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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第三章 音は災いの元

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合った

――風の便り

「ゆうべ灯を提(さ)げて坂を上ってった若い衆、手ぶらで戻ってきたってね」

「今日は路地から三人そろって、棒を杖(つえ)みたいに突いて出てきたよ」

「何があったか訊(き)いても、だんまりでさ。手首なんかさすっちゃって」

「あのよそのお人は、井戸で水を一杯もらって、桶まで元の所へ戻してったんだと」

 道の脇に立っている者は、こっちが行き過ぎても、そのままそこにいた。

行き過ぎざまに目をやると、顔の上に一枚、載っているのが見えた。


 だいぶ歩いてから振り返ると、その姿はもう小さくて、顔までは分からなかった。

道から少し外れた木の下に荷を下ろして、その晩はそこで明かした。

荷を枕にすると、中の帳面の角が頭に当たる。

夜が更けても、道からは足音ひとつ聞こえてこない。


 外れの石のことは、じょうの爺さまにはまだ訊(き)いていない。

広場の石の言い伝えを聞かせてくれ、書き継いだ紙の束まで家にしまっている。

何か思い当たる節(ふし)があるかもしれない。

夜が明けたら、話しに行ってみよう。


 空が白むと、荷を背負って来た道を戻った。


 道の脇に居た者は、今朝も昨日と同じ所に、同じ向きで立っていた。

顔の上の一枚も、載ったままだ。


 しばらく歩くと、足元の土が石畳(いしだたみ)に変わって、道の両側に軒が続きはじめた。

広場には、市の台がもう出ていた。

干した魚を並べている者もいる。


 石のそばでは、じょうの爺さまが指の腹で角を撫(な)でていた。

その脇まで行って、じょうの爺さまにもらった布を巻いた左の腕を上げてみせた。


「布、助かった。おかげで、傷はもう塞(ふさ)がった」


 じょうの爺さまは腕へ目をやって、小さく頷(うなず)いてくれた。


「ひとつ、訊(き)きたいことがあってな。

この町を出て、畑のあいだを少し行った道端に、石が一つあるだろう」


 角を撫(な)でる指は、止まらない。


「同じ日づけばかり、数え切れないほど重ねて彫ってある。

彫り手は、どれも同じに見える。

……爺さまなら、何の事か知ってるんじゃないかと思ってな」


 指が角の下のほうへ下りて、そこで止まった。

じょうの爺さまはこっちを見ないまま、家のほうへ歩いていった。


 ――余計なことを訊(き)いてしまった。


 じょうの爺さまは、しばらく戻ってこなかった。

そのあいだにも、干した魚の台の前では客が何人も入れ替わっていく。


 荷を背負い直して、広場を離れようかと考えはじめたころ、じょうの爺さまが戻ってきた。

紐で十字に縛った紙の束を抱えている。

石の言い伝えを書き継いだ、あの束だ。

家の戸は、開けたままだ。


 束を石の上へ置いて、紐を解(ほど)く。

いちばん上の、墨の黒い新しい紙を左の端に置いて、そこから順に右へ並べていく。

下の紙ほど字が褪(あ)せている。

右の端には最後に、書き出しを墨で潰(つぶ)した、いちばん古い紙を置いた。


 並べ終えると、口を開いた。


「幾代(いくよ)も前から、伝わってる話だ」


 話しながら、手はいちばん古い紙を取った。

新しい紙の列を、指の背でまとめて右へずらす。

空いた左の端へ、古い紙を置く。


「あの男が、音で子らを連れて行った」


 手はまた、右の端から古い紙を一枚取って、その隣へ置いた。


「町が、約束のものを渡さなかったから」


 古い紙が一枚ずつ左へ来て、新しい紙は右へ右へと押しやられていく。


「その報いだ。……わしらは、そう聞かされて育った」


 話が終わっても、手はまだ右の端へ伸びていく。

石の上では、古い紙と新しい紙の並びが、ほとんど逆になっていた。


 ――口と、手が、合っていない。


 何枚目かで、手は前の紙から少し離して次の紙を置いた。


 紙と紙のあいだに、一枚ぶんの隙が空いた。

石の面が、そこだけ出ている。


 手が、止まった。


 人が少しずつ、石のまわりへ集まってきた。

桶を提(さ)げた者もいれば、天秤棒(てんびんぼう)を肩から下ろして足を止めた者もいる。

こっちは石の脇に立ったまま、じょうの爺さまの手もとを見ていた。


 並べ直したいま、左の端にはいちばん古い紙がある。

手はそれを取って目の高さまで持ち上げ、少し遠ざけた。


 指の腹が、墨で潰(つぶ)した書き出しの上で一度止まった。

そこから先は唇だけが字を追って、締めくくりのひと言だけが声になった。


「……報いだ」


 読み終えた紙を、じょうの爺さまは左の端へ戻した。

端を指でそろえて、掌(てのひら)でそっと押さえる。

昔あったことを確かめる手つきで、しばらく離さなかった。


 手を載せたまま、目だけが石の横っ腹へ下りていく。

いつも撫(な)でている角の真下には、日づけと刻(とき)が彫ってある。


「……これは、攫(さら)われた日じゃねえ」


 声が、低くなった。


「わしらが音を立てた日だ」


 その目が、市の台へ移った。


「あの日も、市が出ていた」


 ひと息おいて、じょうの爺さまは続けた。


「日の傾く刻(とき)は、市じまいだ。

売り声に、台を畳む音に、荷車のきしむ音。

わしがちいせえ時分から、一日でいちばんやかましい刻(とき)だ。

……あの日も、そうだったはずだ」


 手が、彫りの真上の角を、ぐっと押さえた。


「約束のもんは……あの日、あの刻(とき)に、黙ってることだった」


 桶を提(さ)げていた者の手から、桶が抜け落ちた。

底から石畳(いしだたみ)に当たって、ごとん、と広場に響く。


 石を囲んだ何人かが、びくりと肩をすくめた。

そばの一人が拾おうと腰をかがめかけて、途中でやめる。


 桶は誰も、拾わなかった。


 石の上の紙へ、目を戻した。

いちばん古い紙から新しい紙まで、左から順に並んでいる。


 じょうの爺さまの手は、口より先に、順を知っていた。


 ――それで毎年あの日だけは、市を立てずに黙っているんだな。


 気がつくと、右の手を拳(こぶし)に握り込んでいた。

掌(てのひら)に爪が食い込んで、あの夕方に小石の角でついた傷がまた開き、ちくりと痛む。


 決まりの刻(とき)にこの広場で石を打って、音を立てたのは、こっちも同じだった。


 石を囲んだ人の後ろのほうで、誰かが振り返った。

人が左右へ割れて、道が空く。

人垣のいちばん後ろに、ゆうごが立っていた。

話のどのあたりから聞いていたのかは、分からない。


「……ゆうごさん」


 人垣のどこかで誰かが小さく呼んだが、返事は無い。


 ゆうごは人のあいだを抜けて、石の前へ出た。

紙のほうへは目もやらない。


 何も言わずに、先に手が伸びた。

彫りの上へ指を置いて、日づけの字を上から下へ辿(たど)る。

刻(とき)の字で止まって、また上へ戻る。

指は、何かを探している。


 〈万(よろず)の棚〉では、この指で本の背を一冊ずつ辿(たど)り、この町の話の写しを十七数えて、どれも合わんと言っていた。

それなのに、この石には、これまで一度も目も向けなかった。


 その指が、また日づけの頭へ戻った。

今度は一字ごとに止まりながら下りていき、刻(とき)の字まで来て、また頭へ。


 三度めの途中で、ゆうごの指が止まった。


 指の腹は、そこでぴくりともしない。


 ゆうごが、ひゅっと息をのんだ。

見開いた目が、押さえた字に吸い寄せられている。


 もう一方の手が、自分の額へ上がった。

指先が、こめかみを強く押さえている。


 見開いていた目が、少しずつゆるんでいく。

詰めていた息が細く長く抜けて、その終わりが声になった。


「…………合った」


 額の手を下ろして、石の縁(ふち)についた。

それから両手を石に預けて、背を丸めてうつむいている。


 じょうの爺さまは、今度は、何も訊(き)かなかった。


 ゆうごの丸めた背を見つめて、目を閉じる。

目の端に深いしわを寄せて、長い息を一つ吐いた。

ゆうごが詰めていた息と、同じくらい長かった。


 それだけだった。


 やがてゆうごの指が彫りを離れて、紙のほうへ滑りかけ、一枚ぶんの隙間の手前で止まった。

さっき、じょうの爺さまの手が止まったのと同じ所だった。


  ◇


 日が傾きはじめて、家並みの影が広場まで伸びたころだった。


 視えた。


 あの一枚が、広場を囲む屋根のすぐ向こうにある。

屋根の陰で目には入らないはずの所なのに、ちゃんと視えている。

ただ、こっちには何も伝わってこない。


 あの日、広場で石を打ってから、あの一枚は、一つ所に留まらなくなっていた。


 右の屋根の陰に視えたかと思うと、もう左の屋根の向こうにある。

あちこちへ移りながら、少しずつこっちへ寄ってくる。

近づいてきても、縁(ふち)はざわざわと揺れたままだ。


 屋根の上へは、誰も目をやらない。

町の者が見ているのは、石に手を載せたまま黙っている二人のほうだ。


 あの日、あの刻(とき)に黙っていること。

じょうの爺さまがそう言ったのを、ここにいる誰もが聞いている。

その刻(とき)が、近づいてきていた。


 市の台を畳む者が出はじめた。

いつもなら一日でいちばんやかましい刻(とき)に、誰も声を上げずに台を畳んでいく。


 話し声が一つずつ途切れて、人が引きはじめた。

天秤棒(てんびんぼう)を担ぎ直した者が通りの奥へ消え、石のまわりにいた者も、外側から一人ずつ離れていく。


 戸が閉まりはじめた。

広場に近い家から、順に閉まっていく。

どの屋根からも、煙ひとつ上がっていない。


 人の消えた通りを抜けて、風が吹いてきた。

石の上の紙が一枚飛ばされて、地面を滑って止まった。

拾う者は、誰もいない。


 広場に居るのは、じょうの爺さまとゆうごと、こっちだけになった。


 屋根の上では、あの一枚がまだ移りつづけていた。

移る間がだんだん短くなって、目のほうが遅れはじめる。

次の屋根を探したときには、もう、どこにも視えなかった。


 見失った。


 視えないまま、もっと近くまで来ているのかもしれない。

あの一枚が広場まで来たら何が起きるのか、こっちには分からない。


 分からないなら、まずくなったときに引ける道だけは、確かめておきたい。


 広場に近い路地は、昨日のぞいたかぎり、奥で外へ抜けているものが無かった。


 出口は、一本きりだった。

広場の端から延びる通りの先、家並みの切れた所に畑が見える。

今朝は、あそこを通ってきた。


 その通りに、引き上げた者の残していった空の桶や畳みかけの台が出たままになっている。

駆け抜けるときに足を取られないよう、軒下へ寄せて、桶は伏せておいた。


 戻る道を、先に空けておく。


 じょうの爺さまやゆうごのためか、ほかの誰かのためかは分からない。

分からないが、空いていれば、誰でも通れる。


 石のそばへ戻ると、二人はまだそこにいた。

じょうの爺さまが、こっちを見ずに言った。


「今日は、日が落ちるまで戸を閉めときな」


「……閉める戸が、こっちには無い」


 じょうの爺さまは落ちていた紙を拾い、石の上の紙と重ねると、縛り直さずに脇へ抱えた。

ゆうごを先に家へ入れてから、自分も入っていく。

戸は閉めずに、上がり口に腰を下ろして表を向いた。


  ◇


 西日が低くなって、通りの片側だけが赤く染まった。


 石のそばから目をやると、広場の端、通りが延びはじめる所に、人が一人立っていた。

広場のほうを向いている。


 顔の上の一枚は、朝のまま載っている。

あの一枚と同じものなのか、別のものなのか、ここからでは見分けがつかない。


 両手には、布を巻いた細長いものを持っていた。

何度も巻き直したらしく、布の端がほつれている。

足元には、土が付いていない。


 町の外れの、道の脇に立っていた者だ。


 背中のほうへ延びる通りは、町の出口を抜けて、ゆうべ立っていたあの道の脇へ続いている。


 顔だけが、そちらを向いた。


 布の端に手が掛かった。

掛けただけで、ほどきはしない。

風が無いのに、ほつれた端だけが少し揺れている。


「……ここに、居る」


 声はこっちへ向いていなかった。

自分に言い聞かせているように聞こえる。


 巻いた布を、端からほどいていく。

ほどけた布は、足元にひと山溜まった。


 細長く見えたのは、ほとんど布だった。

中身は握った手にすっかり隠れて、こっちからは見えない。


 その者が、手を上げた。


 それだけで、音が鳴り響いた。

細く高い音が、切れ目なく長く伸びて、通りを端までまっすぐ渡っていく。


 見失っていたあの一枚が、また視えた。

さっきより近い屋根の、その向こうだ。


 あの一枚には何も感じないのに、この音は、胸の奥まで細くしみてくる。

気がつくと、息が浅くなっていた。


 戸が一枚、内側から押されたように撓(たわ)んで、みしり、と低い音を立てた。

板そのものが軋(きし)んでいる。


 畳んだ台も、井戸の滑車(かっしゃ)も、軒下に伏せておいた桶も、音を立てない。

音は鳴っているのに、町の者は息をひそめたままだ。


 少し遅れて、井戸のほうで水が揺れ、縁(ふち)を打つ音がした。

汲(く)む者は、誰もいない。


 あの一枚が音のするほうへ向き直り、一息のあいだに広場の端のほうへ移った。


 その者は、そのまま立っている。


 あの一枚はさらに近づき、あと少しのところで止まった。


 ――あそこじゃ、こっちの手は届かない。


 上げていた手がゆっくり下りて、肩の辺りで止まった。


 通りには、その者とこっちのほか、誰も居ない。


 閉まった戸の隙間から、目がいくつものぞいている。

開けたままの戸の内にも、表のほうを向いた顔がある。

どれも、その者を見ていた。

上を向いているのは、こっちのほかに一つも無い。


 その者が歩き出した。


 音を出したまま、通りを端から端まで、町の出口のほうへまっすぐ歩いていく。

急ぐでもなく、通い慣れた道を行くような足取りだった。


 町の者は、誰一人追わない。

こっちは、考えるより先に足が出ていた。


 広場の端に溜まった布を横目に見ながら、その脇を抜けた。

ずっと巻き直してきた布を、その者は振り返りもせずに置いていった。


 あの一枚も、音のあとについていく。

あれが視えているのは、この町でこっちひとりきりだ。

行き着く先くらいは、見届けておこう。


 通りへ入ると、その背はもう三軒ほど先にあった。

空けておいた通りを、音はまっすぐ抜けていく。


 その者が通り過ぎた家から、隙間から見ていた戸が順に開いていった。


 子を抱えた者が、戸口まで出てきた。

子の頭を胸に押し当てたまま、そこで足を止めている。


 その者が、通りの端から町の外へ出ていく。


 こっちは、石畳(いしだたみ)の切れる所で足を止めた。

この先まで追えば、戸を開けたまま表を向いているじょうの爺さまの家が、目の届かない所になる。

ここからなら、その背も目で追える。

その背が、畑のあいだの道を小さくなっていく。

あの一枚も、同じほうに視えた。


 音が遠のいて、畑のあたりで聞こえなくなった。


  ◇


 背中のほうでは、揺れた水が井戸の縁(ふち)に当たる音が少しずつ小さくなって、やがてやんだ。


 振り返ると、広場の端に、ほどいた布が落ちたまま小さく見えた。


 ――あの布だけは、取りに戻ってくるかもしれない。


 暮れかけた町の外から、一人ぶんの足音が背中へ近づいてきた。

足音が石畳(いしだたみ)に上がって、すぐ後ろで止まる。


 向き直ると、道の脇に居た者が立っていた。


 屋根の向こうには、もう何も視えない。

上げていた手は下りていて、手の中のものまでは見えない。


 その者が、また歩き出した。

こっちは半歩よけて、道を空けた。

顔の上の一枚には、こっちから目をやらなかった。


 そのまま通りを戻っていく。

広場の真ん中、石の手前で足を止めて、しばらく、そこに立っていた。


 自分の胸もとに指を当てて、口を開いた。


「……アルノ」


 自分の名を、口にしたらしい。

声は小さい。

それでも、通りの端にいるこっちまで届いた。

この町で耳にしてきた名とは、響きが違う。


 こっちも、通りを広場のほうへ戻りはじめた。


 じょうの爺さまの家の、開けたままの戸口から、ゆうごが片方の足を引きずりながら出てきた。


「そうだ……そう、そう呼んでた。

先を行ってた者らが」


 そのあとから、束を抱えたじょうの爺さまが戸口に出てきた。

その束が、胸から滑り落ちた。

幾代(いくよ)もの手で書き継がれてきた紙が、石畳(いしだたみ)の上へ扇(おうぎ)の形に広がっていく。

じょうの爺さまは、散った紙には見向きもしない。


 その者が、声のしたほうへ一歩踏み出した。

ゆうべから立ちどおしだった足が、膝から折れる。

体が、前へ傾いた。


 こっちが駆け寄るより早く、ゆうごが引きずる足のまま前へ出た。


 ゆうごがその腕を取り、倒れかかる体を受け止めようと身構えた。

受け止めたはずの手が、ふっと浮く。

ゆうごの目が、自分の手もとへ落ちた。


 取った腕が、思ったより軽かったらしい。

――目が合う、息が合う、話が合う。「合う」には、たいてい相手が要る。

ひとりで「合った」と言えるのは、長いこと探しとったものに、やっと行き当たったときくらいでね。

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