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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第三章 音は災いの元

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置きに来た

――風の便り

「決まりの刻(とき)のあいだは、鍋ひとつ鳴らせやしない」

「子どもの頃は、あの刻(とき)がいちばん長かったねえ。息まで数えちまってさ」

「そんな日に、よそのお人が、朝から通りを歩き回ってたんだと」

「日が落ちてから、じょうの爺さまが布を持って表へ出てったらしいよ」

 朝のうちに宿の上がり口で草鞋(わらじ)を履いた。


「二晩、世話になった」


 土間にいた亭主は、昨日の朝と同じに頷(うなず)きだけを返した。

愛想は無いが、二晩とも黙って泊めてくれた。


「おかみさんにも、よろしく伝えてくれ」


 亭主は、もう一度だけ頷(うなず)いた。


 宿を出て、〈万(よろず)の棚〉へ戻る。

ゆうべの広場で、こっちの読みは外れた。

音を止めても、あの一枚は屋根から屋根へ移りつづけ、そのまま視えなくなった。


 棚の奥には、途中で切れた帳面ばかりを積んだ一角がある。

あれだけあれば、こっちと同じように読みを外した者の帳面が、一冊くらいは混じっているかもしれない。


 朝が早く、通りの戸はまだどれも閉まっていて、誰にも会わずに町の外れまで歩いた。

ゆうべ、じょうの爺さまが荷の上に置いてくれた布は、袖口の下に巻いたままにしてある。


 来たときと同じ道を戻り、川は浅いところを選んで渡った。

水は行きより澄んでいて、まだ朝の冷たさが残っている。

向こう岸で、布を巻いた左の腕は濡らさないよう上げたまま、右の手で足を拭った。

ゆうべ小石の角で切った掌(てのひら)に、水がしみる。


 川から先は上りの坂になる。

上りきる手前で一度だけ振り返ったが、町の屋根はもう、木に隠れて見えない。


  ◇


 昼を過ぎたころ、窪(くぼ)みへ下りる道に入った。


 細い道が左右から寄ってきて、戸口の前で一本になるのも、前に来たときのままだ。

どの道にも、歩いている者はいない。

〈万(よろず)の棚〉へ下りていくのは、今日もこっちだけらしい。


 戸口で草鞋(わらじ)の土を落とした。

上がり口で脱いでそろえ、板の間へ上がると、足の裏がひやりとする。


 荷は背負ったまま、奥の一角へ向かった。

綴(と)じていない紙束と、綴(と)じの解(ほど)けた帳面ばかりが積んである棚だ。

荷の底には、前に山で別の棚から借りてきた書きつけが入っている。

仕舞(しま)いの行が無い一枚だ。

その元を探すのは、今日はあとにする。

棚の前で荷を下ろして、膝のすぐ脇へ寄せた。


 背に文字が無いので、手前から五つ六つ抜いて板の間へ並べた。

抜いた所には、目印に細く裂いた紙を一枚ずつ挟んでおく。


 探すのは、しくじったと書いたその先だ。


 一つ目は、川の渡り方を書いた帳面だった。

まず浅いところを選ぶ。次に流れの向きを見る。

けさ、こっちも同じ順で渡ってきた。

続く行に、足を取られた、とあって、筆はそこで止まっている。


 二つ目は、罠(わな)の掛け方だった。

仕掛けの高さ、餌(えさ)の据(す)え方、風の向きまで書いてある。

掛からなかった、と一行あって、その下の行は別の手でやり直す、と書きかけたところで終わっている。


 残りの帳面も開いてみたが、どれも同じだった。

外す手前までは細かく丁寧に書いてあるのに、こっちが知りたいその先だけが、どの帳面にも無い。


 読み終えた帳面を一冊ずつ元の所へ戻して、目印の紙を抜いていく。

棚の並びは、手をつける前と同じになった。


 隣の積みからも紙束を抜いて、一枚ずつ捲(めく)っていった。


 何枚目かで、手が止まった。


 〈言わぬが花、言わせぬが情け〉


 一枚の中ほどに、そう書いてある。

少し先にも、同じ一行がもう一度あった。


 花だの情けだのと口当たりはいいが、同じことを前に一度、紙の上で見ている。

〈首の社(やしろ)〉の里で、記録蔵から出てきた古い帳面の一行だ。


 〈唸(うな)りは、苦しみだ。黙らせてやるのが、慈悲(じひ)だ〉


 あの帳面も、名と場所を書きかけたまま途切れている。

浜で会った乾いた着物の男が、痛みを終わらせてやるのを慈悲(じひ)と言ったときにも、この一行を思い出した。


 書き手が同じかどうかまでは、分からない。


 黙るのが花で、黙らせるのが情け。

音を立てずにやり過ごすあの町の決まりの刻(とき)も、どこか似た形をしている。


 その一枚も端をそろえて、抜いたときと同じ所へ戻した。


  ◇


 日が傾くころ、棚の奥で紙を繰(く)っていると戸口で声がした。


「――誰か、居るのかね」


 紙を繰(く)る手が、止まった。

戸口のほうへ耳を向ける。


 紙を戻し、荷を提(さ)げて上がり口まで出た。

西日が敷居(しきい)の内まで入って、その手前に人が一人立っている。

日を背にしていて、顔までは見えない。


「あんたが居るとは、思わなんだ」


 その声で分かった。

〈首の社(やしろ)〉の前で鬼の話を語っていた、あの語り部だ。


「里以来だな。相変わらず、よく歩く」


「話は、足で拾うもんでね」


 里の火の輪では、浜じゅうを回って集めた箱の男の話を膝の上でそろえていた。

あのときも回収屋と呼ばれたきりで、名は言わずじまいだった。


 語り部は敷居(しきい)をまたいで上がり口で草鞋(わらじ)を脱いで一段上がってきた。

脱いだ草鞋(わらじ)は鼻緒(はなお)だけが新しい。

替えたばかりらしい。


 板の間の隅まで来て、語り部は荷を下ろした。

紐で縛った紙の束で、縛り目は新しいのに、紙のほうは端から茶に変わっている。


 つい紙の端に目をやると、語り部は束を軽く叩いて笑った。


「汚れているだろう。一度、山ひとつ向こうの道で落としてね。

風にやられて、四方へ飛んだのを半日かけて拾い集めた」


 語り部は束の端を指で押さえて、折れた何枚かを起こした。


「揃えても紐が掛からん。掛けても抜ける」


 起こした紙は、指を離すとまた端から反り返った。


「どうにもならんと道端に座り込んでいたら、畑からの帰りだという者が通りかかった」


「それが」


「直してくれた。

ばらけた紙を、めくれる形に綴(と)じてくれてね」


 紐の下で、ばらけていた紙が一冊の形にまとまっている。


「手つきが慣れてるんで訊(き)いてみたら、畑の合間に、頼まれた紙を綴(と)じているんだと。

それを仕事にしてる者がいるとは、知らなんだ」


「――紙にも、直す者がいるのか」


「思ってもみなかったよ。

紙のほうは、これで直った」


 ――屋根の上のあの一枚も、紙といえば紙だ。


「中身は」


「返す先が、無くなった話でね」


 語り部は束を縛ったまま、背に字の無い積みのそばへ置いた。

しばらく見てから、そこを離れる。


「行き場の無い書きつけは、しまいに流れ着く所があるらしいってな。

そう聞いて、置きに来た」


「聞いたのは」


「あちこちでな。

たいていは、あるらしい、だそうだ、で終い(しまい)だ」


 こっちも、似たような聞き方でここまで来た。


「道まで教えられる者は、なかなか出てこん。

町に寄ってから上がってきた。

道を訊(き)けたのが、あそこだけでな」


 置かれた束の下の段に、目が行った。


「下の段は、床の湿気を吸う。

せっかく直った紙だ。一段、上へ」


 語り部は素直に持ち上げて、積みの一つ上へ載せ直した。

縛り目をこちらへ向けて、上から掌(てのひら)で一度だけ押さえる。


 日が落ちる前に、湯を沸かしに表へ出た。


 上がり口で草鞋(わらじ)をつっかけて、戸口から少し離れた所にしゃがむ。

道々で拾ってきた枝を細く割っていくと、湿ったのは割れずに曲がった。

それは脇へよけて、乾いたものだけで火を熾(おこ)す。

竹筒の水を鍋にあけて、火にかけた。


 戸口のすぐ内にも、あれだけの紙が積んである。


 湯が沸いたところで、すぐに火を落とした。

灰を掻(か)き分けて燃え残りに土をかけ、手をかざす。

掌(てのひら)に、もう熱は来ない。

それでも、その上を何度も踏み固めて、焚(た)いた跡が分からなくなるまでならした。

すぐ奥には紙が積んである。

火の粉ひとつでも、残しておくわけにはいかない。


 中へは、鍋だけを提(さ)げて戻った。


 湯呑みを二つ板の間へ並べて湯を注いだ。

どちらも同じ形をしている。


 語り部が荷から筆と墨を出した。


「同じ形だと、取り違えるんでね」


 自分のほうの腹に短く書いてから、手を伸ばしてこっちのぶんも取り上げた。


「稼業の名を書くわけにもいかん。

なぁ、回収屋。名は」


「……ナギだ」


「ナギ、か」


 語り部は口の中でくり返し、それから声に節(ふし)をつけた。


「さて、ナギという回収屋が――」


 そこまでで口をつぐんで、顎(あご)を掻(か)く。


「いかん。癖が出た」


 筆が、腹を走った。

語り部は書き終えた湯呑みを両手で包んで、こっちの膝の前へそっと置いた。

字は少し右へ流れている。


 語り部は筆の先を紙で拭い、墨と一緒に荷へ仕舞(しま)った。


 こっちのぶんは、注いだ高さのままだ。

熱いうちは、どうも口が向かない。

名の入った腹の上を、湯気だけが上っていく。


 語り部のほうは湯を口へ運んでから、笑った。


「ここへ来る前に、町の辻で一つ試してきたよ」


 湯気の向こうで、語り部が指を一本立てた。

商売人の癖だ。


「順を入れ替えて語ってみたのさ。

報いのほうを頭へ持ってきてな」


「どうなった」


「笑われたよ。『順を変えただけじゃないか』と」


 ――もっともな言い分だ。


 語り部は笑ったまま湯呑みを持ち直した。


「聞き終えた、じょうの爺さまって年寄りが、同じ話を初めから語り直してくれたよ。

頼みもせんのに、ご丁寧にな」


 袖口の下の布に、目が行った。


 それから語り部は、その場で一度だけやって見せた。

言葉は同じで、節(ふし)の付け方だけを変える。


 聞こえ方は変わった。

中身は、変わらなかった。


 ――替えるだけで駄目なら、何を足せばいい。


 人の話を集めて歩いている者なら、何か知っているかもしれない。

語り部のほうへ、向き直った。


「借りてる紙が、一枚ある」


 荷を膝へ引き寄せて、口の紐をゆるめた。

手を差し入れると、底で指が紙の端に当たる。

畳んだままの目の粗い紙で、指先がかすかにざらつく。

漉(す)くときから塩を含んだ紙だ。


 手は、そのまま戻した。

書いてある行は、もう空で言える。


「――まだ、済んでねえ」


 口へ運びかけた語り部の湯呑みが、止まった。


「そりゃ、浜筋の言い方だ」


「紙で見た」


「紙になる前からさ。浜での口癖さ。

今も、言ってる者がいる」


 浜で、箱の男の口からも一度聞いた。


 語り部は、湯を一口飲んだ。


「どこの浜と訊(き)かれると、困る。

あっちの浜にも、こっちの浜にも、言う者がおった。

誰が言い出したのかは、誰も知らん」


「書いた者ではなく」


「口のほうが先だよ。

誰かが口に出して、それを聞いた誰かが紙に起こす。

紙は、あとから追いかけてくるのさ」


 湯呑みを両手で包んで、語り部はしばらく黙っていた。

それから、思い出したように付け足した。


「言ってる者は、たいてい、それを言ったことも覚えてない。

訊(き)くと妙な顔をされる」


 借りてきた紙が、どこから来たのか。

荷の底に入れてから、ずっとそればかり考えていた。

棚から棚へ、手から手へ辿(たど)っていけば、いつか終い(しまい)の一枚に着く。

そう思っていた。


 辿(たど)る先は、紙ではなかった。


 口(・)だ。


 あの一行は、失せてはいない。

いまも、どこかの浜で言われている。


 そうか、と思った。


 荷の口を締めた。

紙は、底に入れたままにしておく。

山の棚で借りてから、ずいぶん長く一緒に歩いた。


 書きつけの元を探して、そこへ置いて返すつもりでこの棚まで来た。

ここで、元の一枚を探して歩くことは、もう無いだろう。


「ところで……今日の町は、昼をはさんで変わったよ」


 束のほうへ目をやりながら、語り部が言った。


「昼前までは、町に笑い声があった。

それが昼からは、ぴたりと止んだ」


 語り部が湯呑みを置くと、小さく音が鳴った。


「昨日の決まりの刻(とき)に、広場で石を打つ音がしたってな。

その話が昼前に回って、日のあるうちから戸が閉まりはじめてた」


 それから、少し声を落とした。


「若い衆が、よそから来た者を探して回っていたよ」


 ――よそから来た者なら、ここに一人いる。


「知らせてくれて、助かった」


 積みの上の束と、その奥の棚へ一度だけ目をやってから、腰を上げた。

語り部は座ったまま、こっちを目で追っている。


 上がり口で草鞋(わらじ)を履いて、戸口へ立った。

外は、まだ薄く明るい。

四方から下りてきた道が、戸口の前で一本になっている。

その中から、町へ続く一筋を目でなぞった。


 その一筋の高いところに、灯がひとつ見える。


 風は無いのに、揺れている。


 揺れながら、こちらへ下りはじめた。

――「置き土産」というのはね、置いていった者より、置いていかれた者のほうが、長く覚えとるもんさ。

置いていった者は、たいてい、置いたことも忘れとる。

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