握りを直す
――風の便り
「朝のうちは、よその語り部が話の順をあべこべにして、笑われてたのにねえ」
「決まりの刻に広場で石を打つ音がしたって話が、昼前に回ってきてね」
「それからは、日のあるうちから戸を閉めちまってさ」
「閉めたら閉めたで外が気になって、つい隙間からのぞいちまうんだよ」
「若い衆が、よそのお人を探して通りを回ってるのが見えたよ」
語り部は、板の間に残った。
あれだけの紙のある所へ、灯を近づけたくはない。
荷を背負って窪みを出ると、町へ続く一筋を斜面の途中まで一人で上がった。
ここから尾根をひとつ越えれば、あとは下りで、町までは半日もかからない。
灯は思ったより早く近づいてきた。
尾根を越えてこっちへ下りてくるあいだ、灯はずっと揺れていた。
近づくにつれて、持ち手の歩みに合わせて振れているのだと分かった。
目の前まで来ると、灯はひとつきりで、提げている者の後ろにもう二人いた。
先頭の者は、腰に縄を巻いている。
後ろの二人は、荷を振り分けて担ぐための棒を一本ずつ持っていた。
棒を持った二人は息が上がっている。
町からの上りを、急いできたらしい。
「あんたがよそ者だな」
先頭が灯を上げて、顔のほうへ近づけてくる。
近すぎて、まぶしいだけだ。
「いつ来た。どこから来た」
答えなかった。
〈万の棚〉の名を出せば、この灯は棚まで下りていく。
語り部が道を訊けたのも、あの町だった。
「広場で石を鳴らしたのは、あんただろう。
町の決まりを知らねえ者は、困るんだ」
声は平たい。
誰かの文句を、そのままなぞっているらしい。
後ろの一人が前へ出た。
「帰れ。町から出て行け」
棒が膝の高さを横へ薙いだ。
足を引いて、やり過ごす。
当てるつもりはなく、追い立てる振りだ。
黙っていると、男はもう一度棒を構えた。
「聞こえてんのか」
二度目が来た。
半歩、内へ入る。棒は肩の横を通って、空を切った。
そのとき、見えた。
振り出す前に、その男は握りを直している。
右手を少し先へ送って握り替えてから、振る。
一度目も二度目も、同じように握り替えていた。
棒はもう一度上がりかけて、途中で止まった。
当たらなかったことに、振った本人がいちばん驚いた顔をしている。
先頭が灯を振った。
芯が短くなって、光の輪が縮んでいる。
油の残りは、もう長くない。
「……明るくなってからだ。
ここじゃ、足元が見えねえ」
――見えないなかで二度も振っておいて、それを言うか。
背を向けた三人へ、小さく言っておいた。
「足元に、気をつけてな」
三人は来た道を戻っていった。
灯が斜面を上がって、尾根の向こうへ消える。
草の上に、棒の先が擦った跡が一筋だけ残っていた。
その夜は、道の脇の大きな岩の陰で明かすことにした。
岩に荷をもたせかけて、その横に腰を下ろす。
見上げると、尾根の切れ目には星が出ているだけだった。
夜明けまでは、まだだいぶある。
振り返ると、下の窪みは底まで暗く沈んでいた。
あそこには、語り部とあれだけの紙が残っている。
こっちが逃げ回れば、探す足はいずれあそこまで下りてくる。
目を上へ戻した。
三人は、朝になればまた探しに来る。
見つかるまで探すのなら、窪みから離れた町で先に待っているほうがいい。
広場で屋根から屋根へ移ったまま視えなくなったあの一枚が、いまはどこに視えるのか。
それも、この目で確かめておきたい。
町へ入るのは、明るくなってからだ。
さて、どう帰ってもらうか。
追い詰めすぎれば、鼠だって猫に噛みつく。
帰り道だけは、塞がずに空けておこう。
町のどこで待てばいいか、足もとの土に引いてみる。
指で、通りに見立てた線を二本。
途中で、二本のあいだをぐっと詰めると、細い路地の形になった。
ここなら、三人いっぺんには掛かってこられない。
一人ずつなら、どうにかなる。
そういう細い所は、通りを一度歩けば見つかるだろう。
岩にもたせかけた荷に手を置いた。
背負ったままでは、体が思うように回らない。
これは、先にどこかへ下ろしておこう。
土の線を掌でならしてから、膝を抱えて目を閉じた。
段取りを胸の内でもう一度なぞっているうちに、いつのまにか眠っていた。
◇
夜が白んで、道の形が戻ってきた。
荷を背負って尾根を越え、下りきってから川を渡った。
流れの緩いところを選んで、膝までの浅い筋を踏む。
布を巻いた腕だけは、水から上げておいた。
昼前に、町の屋根が見えてきた。
昨日は日のあるうちから戸が閉まりはじめていたと聞いたが、どの戸も表へ開け放してある。
軒先には洗った着物が並んで揺れ、どこかで子が大声を上げて駆けていく。
今日は、それを誰もなだめに出てこない。
広場の上に目をやった。
あの一枚は、どの屋根にも視えなかった。
軒から軒へ、端から順に目で追ってみたが、やはり見当たらない。
屋根ばかり見上げていては、人目に付く。
あの一枚のことは、あとに回した。
町を出る前に、もう一度見上げればいい。
大通りを一度、端まで歩いてみる。
ゆうべ土に引いた二本の線を思い浮かべながら、脇へ入る路地も一つずつのぞいていく。
人が並んで通れる路地もあれば、天秤棒を担いだ者が体を斜めにしないと抜けられない路地もある。
広場の隅で、男の声がした。
声のほうを見ると、〈万の棚〉で会ったゆうごが、町の者を一人つかまえて何か話している。
片方の足を、少しかばって立っていた。
棚では、町の話を途中でやめた男だ。
「俺は、後ろのほうだ。
足がな。追いつけなんだ」
相手は桶を提げたまま、聞くともなしに聞いている。
「先の者らは、そのまま行ってしもうた。
呼んでも、振り向きもせんかった」
「……ゆうごさん、またその話かい」
聞き手はそう言って、桶を持ち直した。
何べんも聞かされてきた者の、角の取れた言い方だ。
声は掛けずに通り過ぎた。
若い衆に探されている身で寄っていけば、ゆうごにまで面倒が掛かる。
行き過ぎるとき、かばっている片方の足に目が行った。
――後ろのほうで追いつけなかったのは、ゆうご自身か。
町の者も、ゆうごも、あれは昔のことだと言う。
どれほど前のことなのか、聞いてみたい気もしたが、足は止めなかった。
のぞいた路地のうち、いちばん幅の狭い所を選んだ。
人が三人並んで歩ける幅の、そのまた半分しかない。
片側は板壁で、片側には畳んだ市の台が積んである。
その積みの陰へ荷を置いた。
畳んだ台が板の形で重ねてあって、縄が掛かったままだ。
いちばん上の一枚を掌で押してみたが、軋みもしない。
下まで縄でしっかり締めてある。
そこから中ほどまで入って、板壁に身を寄せた。
こっちからは大通りがよく見える。
向こうからは、一度立ち止まらないと、こっちは見つからないだろう。
いつもはこっちが探して回るのに、今日は探されるのを待っている。
――待つのは、どうも性に合わないな。
昼餉のあと、通りから人の減ったころに三人はやって来た。
右へ左へ首を回しながら、大通りを歩いてくる。
戸口の内をのぞいては、次へ行く。
こっちを探しているのだ。
二人が先に行き過ぎて、最後の一人が足を止めた。
この路地へ首を向けて、それから二人を呼び戻した。
三人が路地の入口へ集まった。
前に立っているのは、昨夜、棒を振ってきた男だ。
「言ったよな。出て行けと」
その後ろに、もう一本の棒を持った男と、昨夜灯を提げていた縄の男が続いている。
路地に入ってくる。
狭い所へ差しかかると肩がぶつかって、後ろの二人が下がった。
この幅では、そうなるよりない。
こっちと向かい合うのは、一人ずつになる。
棒が上がった。
男の右手が、握りを先へずらしかける。
握り直すより先に、半歩踏み込んだ。
棒は肩の上を抜けて、板壁に当たった。
狭い路地だ。振り切る幅が無い。
がつん、と棒が壁で止まって、男の手の中で跳ねた。
その手の甲へ、下から掌を当てて押し上げた。
棒は手を離れ、男の頭ごしに後ろへ落ちた。
男は両手を上げたまま、のけぞった。
空いた胸へ、肩から飛び込んだ。
男は弾き飛ばされて、背中から板壁にぶつかった。
板壁が一度たわむ。
そのまま壁を伝って、腰から落ちた。
後ろの二人目が前へ出ようとして、崩れた一人目につかえた。
抜ける幅が無い。
二人目の棒は、途中で掴んだ。
押し込まずに、手前へ引く。
相手は自分の勢いで泳いで、積んである台へ肩から突っ込んだ。
台はびくともせず、跳ね返された体が板の上へ崩れた。
いちばん奥では、縄の男が腰の縄を解こうとしていた。
指が結び目でもたついている。
もたつく指を、結び目ごと上から掴んだ。
そのまま、手首から捻り上げる。
相手は黙ってこちらを睨んだまま、手を抜こうとしたが、抜けない。
――痛いと分かれば、それで足りる。
もう一度だけ、力を入れてから、手を離した。
男が退がる。
退がった先に、板壁があった。
横へ一歩ずれて、通りへの道を空ける。
男は一度、大通りのほうを見た。
それから、後ろの二人を振り返った。
三人で顔を見合わせる。
棒の男が何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。
落ちた棒を拾い、台に倒れた一人へ手を貸して起こし、縄を巻き直してから、三人はゆっくりと大通りまで下がっていった。
通りの真ん中で足を止めた。
棒は二本とも杖のように地面へ突いて、もう構えてはいない。
それから、体だけをこっちへ向けた。
誰一人、こっちの顔は見ない。
それで終いだった。
三人とも、肩で息をしている。
背中に手をやる者もいれば、突っ込んだ肩を回す者もいる。
最後の一人は、捻られた手首をもう片方の手でさすっていた。
どこからも血は出ていない。
顔を一つずつ見ていった。
誰かの顔に、貼りものが一枚でも載っていないか。
だが、どの顔にも何も載っていない。
剥がすものが、どこにも無い。
三人が肩を貸し合って、来た道を戻っていく。
前に立っていた男が、一度、足を止めた。
こっちへは向き直らない。
棒を持っていないほうの手が、一度、握られてから開いた。
それから、通りの人に紛れて見えなくなった。
掃く手を止めて、その背を目で追う者がいた。
井戸端の何人かも、顔を上げてそちらを見ている。
だが誰も、何も言わない。
板壁に当たった棒の跡が、目の高さに一本、残っている。
――向こうは向こうで、町のために夜の坂を上ってきたのだろう。
一息ついて腕を下ろすと、右の手の甲を、何かがかすめた。
見ると、左の袖口から白いものが垂れている。
じょうの爺さまが置いてくれた布の、折り込んだ端が外れたらしい。
布の上から指を当てると、かすかに疼いた。
立ち回りのあいだは、傷のことなどすっかり忘れていた。
そこだけがまだ、熱を持っている。
布を解いた。
ささくれでかいた傷は塞がりかけて、赤い筋が一本残っているだけだ。
左の腕を二度、軽く振ってみた。
指の先までいつもどおりに動く。
布を巻き直して、今度は端をしっかり結んでから内へ入れた。
顔を上げると、通りに人が戻りはじめていた。
戸口から様子を見ていた者が、また家の前を掃きはじめる。
積みの陰へ荷を取りに行くと、荷はもう陰から出してあった。
井戸の端にいた女が、その脇に立っている。
出しておいてくれたらしい。
荷を一度見てから、これはあんたのかい、という顔でこちらを見た。
頷くと、女は井戸のほうを手で示した。
「こっちで、手でも洗っていきな。
さっぱりするよ」
荷を提げて井戸端まで行き、足もとへ下ろした。
そのあいだに女が桶に水を汲んで、柄杓を添えて井戸の脇に置いてくれた。
置かれた桶の前にかがんで、一杯だけすくって飲んだ。
残りで手を洗う。
水は汲みたてで冷たく、赤くなった掌の付け根にしみた。
棒を持つ手を、下から押し上げたときに擦れたらしい。
洗い終えて顔を上げると、女はまだそこにいた。
桶が戻るのを待っているらしい。
柄杓を桶の縁へ掛けてから、女のほうへ向き直った。
「助かった。桶は、戻しておく」
女は頷きを一つ返して、井戸端を離れていった。
桶は、汲む前にあった所へ戻しておいた。
荷を背負う前に、帳面を出した。
開くのは、いつも前からだ。
何枚かめくって、棒の男の癖を一行だけ、
〈打つ前に、握りを直す〉
書いて、閉じた。
が、表紙が浮いた。
開いて、何か挟まっていないか見たが、何もない。
数枚めくり直して、また閉じた。
それでも、表紙は浮いたままだ。
書き足したのは一行きりで、紙が増えたわけでもない。
首を傾げた。
川を渡ったときに湿気でも吸ったかと、頁の端に指を当ててみるが、どれも乾いている。
分からないものを睨んでいても、日が暮れるだけと、荷へ入れて、口を締めた。
表紙のことは、次に開くときまで覚えておく。
井戸端を離れて、大通りを外れのほうへ歩いた。
背負い直した荷は、町へ来たときと変わらないままだ。
家並みを抜けるまで、誰にも呼び止められることはなかった。
最後の軒を過ぎると、足もとの石畳が土の道に変わった。
背中で町の声が遠くなって、両側に畑の畝が戻ってきた。
片側の畝が一か所で途切れて、そこだけ、不自然に土が平らなままだ。
足を止めて見ると、鍬を入れた跡が一つも無い。
振り返ると、日はもう町の屋根の向こうへ回っていた。
屋根の上には、やはり何も視えない。
向き直って、また歩きだす。
自分の影が道の先へ長く伸びている。
道端の、同じ日づけばかりを彫り重ねた石の前を過ぎた。
来るときにも見た石だ。
どの日づけも、やはり同じ彫り手が刻んだように見える。
その先の道の脇に、人が一人、立っていた。
――「握り」というのはね、握り飯でも、棒の握りでも、手の内の加減ひとつさ。
強う握れば固うなる。ゆるう握れば崩れる。
握り直すのは、たいてい、その加減を一度忘れたときでね。




