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預かりもの 〜拾って、磨いて、返す、辺獄の回収屋〜  作者: ウォーレン・コールドウェル
第三章 音は災いの元

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日の傾く刻

――風の便り

「聞いたかい。よそ者が、ゆうごと同じ道を下ってきたってさ」

「広場じゃ、例の話を三人がかりで聞かされたらしいよ」

「屋根ばっかり見上げて、ろくに返事もしなかったとか」

「明日が明日だってのに、物好きなこった」

 石の角から手を離したころには、広場のまわりの戸はみな閉まっていた。

今夜の寝場所は、まだ決めていない。


 昼に勝手口から顔を出した女の顔が浮かんだ。

若い衆に、まりさん、と呼ばれていた。

勝手口の脇を抜けると、通りに面して表の戸がある。

軽く叩くと、しばらくして、この家の亭主が戸を開けた。


 一晩の宿を頼んでいるところへ、亭主の肩越しに女が顔をのぞかせた。


「広場にいた、よそのお人だよ。

一晩くらい、いいじゃないか」


 ――一度見かけただけのよそ者に、ずいぶん気前がいい。


 亭主は少し考えてから、戸を広く開けて土間へ通してくれた。

敷居(しきい)をまたぐ前に、二人へ軽く頭を下げた。


「恩に着る」


 土間の続きに板の間が一段あるだけの家だった。

上がり口で草鞋(わらじ)を脱いで隅に腰を下ろす。

そのあいだも二人は声をひそめて晩の片づけを続けていた。

女が桶の水で椀(わん)を洗い、亭主が拭いて、音が立たないよう重ねずに一つずつ棚へ戻していく。


 洗っていた一つが女の濡れた手から滑って、土間でごとりと音を立てた。

椀(わん)一つの音でも、夜の静けさの中ではやけに大きく感じる。

二人とも手を止めて、そろって戸口のほうを見た。


 上がり口まで転がってきた椀(わん)に手を伸ばして拾い、膝の脇に置いた。

女は小さく息をついてから取りに来て、目だけで礼を言うとまた片づけに戻った。

表の通りからはよその家の話し声がときおり低く漏(も)れてくるだけだ。


「何か、手伝おうか」


 声を落として言うと、女は首を横に振った。


「いいんだよ。お客さんは、休んどいで」


 亭主も黙ったまま顎(あご)を引いた。


「ありがたい。じゃあ、甘えさせてもらう」


 帳面だけを荷から出して枕もとに置き、壁ぎわで横になった。

二人の洗い物の水の音が、しばらく小さく続いていた。


 夜が明けて、戸の隙間から入る光が床に細い筋を引いていた。

その明るみに帳面を寄せて前から開く。

音を立てないよう一枚ずつ捲(めく)っていって、ゆうべ書き足した行で手が止まった。


 〈音を鳴らしているあいだは、動く。止めれば、止まる〉


 頭と終い(しまい)は、こっちの手で足した。

書いたとおりになるかどうか、町の誰に訊(き)いても、さあ、と首をかしげるのだろう。

あの一枚も、こっちの目にしか映らない。

視えるこっちが確かめなければ、この町では誰も確かめられない。

決まりの刻(とき)に、あえて音を鳴らしてみるしかない。


 ――町じゅうが息をひそめる刻(とき)に、よそ者が音を立てる。

褒められた話じゃないのは、分かってる。


 それでも、確かめずにはいられない。

毎年その日だけ、と爺さまは言った。

今日を逃せば、決まりの刻(とき)は一年先まで来ない。


 夕方に見るのは二つと決めた。

鳴らせば一枚が動くのか、止めればそこで止まるのか。


 帳面を仕舞(しま)って、上がり口で草鞋(わらじ)を履く。


「今夜も、頼めるか」


 土間にいた亭主は頷(うなず)きだけを返した。


 荷を背負って宿を出て、朝のうちに大通りを一通り歩いた。

あの一枚はどういう訳か、昨日とは違う所に視えた。


 これまで視てきた貼りものは、どれも誰かの顔の上に載っていた。

この町の一枚だけは、載せる人が見えないまま屋根の上に視えている。

在る、と言っていいのかは分からないが、視える。

それだけだ。


 夕方までに、一枚はまた所を変えるかもしれない。

広場の端から端まで歩きながら、屋根を一つずつ見上げていった。

どこに立っても、どこかの軒が邪魔をする。

広場の隅まで来て、ようやく、どの屋根もひと目で見渡せた。

まりさんの家の勝手口からは、いちばん遠い隅だ。

泊めてくれた二人の戸口の前で、音を立てるわけにはいかない。

夕方に戻ってもここだと分かるよう、踵(かかと)で土を一度だけ均(なら)して、目立たない目印にしておく。


 鳴らす物も、見つくろっておく。

家の中まで音が届かない、とは思っていない。

鍋や桶を叩けば、手を止めても響きが残る。

それなら、小石を二つ打ち合わせるくらいがいい。


 通りの端の軒下で、乾いた土から手ごろなのを二つ拾った。

角のある石と丸い石が一つずつ。


 ――町の決まりを試すにしちゃ、安上がりなもんだ。


 石はまだ打ちはせずに、袖の内へ仕舞(しま)った。


  ◇


 日が高くなってからも通りを歩いた。

昨日はあちこちの戸口で掃く音がして、呼び交わす声が通りを行き来していた。

今日は荷車の音も物売りの声もしない。

表へ出てきた者もすぐまた戸の内へ引っ込んでしまう。


 煮炊きの煙だけは、昼を待たずに屋根のあいだへ上がっている。

戸の内からは菜を煮る匂いが通りへ薄く漏(も)れてきた。


 井戸の端では女が一人で水を汲(く)んでいる。

桶が縁(ふち)に当たらないよう片手を添えてゆっくり引き上げ、抱えたまま家へ戻っていった。


 戸口では隣どうしが蓋をした鍋を受け渡している。

言葉は無く、目が合うと小さく頷(うなず)き合った。


 軒先では娘が針箱を開きかけていると、年嵩(としかさ)の女が小声で言った。


「今日の繕(つくろ)いもんは、家の内でやりな」


 娘は頷(うなず)いて、針箱を抱えたまま戸の内へ入っていく。


 どこかの戸の奥で、子の高い声が上がった。

低い声がすぐに追いついて、ゆっくりとなだめた。

泣き声はしだいに細くなって、やがて、やんだ。


 すれ違う顔が、無い。

人の顔を確かめながら歩く癖だけが、今日は空回りしている。


 広場へ出ると、畳んだ台が縄を掛けたまま隅に積まれていた。

昨日石の上へ戻しておいた紙束も、いつの間にか無くなっている。

持ってきたときと同じに、じょうの爺さまが家の奥へ引き上げていったらしい。

真ん中の石のそばには、今日は角を撫(な)でる年寄りの姿も無い。

そのまわりの土を、風が渡っていった。


  ◇


 日が傾いて屋根の影が通りを渡りきったころ、広場へ戻った。

屋根の縁(ふち)だけが西日で赤く、空にはまだ明かりが残っている。

戸はどれも閉まって、人の姿も子の声ももうどこにも無い。

畳んだ台の縄が赤い光の中で色を変えていく。


 鳴らすなら、今のうちだ。


 朝に均(なら)した土の上へ、立った。

広場でこの端だけが、まだ屋根の影から外れている。

均(なら)した跡は、朝のままで誰も、ここを踏んでいないようだった。


 あの一枚は、視える。

朝に視たのとも違う屋根の上だ。


 袖から小石を出して、角のあるほうを右の手に、丸いほうを左の手に持った。

強さと間を揃えて打ち合わせはじめる。


 打ち合わせた石の硬さが、指の骨まで返ってくる。


 乾いた高い音が、ほかに物音一つしない広場によく通る。


 打ちながら、屋根の上の一枚から目を離さない。

まだ、その屋根の上だ。


 そのあいだにも目の端で影が伸びていく。

広場の石を越えて、畳んだ台の足もとまで届いた。


 一枚は、まだ動かない。


 西日が屋根の縁(ふち)にだけ残って、広場の赤が端から順に灰へ変わっていく。


 そのとき、一枚が動いた。

屋根の上を離れて、隣の家との境の上、屋根と屋根のあいだへ移っていく。


 今度は、こっちの見ている目の前でだ。


 打つ手を止めて、小石を握り込んだ。

耳の奥にだけ、さっき鳴らした音が残っている。


 ――止めたのなら、もう動かないはずだ。


 一枚から目を離さずに、胸の内で、ひとつ、ふたつと数を数えた。


 八つで、一枚はまた隣の、屋根と屋根のあいだへ移った。


 次は、五つで移った。


 その次は、二つだった。

動くたびに、間が詰まっていく。


 ――止めてからのほうが、速い。


 こっちの打つ手は止めたままだ。

広場には物音一つ無い。


 止めれば、止まる。

そう書き足したのは、こっちだ。その読みは、外れた。


 一つ、と数えかけたとき、どこかの戸の内で閂(かんぬき)の落ちる音がした。


 そっちを向いた。

続けて、少し離れた戸の内でも閂(かんぬき)が落ちる。

戸の隙間の明かりが一つ、消えた。


 息が浅くなる。

握りしめた右の掌(てのひら)に、小石の角が食い込んだ。

ちくりと痛んだが、手はゆるめられない。

数がどこまで進んだのか、もう分からなかった。


 目を戻すと、あの一枚は広場の上のどの屋根にも視えなかった。

広場を囲む屋根を、端からぐるりと見渡す。

どこにも、浮いていない。


 ――確かめられるのは、ここまでだ。


 足音を殺して広場を離れ、来た道を引き返した。

閉まった戸の内からも、昼に子の声が立ったあたりからも、物音はしない。


 軒の低い家の脇を抜けるとき、割れた板の端に袖が引っかかった。

足を止めて、裂けないよう板からそっと外す。

ささくれが袖口の内で腕をかすめたが、痛みは無かった。


 通りへ入る角で一度だけ振り返って、見える屋根をもう一度、端から一つずつ確かめていった。

どの屋根の上にも、もう視えない。


 あの一枚の行き先は、分からないままだ。


 日が落ちきる前に、広場の端までもう一度だけ戻った。

ここは来たときのままにしておきたい。


 広場の端から通りの角まで、来た道を目でなぞる。

落とした物は無く、畳んだ台も石も縄もそのままになっている。

朝に踵(かかと)で均(なら)した土だけを爪先で崩してから、荷を背負い直して肩の紐を両の手で締めた。

近くの戸の隙間から明かりが細く伸びて、締める手もとまで届いている。


 日が、落ちた。


 戸の隙間から明かりは漏(も)れているのに、話し声も足音も、どこからも聞こえてこない。


 その静けさの中に、しばらく立っていた。


 やがて、戸口の一つが静かに開いて、年寄りが出てきた。

石の角を撫(な)でていた、じょうの爺さまだ。


 黙って、畳んだ布を差し出してくる。

戸口の明かりを背にして顔は影になり、表情までは見えない。

洗いざらしの白い布だけが、薄闇に浮いている。


 年寄りの目は布ではなく、こっちの袖の先にある。

さっき、戸の隙間の明かりが届いていたあたりだ。

その目の先を辿(たど)った。


 袖口の下。

前腕に、ひっかいたような赤い筋が一本ついている。

血は少なく、もう乾きかけている。


 見てから、熱が追いついてきた。


 締めたばかりの紐をゆるめて荷を足もとへ下ろし、中から自分の手拭いを出して傷のまわりの血を拭った。

拭った指先にも、まだ血が残っている。


「すまない。それは、荷の上に置いてもらえるか」


 年寄りが腰をかがめると、白い布が荷の上にそっと置かれた。


 血を拭い終えてから、置かれた布を取った。

よく使い込まれていて、手に柔らかい。

片手で一重に巻いて端を内へ折り込むあいだ、年寄りはそばで待っていてくれた。


「……助かる」


 年寄りは頷(うなず)きを一つ返して戸口へ戻り、戸枠に手を掛けて一拍おいてから内へ入っていった。


 広場には、またこっちだけが残った。


 荷をもう一度背負って、帰りの道を歩いた。

戸の隙間の明かりが道に細い筋を落としている。

巻いた布の白だけが、袖口で仄(ほの)かに明るい。


 布の下で熱がゆっくり脈を打っている。

さっきまで気づかなかったその脈が、一歩ごとに腕に響いた。


 布を巻いた腕を見て、浜で会った若い漁師の楫(かじ)を思い出す。

屋根のかけらが当たるより先に腕が折れていた、と楫(かじ)は言っていた。

あのときも、どっちが先だったのか分からなかった。


 今日は、こっちが先に音を立てた。

あの一枚が動いたのは、その音のせいか、日暮れのせいか。

止めても止まらないまま、視えなくなった。


 宿の手前で、屋根を見上げた。

この屋根の上にも、隣の屋根の上にも、何も視えない。

それでも、しばらく目を離せなかった。


 袖の内から小石を二つ出した。

角のあるほうに、血が少し乾いて付いている。

右の掌(てのひら)を開くと、握りしめたときに角の当たった所が、小さく切れていた。


 戸口から離れた道の端に、二つとも音を立てないようにそっと置く。


 小石は、拾った朝より冷えていた。

――「おとなしい」は「音無し」から来た、と言う者がおってね。

字で書けば「大人しい」だそうな。

どっちにしても、音を立てん日にいちばん大人しゅうしとるのは、大人のほうらしい。

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