置きに来た
――風の便り
「決まりの刻のあいだは、鍋ひとつ鳴らせやしない」
「子どもの頃は、あの刻がいちばん長かったねえ。息まで数えちまってさ」
「そんな日に、よそのお人が、朝から通りを歩き回ってたんだと」
「日が落ちてから、じょうの爺さまが布を持って表へ出てったらしいよ」
朝のうちに宿の上がり口で草鞋を履いた。
「二晩、世話になった」
土間にいた亭主は、昨日の朝と同じに頷きだけを返した。
愛想は無いが、二晩とも黙って泊めてくれた。
「おかみさんにも、よろしく伝えてくれ」
亭主は、もう一度だけ頷いた。
宿を出て、〈万の棚〉へ戻る。
ゆうべの広場で、こっちの読みは外れた。
音を止めても、あの一枚は屋根から屋根へ移りつづけ、そのまま視えなくなった。
棚の奥には、途中で切れた帳面ばかりを積んだ一角がある。
あれだけあれば、こっちと同じように読みを外した者の帳面が、一冊くらいは混じっているかもしれない。
朝が早く、通りの戸はまだどれも閉まっていて、誰にも会わずに町の外れまで歩いた。
ゆうべ、じょうの爺さまが荷の上に置いてくれた布は、袖口の下に巻いたままにしてある。
来たときと同じ道を戻り、川は浅いところを選んで渡った。
水は行きより澄んでいて、まだ朝の冷たさが残っている。
向こう岸で、布を巻いた左の腕は濡らさないよう上げたまま、右の手で足を拭った。
ゆうべ小石の角で切った掌に、水がしみる。
川から先は上りの坂になる。
上りきる手前で一度だけ振り返ったが、町の屋根はもう、木に隠れて見えない。
◇
昼を過ぎたころ、窪みへ下りる道に入った。
細い道が左右から寄ってきて、戸口の前で一本になるのも、前に来たときのままだ。
どの道にも、歩いている者はいない。
〈万の棚〉へ下りていくのは、今日もこっちだけらしい。
戸口で草鞋の土を落とした。
上がり口で脱いでそろえ、板の間へ上がると、足の裏がひやりとする。
荷は背負ったまま、奥の一角へ向かった。
綴じていない紙束と、綴じの解けた帳面ばかりが積んである棚だ。
荷の底には、前に山で別の棚から借りてきた書きつけが入っている。
仕舞いの行が無い一枚だ。
その元を探すのは、今日はあとにする。
棚の前で荷を下ろして、膝のすぐ脇へ寄せた。
背に文字が無いので、手前から五つ六つ抜いて板の間へ並べた。
抜いた所には、目印に細く裂いた紙を一枚ずつ挟んでおく。
探すのは、しくじったと書いたその先だ。
一つ目は、川の渡り方を書いた帳面だった。
まず浅いところを選ぶ。次に流れの向きを見る。
けさ、こっちも同じ順で渡ってきた。
続く行に、足を取られた、とあって、筆はそこで止まっている。
二つ目は、罠の掛け方だった。
仕掛けの高さ、餌の据え方、風の向きまで書いてある。
掛からなかった、と一行あって、その下の行は別の手でやり直す、と書きかけたところで終わっている。
残りの帳面も開いてみたが、どれも同じだった。
外す手前までは細かく丁寧に書いてあるのに、こっちが知りたいその先だけが、どの帳面にも無い。
読み終えた帳面を一冊ずつ元の所へ戻して、目印の紙を抜いていく。
棚の並びは、手をつける前と同じになった。
隣の積みからも紙束を抜いて、一枚ずつ捲っていった。
何枚目かで、手が止まった。
〈言わぬが花、言わせぬが情け〉
一枚の中ほどに、そう書いてある。
少し先にも、同じ一行がもう一度あった。
花だの情けだのと口当たりはいいが、同じことを前に一度、紙の上で見ている。
〈首の社〉の里で、記録蔵から出てきた古い帳面の一行だ。
〈唸りは、苦しみだ。黙らせてやるのが、慈悲だ〉
あの帳面も、名と場所を書きかけたまま途切れている。
浜で会った乾いた着物の男が、痛みを終わらせてやるのを慈悲と言ったときにも、この一行を思い出した。
書き手が同じかどうかまでは、分からない。
黙るのが花で、黙らせるのが情け。
音を立てずにやり過ごすあの町の決まりの刻も、どこか似た形をしている。
その一枚も端をそろえて、抜いたときと同じ所へ戻した。
◇
日が傾くころ、棚の奥で紙を繰っていると戸口で声がした。
「――誰か、居るのかね」
紙を繰る手が、止まった。
戸口のほうへ耳を向ける。
紙を戻し、荷を提げて上がり口まで出た。
西日が敷居の内まで入って、その手前に人が一人立っている。
日を背にしていて、顔までは見えない。
「あんたが居るとは、思わなんだ」
その声で分かった。
〈首の社〉の前で鬼の話を語っていた、あの語り部だ。
「里以来だな。相変わらず、よく歩く」
「話は、足で拾うもんでね」
里の火の輪では、浜じゅうを回って集めた箱の男の話を膝の上でそろえていた。
あのときも回収屋と呼ばれたきりで、名は言わずじまいだった。
語り部は敷居をまたいで上がり口で草鞋を脱いで一段上がってきた。
脱いだ草鞋は鼻緒だけが新しい。
替えたばかりらしい。
板の間の隅まで来て、語り部は荷を下ろした。
紐で縛った紙の束で、縛り目は新しいのに、紙のほうは端から茶に変わっている。
つい紙の端に目をやると、語り部は束を軽く叩いて笑った。
「汚れているだろう。一度、山ひとつ向こうの道で落としてね。
風にやられて、四方へ飛んだのを半日かけて拾い集めた」
語り部は束の端を指で押さえて、折れた何枚かを起こした。
「揃えても紐が掛からん。掛けても抜ける」
起こした紙は、指を離すとまた端から反り返った。
「どうにもならんと道端に座り込んでいたら、畑からの帰りだという者が通りかかった」
「それが」
「直してくれた。
ばらけた紙を、めくれる形に綴じてくれてね」
紐の下で、ばらけていた紙が一冊の形にまとまっている。
「手つきが慣れてるんで訊いてみたら、畑の合間に、頼まれた紙を綴じているんだと。
それを仕事にしてる者がいるとは、知らなんだ」
「――紙にも、直す者がいるのか」
「思ってもみなかったよ。
紙のほうは、これで直った」
――屋根の上のあの一枚も、紙といえば紙だ。
「中身は」
「返す先が、無くなった話でね」
語り部は束を縛ったまま、背に字の無い積みのそばへ置いた。
しばらく見てから、そこを離れる。
「行き場の無い書きつけは、しまいに流れ着く所があるらしいってな。
そう聞いて、置きに来た」
「聞いたのは」
「あちこちでな。
たいていは、あるらしい、だそうだ、で終いだ」
こっちも、似たような聞き方でここまで来た。
「道まで教えられる者は、なかなか出てこん。
町に寄ってから上がってきた。
道を訊けたのが、あそこだけでな」
置かれた束の下の段に、目が行った。
「下の段は、床の湿気を吸う。
せっかく直った紙だ。一段、上へ」
語り部は素直に持ち上げて、積みの一つ上へ載せ直した。
縛り目をこちらへ向けて、上から掌で一度だけ押さえる。
日が落ちる前に、湯を沸かしに表へ出た。
上がり口で草鞋をつっかけて、戸口から少し離れた所にしゃがむ。
道々で拾ってきた枝を細く割っていくと、湿ったのは割れずに曲がった。
それは脇へよけて、乾いたものだけで火を熾す。
竹筒の水を鍋にあけて、火にかけた。
戸口のすぐ内にも、あれだけの紙が積んである。
湯が沸いたところで、すぐに火を落とした。
灰を掻き分けて燃え残りに土をかけ、手をかざす。
掌に、もう熱は来ない。
それでも、その上を何度も踏み固めて、焚いた跡が分からなくなるまでならした。
すぐ奥には紙が積んである。
火の粉ひとつでも、残しておくわけにはいかない。
中へは、鍋だけを提げて戻った。
湯呑みを二つ板の間へ並べて湯を注いだ。
どちらも同じ形をしている。
語り部が荷から筆と墨を出した。
「同じ形だと、取り違えるんでね」
自分のほうの腹に短く書いてから、手を伸ばしてこっちのぶんも取り上げた。
「稼業の名を書くわけにもいかん。
なぁ、回収屋。名は」
「……ナギだ」
「ナギ、か」
語り部は口の中でくり返し、それから声に節をつけた。
「さて、ナギという回収屋が――」
そこまでで口をつぐんで、顎を掻く。
「いかん。癖が出た」
筆が、腹を走った。
語り部は書き終えた湯呑みを両手で包んで、こっちの膝の前へそっと置いた。
字は少し右へ流れている。
語り部は筆の先を紙で拭い、墨と一緒に荷へ仕舞った。
こっちのぶんは、注いだ高さのままだ。
熱いうちは、どうも口が向かない。
名の入った腹の上を、湯気だけが上っていく。
語り部のほうは湯を口へ運んでから、笑った。
「ここへ来る前に、町の辻で一つ試してきたよ」
湯気の向こうで、語り部が指を一本立てた。
商売人の癖だ。
「順を入れ替えて語ってみたのさ。
報いのほうを頭へ持ってきてな」
「どうなった」
「笑われたよ。『順を変えただけじゃないか』と」
――もっともな言い分だ。
語り部は笑ったまま湯呑みを持ち直した。
「聞き終えた、じょうの爺さまって年寄りが、同じ話を初めから語り直してくれたよ。
頼みもせんのに、ご丁寧にな」
袖口の下の布に、目が行った。
それから語り部は、その場で一度だけやって見せた。
言葉は同じで、節の付け方だけを変える。
聞こえ方は変わった。
中身は、変わらなかった。
――替えるだけで駄目なら、何を足せばいい。
人の話を集めて歩いている者なら、何か知っているかもしれない。
語り部のほうへ、向き直った。
「借りてる紙が、一枚ある」
荷を膝へ引き寄せて、口の紐をゆるめた。
手を差し入れると、底で指が紙の端に当たる。
畳んだままの目の粗い紙で、指先がかすかにざらつく。
漉くときから塩を含んだ紙だ。
手は、そのまま戻した。
書いてある行は、もう空で言える。
「――まだ、済んでねえ」
口へ運びかけた語り部の湯呑みが、止まった。
「そりゃ、浜筋の言い方だ」
「紙で見た」
「紙になる前からさ。浜での口癖さ。
今も、言ってる者がいる」
浜で、箱の男の口からも一度聞いた。
語り部は、湯を一口飲んだ。
「どこの浜と訊かれると、困る。
あっちの浜にも、こっちの浜にも、言う者がおった。
誰が言い出したのかは、誰も知らん」
「書いた者ではなく」
「口のほうが先だよ。
誰かが口に出して、それを聞いた誰かが紙に起こす。
紙は、あとから追いかけてくるのさ」
湯呑みを両手で包んで、語り部はしばらく黙っていた。
それから、思い出したように付け足した。
「言ってる者は、たいてい、それを言ったことも覚えてない。
訊くと妙な顔をされる」
借りてきた紙が、どこから来たのか。
荷の底に入れてから、ずっとそればかり考えていた。
棚から棚へ、手から手へ辿っていけば、いつか終いの一枚に着く。
そう思っていた。
辿る先は、紙ではなかった。
口だ。
あの一行は、失せてはいない。
いまも、どこかの浜で言われている。
そうか、と思った。
荷の口を締めた。
紙は、底に入れたままにしておく。
山の棚で借りてから、ずいぶん長く一緒に歩いた。
書きつけの元を探して、そこへ置いて返すつもりでこの棚まで来た。
ここで、元の一枚を探して歩くことは、もう無いだろう。
「ところで……今日の町は、昼をはさんで変わったよ」
束のほうへ目をやりながら、語り部が言った。
「昼前までは、町に笑い声があった。
それが昼からは、ぴたりと止んだ」
語り部が湯呑みを置くと、小さく音が鳴った。
「昨日の決まりの刻に、広場で石を打つ音がしたってな。
その話が昼前に回って、日のあるうちから戸が閉まりはじめてた」
それから、少し声を落とした。
「若い衆が、よそから来た者を探して回っていたよ」
――よそから来た者なら、ここに一人いる。
「知らせてくれて、助かった」
積みの上の束と、その奥の棚へ一度だけ目をやってから、腰を上げた。
語り部は座ったまま、こっちを目で追っている。
上がり口で草鞋を履いて、戸口へ立った。
外は、まだ薄く明るい。
四方から下りてきた道が、戸口の前で一本になっている。
その中から、町へ続く一筋を目でなぞった。
その一筋の高いところに、灯がひとつ見える。
風は無いのに、揺れている。
揺れながら、こちらへ下りはじめた。
――「置き土産」というのはね、置いていった者より、置いていかれた者のほうが、長く覚えとるもんさ。
置いていった者は、たいてい、置いたことも忘れとる。




