ゆうごは土間に腰を下ろして、片方の膝を掌でさすっていた。
じょうの爺さまが、敷居の内に置かれた束に目を留めた。
かがんで取り上げ、戸口の外のこっちへ一度だけ目を上げた。
「……すまんな」
「紙が石畳で寝てるのは、どうも落ち着かなくてな」
じょうの爺さまは上がり口に腰を落とした。
上から繰って字の褪せた一枚を抜き出すと、墨で潰した書き出しを灯にかざした。
「……潰してあったのはな、……名だ」
紙を手にしたまま、じょうの爺さまは板の間へ目をやった。
「言い伝えの、あの男の名だ。
口に出せば戻ってきて、また子らを連れて行く、と教わった。
だから町じゃ誰も口にせんで、いちばん古い紙の書き出しも、墨で潰してきた」
その名の主が、いまこの家の板の間で横になっている。
じょうの爺さまは、その顔をしばらく見ていた。
紙の端を持つ指が、かすかに震えている。
幾代も呼ばずにきた名を、さっき広場で当人が自分の口から名乗ったのだ。
「……戻ってきたな」
責める声でも、怯える声でもない。
戻ってきた者を迎え入れる声に聞こえた。
男が、目を開けた。
じょうの爺さまは、その目を見たまま続けた。
「幾代も黙っとった名を、なんでまた、今日になって名乗った」
男は天井へ目を向けたきり、口を開かなかった。
じょうの爺さまもそれ以上は訊かずに腰を上げた。
土間の奥で水を汲む音が、戸口の外まで聞こえてくる。
じょうの爺さまが水を汲んだ椀をそばへ置くと、男は腕をついて体を起こした。
握っていたものを膝の脇へ置いてから、自分の手で椀を取って、ゆっくりと飲み干す。
じょうの爺さまは何も言わずにそれを待っていた。
膝の脇に置かれたものが、灯を受けて細く光っている。
笛だった。
掌に収まるほどの短い笛で、指の当たるあたりだけが長く握られて黒ずんでいる。
夕方、手の中に隠れていたのは、これだったのか。
飲み終えたあとも、男はしばらく椀を膝の上で持ったままでいた。
空の椀を置くと、笛をまた握り込んだ。
戸口の外のこっちへ一度だけ目を向けてから、何も言わずに横になった。
顔の上の一枚は、まだ載っている。
戸口の外からでも、それは視えた。
じょうの爺さまの目が、握り込まれた手のほうへ落ちた。
「……さっき鳴っていたのは、それか」
男は、握った手を胸の上へ引き寄せただけだった。
じょうの爺さまは問いを重ねずに手もとの紙の端をそろえ直してから、開けたままの戸口越しに表の通りへ顔を向けた。
「鳴りよったのは、うちの向かいの戸と、井戸だけだ。
桶も台も、何ひとつ鳴らんかったのにな」
振り返ると、通りを挟んだ所に、板の古びた戸が一枚あった。
夕方、みしりと軋んだあの戸が、いまは暗い通りの向こうで、閉じたまま音ひとつ立てない。
土間のゆうごが、膝をさする手を止めずに言った。
「向かいの家は、あの日もあった」
じょうの爺さまが、向かいの戸から目を戻さずに頷いた。
「……ああ。
この通りで、あの日から建っとるのはあそこだけだ。
井戸も、掘り直したとは聞かん」
じょうの爺さまの答えに、ゆうごが顔を上げずに続けた。
「桶も滑車も、とうに替わっとる。
あの日にこの音を聞いたもんは、木でも水でも、その音を憶えとる。
だから、また聞けば応じる」
ゆうごの手は、話しているあいだも膝をさすりつづけていた。
あの膝も、あの日のことを憶えているのかもしれない。
灯の芯がじじっと小さく焦げる。
ゆうごは膝に目を落としたまま、小さく言い足した。
「……俺も、聞いた」
じょうの爺さまが、土間のゆうごへ顔を向けた。
「わしがちいせえ時分から、おめえは今と同じ顔で、あの日の話をしとった。
……年を食うたのは、わしだけだ」
「……ああ」
ゆうごが短く応えると、じょうの爺さまは少しのあいだ黙ってから、言葉を継いだ。
「子らの列のいちばん後ろで、足が遅れた、とな。
町の者は昔語りの真似だと笑うとった。
わしも、本気にはせんかった」
板の間で、男の目が天井からゆうごのほうへ移った。
ゆうごは膝をさする手を止めて、その手に目を落としたまま言った。
「それでも爺さまは、会うたびに、今度はどうだったと声を掛けてくれた」
「……訊くだけなら、ただだからな」
「ただの割には、よう訊いてくれた」
それから、ゆうごがぽつりと言った。
「昼に辿った石の日づけと刻は、俺の憶えとるとおりだった。
市じまいで町がやかましかった、あの日の、あの刻だ」
じょうの爺さまは鼻を一つ鳴らして紙を膝へ下ろし、それきり黙った。
ゆうごは土間から立たずに、一度だけ自分の手を見下ろした。
広場で受け止めたとき、あの手はふっと浮いた。
その手ごたえを、まだ確かめているような目だった。
閉める戸は今夜も持ち合わせていない。
それに今夜は、屋根の上を見張れる所で明かしたかった。
家の前の荷を背負い直し、広場の端まで戻って下ろした。
少し先の石畳に、夕方ほどかれた布がひと山のまま落ちている。
――布を取りに戻ったんじゃない。
名乗りに戻ってきたのか。
布は男のものだから、手は出さない。
それが見える軒下で、荷を枕にし直してから横になった。
目を閉じる前に、屋根の並びをひと巡り見た。
どの屋根の向こうにも、今夜は何も視えない。
じょうの爺さまの家の灯は、夜が更けても点いていた。
◇
あくる朝も、広場には市が立った。
通りの戸が端から開いて、台が並ぶ。
繕いの布を広げているのは、まりさんだ。
寝場所の無かったこっちに、二晩、宿を貸してくれた。
その隣では、筵に青菜を積む者もいる。
子どもが台のあいだを走り抜けて、店の者に叱られていた。
若い衆が三人、通りから入ってきた。
路地で一人ずつ相手をした、あの三人だ。
前の二人は天秤棒の両端に籠を下げて、青物を運んでいる。
いちばん後ろの一人は、腰の縄で籠を背にくくりつけていた。
その手首には、布が巻いてある。
前を行く一人がこっちに気づいて、小さく頭を下げた。
それきりで台のあいだへ抜けていく。
――棒も縄も、やっと元の使い道に戻ったらしい。
台の支度を終えたまりさんが、こっちに気づいて手招きした。
「閉める戸が無いって、爺さまに言ったんだってね。
うちの戸を貸してやったのに」
「戸まで背負って歩くのは、さすがに骨が折れる」
まりさんは声を立てて笑うと、台の端に蒸かした芋を一つ置いた。
食べな、と顎で示す。
「……助かる」
「礼なんかいいよ。
あんた、借りた桶まで元の所へ戻してく人だって聞いたもの」
――噂は足が速い。
芋はまだ温かかった。
二つに割ると、中から湯気が上がる。
台のそばに立ったまま少しずつかじった。
そのあいだにも市の支度は進み、青菜の束が筵の上で高くなっていく。
天秤棒の二人は空の籠を提げて通りへ戻っていった。
食べ終えてから、まりさんにもう一度頭を下げて台を離れた。
広場の端の布は、ひと山のまま残っている。
筵を広げる者たちも、その脇だけはよけていた。
こっちは荷を背負ったまま、広場の端からそれを眺めている。
猫が、屋根と屋根のあいだを渡っていった。
きのう紙の並んでいた石の上には、まだ何も載っていない。
昼を回ったころ、男が石のそばへ来た。
誰に呼ばれたわけでもなく、自分の足で戸口から歩いてきた。
顔の上の一枚は、ゆうべ視たときと変わらずに載っている。
笛は握ったままで、その手は脇に下ろしている。
台のあいだの何人かが、男の握った手へちらりと目をやっては、すぐに伏せる。
ゆうごもあとから来て、石の脇に並んで、片手を石の縁に置いている。
まりさんが布から顔を上げた。
市の手を止めて、何人かが石のほうへ寄ってくる。
男は石の手前で足を止めると、石に手は伸ばさず、誰の顔も見ないまま口を開いた。
「あの年までは、毎年、あの刻は外れで音を鳴らしてた」
声は大きくなく、石のまわりの台に届くくらいだった。
「毎年、あの刻には、町のそばを通っていくものがある。
それは、音のするほうへと寄っていく。
だから外れでこれを鳴らして、町から逸らしてた。
そのあいだ、町には黙ってもらっていた」
そこで一度口を閉じて、広場を囲む屋根のほうへ目を上げた。
きのうの夕方、あの一枚が音のするほうへ向き直っていた屋根の向こうだ。
「あの年は、鳴らしてるときに、町のほうからも音がした。
外れからじゃ、俺の音は町の音に紛れて、あれまで届かなかった」
目はまた、石の横っ腹の彫りへ落ちた。
市じまいの音だと、じょうの爺さまがきのう言っていた。
男は一度息を継いでから、また口を開いた。
「届かんのならと、鳴らしたまま町へ入ると、子らが音について出てきた。
家へ帰そうにも、あれが向かってたのは町だ。
前に立って、鳴らして歩いた。
子らを町から離そうと思って。
……だが、振り向いたら、誰も居なかった」
男は、息を一つ吐いた。
「あくる朝まで、先へ先へと鳴らして探したが、草鞋の片方も見つからなかった」
笛を握った手に、筋が浮いた。
「それからは、鳴らさずにいた。
町じゃ、俺が子らを連れて行ったことになってた。
鳴らせば、その話のとおりの男になる」
言い終えても、男の手の筋は浮いたままだった。
まりさんの手が縫いかけの布の上で止まった。
針は布に刺さったまま、糸がたるんで垂れている。
青菜を積んでいた者も、一束を持ち上げたまま、そっちへ顔を向けている。
あの一枚が屋根から屋根へ近づいてきたのは、決まりの刻にこっちが石を打ってからだ。
掌の内で、小石の角でついた傷がうずいた。
右の手をいつの間にか握り込んでいた。
しばらくして、男の手から筋が引いていった。
握った指はそのままに、肩が一つ下がる。
男の目が、石のまわりに立つ顔を端から辿って、ゆうごのところで止まった。
「……後ろに、足の遅いのが一人、いた」
ゆうごが、石の縁から手を離した。
引きずる足で、男のほうへ一歩出る。
「……俺だ」
男は、ゆうごの顔から目を離さない。
ゆうごの喉のあたりで、声が一度つかえる。
「皆には、とうに置いていかれとった。
畑の中で日が暮れて、そこから先へは足が出なんだ。
それでも、先を行く音は、朝までずっと聞こえてた。
……急げ、と言ってるように聞こえた」
男の口が一度開きかけて、閉じた。
「……聞こえてたか」
ゆうごが頷いた。
男は、握った笛に目を落として言った。
「……町から離れろ、急げと、鳴らしてた」
ゆうごの声が、かすれた。
「……俺が遅れたから、皆を見失ったんだと、思ってた、……ずっと」
ゆうごは石の縁に手を戻して、指先が白くなるほど押さえている。
男の、笛を握っていないほうの手が、ゆうごのほうへ上がりかけた。
白くなった指の手前まで来て、そこで止まる。
男は、ゆうごの顔を見たまま、首を一度だけ横に振る。
石のまわりが、しんと静まった。
握り込んでいた右の手が、いつの間にかほどけていた。
じょうの爺さまの家の戸口で、紙の擦れる音がした。
出てきたじょうの爺さまは、紐のほどけた紙の束を胸に抱えている。
いちばん上には、ゆうべ灯にかざした字の褪せた一枚が載っていた。
戸口の内で、いまの話を聞いていたらしい。
石を囲む顔を端から見回して、じょうの爺さまは口を開いた。
――「戻る」というのはね、出ていったもんが、元の所へ帰ってくることさ。
呼ばれて戻るもんもあれば、誰にも呼ばれんまま戻ってくるもんもある。
名というのは、たいがい後のほうでね。誰も呼ばんようになって久しいころに、本人の口から、ひょいと戻ってくる。




