合わん
――風の便り
「あの人、今月もひと月ぶりに、丘の棚へ出かけてったよ」
「手ぶらで出てって、手ぶらで帰ってくる。それをもう、ずうっとだよ」
「町の昔の話の写しを、もう十七も見つけたんだってさ」
「なのに、書いてあることは、どれも同じなんだと」
「同じなら、それが本当なんだろうにねえ。何が気に入らないんだか」
男は棚の列を端まで見終えると、隣の列へは入らなかった。
屋根の継ぎ目から落ちる光が、細く斜めに差している。
最後の一冊を棚へ差し戻してから、見終えた列をもう一度だけ端から端まで目で追う。
それから来たときと同じ手ぶらのまま表へ向かい、上がり口で履きものをつっかけて土間へ下りた。
戸口で一度足が止まったが、振り返りはしなかった。
「町へ帰る。道なりに下って、川を渡った先だ」
それだけ言って男は出ていった。
ひと月にいっぺん、その町から通ってくるのだろう。
こっちから訊いてもいないのに、道筋だけを置いていった。
――律儀なのは、どっちだか。
後を追って並んで歩くほどの用は、こっちには無い。
ただ、帰っていく先くらいはこの目で確かめたくなった。
写された何かがあるとしたら、まずはあの町だろう。
とはいえ今から出れば、道の途中で日が暮れる。
知らない土地の夜道で迷えば、町に着くのはかえって遅くなる。
もう一晩、棚のあいだに泊まることにした。
明くる朝、上がり口で草鞋を履いて表へ出た。
◇
窪みを上がって尾根を越え、道なりに下っていった。
下るにつれて、道の両側にまた畑が見えはじめた。
畝の向きは、来た道で見たどれとも違う。
川の手前の湿った土に、足跡が一筋水のほうへ続いていた。
向こう岸の際にも続きがあるから、昨日の男のものだろう。
川は膝までの深さで流れも緩く、底の石まで見えた。
水は冷たいが、足を取られるほどではない。
渡りきると、道はそのまま先へ続いていた。
日が傾きはじめるころ、道の先に屋根が見えてきた。
これまで通ってきたどの里よりも数が多く、あの棚の窪みとは違う平らな土地に広がっている。
町へ入る少し手前で、道の脇に人が一人立っていた。
どこかへ行く途中には見えない。
町へ入るでもなく出るでもなく、ただそこにいる。
履きものには、土も付いていなかった。
顔の上に、貼りものが一枚載っている。
両手で胸に抱えているのは、布を巻いた細長いものだ。
何度も巻き直したのだろう、端がほつれている。
そばを通るときに顔を見たが、向こうはこっちへ目も向けない。
行き過ぎてから足を止めた。
声が届くかどうかだけでも、確かめておきたい。
「町は、この先か」
顔の上の一枚は、揺れもしない。
――聞こえていないのか、答える気がないのか。
頼まれてもいない一枚に、こっちから手を出すわけにはいかない。
顔の上の一枚と、抱えた布のほつれだけを覚えておいて、また歩き出した。
少し先の道端に、石が一つ立っている。
名は無く、同じ日づけだけが数え切れないほど重ねて彫ってあった。
どれも、同じ彫り手が刻んだように見える。
足を止めてしばらく眺め、それから石の脇を過ぎた。
しばらく歩いて振り返ると、道の脇にはもう誰も居なかった。
来た道を戻るときには、また会うこともあるだろう。
◇
道は、そのまま町の通りになった。
人が三人並んで歩けるほどの幅がある。
戸口の前を掃く音がして、荷を運ぶ者が行き交う。
井戸の端には桶を提げた者が集まり、屋根のあいだに煮炊きの煙が立っている。
あちこちで呼び交わす声がした。
すれ違うたびに顔を見たが、どの顔にも貼りものは載っていない。
どれも、素顔だ。
ふと顔を上げて、家並みの屋根を見渡した。
広場のほうの屋根の上、すれすれの低さに、貼りものが一枚、浮いている。
風もないのに、端だけがひらひらと揺れている。
遠目には、大きさも形も定まらない。
人の頭越しに、それだけが視えた。
これまで視てきた一枚は、顔の上に載るか、顔そのものを支えていた。
あの下にも、誰かいるはずだった。
だが、その一枚を載せている顔が、無い。
どこにも見えない。
どういう理屈でそうなるのか、さっぱりだ。
足がそっちへ向きかけたが、訊く相手の顔が無い。
――これじゃ、話の聞きようもないな。
あの一枚のことは覚えておくことにして、足を戻し、そのまま通りを歩いた。
◇
やがて、広場に出た。
真ん中に上の平らな石がひとつ置いてある。
高さは腰ほどで、彫ってあるのは日づけと刻、それだけだ。
幾つもの手に撫でられてきたのか、角が丸くなっていた。
年寄りが一人、その角を撫でていた。
指の腹が石の形を憶えているらしく、目をやらなくても手はひとりでに角を撫でている。
その手のまま、年寄りがこっちを見た。
目が合ったので、石の日づけを指して訊いた。
「ひとつ、訊きたい。それは、何の日だ」
年寄りは同じ角をもう一度撫でてから、口を開いた。
「幾代も前から、伝わってる話だ。
あの男が、音で子らを連れて行った。
町が、約束のものを渡さなかったから。
その報いだ、と」
話すあいだも、撫でる手は止まらない。
勝手口から、女が顔を出した。
濡れた布を手にしている。
「じょうの爺さま、よそから来たお人にまで、聞かせてるのかい」
じょうの爺さまと呼ばれた年寄りは、黙って顎を引いた。
布を絞りながら、女もこっちへ顔を向けた。
「あたしは、こう聞いてるよ。
町が、約束のものを渡さなかった。
それで、あの男が子らを連れて行った、そして、消えた」
天秤棒を担いだ若い衆が一人そこで足を止めた。
両端の籠は空だ。
「まりさん、どう言ったって、町が約束のもんを渡さなかった報いだ。それだけだ」
まりと呼ばれた女は、肩をすくめただけで何も言い足さなかった。
話を聞きながら目を一度だけ屋根のほうへ上げた。
あの一枚は、さっきと同じ所に浮いている。
言い方はそれぞれでも、芯は同じだった。
約束を違えた、その報い。
――同じ話を、三つの口から聞いたことになるな。
広場の端を、男が通った。
〈万の棚〉で会った男だ。
片方の足を少しかばう歩き方は棚で見たときのままだった。
年寄りの手が止まった。
女は布を持つ手を宙で止め、若い衆は担いだ肩の向きを変えない。
年寄りが顔だけを男のほうへ向けた。
「ゆうご、今度は合ったか」
「合わん」
男は石に手を出さず目もくれずに、そのまま通りの奥へ抜けていく。
棚では名を聞きそびれたが、ゆうごというらしい。
それから年寄りの手がまた石の角に触れた。
女は黙って勝手口の内へ引っ込み、若い衆は空の籠を鳴らさないように担ぎ直して歩き出した。
「明日の朝は市が立たねえ。
毎年、その日だけは、そうと決まってる」
年寄りが静かに言う。
愚痴をこぼす声ではなく、毎年のことを今年も口にしただけ、という声だ。
広場の隅には、市の台が畳んで積んである。
今日のうちに片づけたらしく、掛けてある縄は結び目まできちんと揃っていた。
通りでは戸口の前を掃く音がひとつ、またひとつとやんでいく。
荷を運んでいた者らの姿も減って、話し声が遠くなった。
「明日は、通りで音を立てるな。
とりわけ、日の傾く刻はな」
こっちを見ずに言った。
撫でる手は止まらない。
「……理由は知らねえ。訊かれても、さあ、だ」
それでも、一度だけ訊いた。
「理由は」
「さあ」
土地には土地の決まりがあり、わけを知らないまま守っているものもあるのだろう。
その先は訊かずにおいた。
◇
日が落ちる前に、年寄りが家の奥から紐で十字に縛った紙の束を持ってきた。
紐は新しいが、紙は古い。
「よそから来た者には、見せることになってる。
読んだら、ここへ置いとけ」
「読ませてもらう」
年寄りは束を石の上に置いて、家へ戻った。
紐を解いて捲っていく。
古いものから順に重ねてあり、いちばん上が新しい。
幾代ぶんかの手で、同じ一件について書かれている。
長い紙もあればほんの数行の紙もあって、言い方も紙ごとにばらばらだった。
〈男の鳴らす音に、子らはついて行った〉と書く紙があれば、〈音のするほうへ、子らは歩いていった〉と書く紙もある。
音の出てくる所は紙ごとに違うのに、締めだけは、どの紙も〈約束のものを渡さなかった。報いだ〉と同じだった。
いちばん古い紙は書き出しの一語が墨で潰してあった。
そのあとはどの紙よりも短く、〈音で子らを連れて行った〉の一行に、あの締めくくりが続くだけだ。
〈約束のものを渡さなかった。報いだ〉
ところが、一枚だけ、紙が違う。
ほかより薄く、筆の癖も前後のどれとも違っている。
頭が欠けていて、はじめのほうは読めなかった。
〈……しているあいだは、動く。止めれば、……〉
名も場所も無い。
ほかの紙はどれも締めくくりまで書いてあるのに、この一枚だけはそこまで行かずに切れている。
荷から帳面を出した。
開くのは、いつも前からだ。
何枚かめくったところで、筆を持つ手が止まった。
――これを書けば、紙に無い一行を、こっちが足すことになる。
ただ、紙束のどの紙にも音が出てきた。
欠けた頭に入るものがあるとしたら、まずそれだろう。
決めたわけではない。
確かめるまでの仮の一行として、欠けた頭に〈音を鳴らして〉、切れた終いに〈止まる〉を入れて書いた。
〈音を鳴らしているあいだは、動く。止めれば、止まる〉
紙には、そこまで書いていない。
入れたのは、こっちだ。
束を縛り直して、石の上へ戻した。
紐は解く前と同じ結び方にしておいた。
◇
日が落ちきらないうちに、通りの戸が端から順に閉まっていった。
誰も声を掛け合わないまま、決まった手つきで閉めていく。
戸の閉まる音が、ひとつずつ遠ざかっていった。
通りから人が引いた。
広場に残ったのは、紙束を載せた石と、畳んだ台と、こっちだけだ。
石の角に、手を置いてみる。
日のぬくもりが、まだ伝わってくる。
角は、掌になじむ形に、すり減っている。
誰も、理由を言わなかった。
明日は、まだ来ていない。
――「合わん」というのは、便利な言葉でね。
割に合わん、性に合わん、口に合わん。
何に比べて合わんのかは、言った当人しか知らん。
聞かされたほうは、黙ってうなずいておくのが、まあ、礼儀かね。




