書きかけ
――風の便り
「大水で傷んだ橋の直しに、楽々森彦が戻ってきたよ。名指しで呼んだら、ほんとに来た」
「呼びに行った女が変わっとってな。話すたびに高いとこへ上がるんだと。福さんちの石垣にまで」
「連れのよそ者とは、坂の下で別れたそうな。そっちは、まっすぐの道だって」
「あの先は、畑も途切れるのにねえ。何を探しに行ったんだか」
棚のあいだで夜を明かした。
寝場所には戸口の見えるところを選んだ。
壁を背にして、荷は腹の下へ抱え込む。
上がり口に脱いだ草鞋も、そこから見えた。
灯が点いていたのだから、いつ誰が来てもおかしくない。
屋根から細い光が落ちてきて、朝が来たのが分かった。
板葺きの継ぎ目が、そこだけ空いているらしい。
光の筋の中で、塵がゆっくり回っている。
起き上がると、板の上で寝た背中が少し強張っていた。
昨日の棚へは、足を向けなかった。
あそこには名の書いてある二冊が並んでいる。
開けば何か分かるのかもしれないが、こっちは借りてきた書きつけの元を探しに来た。
見つけたら、そこへ置いていくつもりでいる。
それに、あの男は今日も歩いている。
――今ごろは、里で橋の直しにかかってるだろうな。
生きて歩いている者の中身を、本で読む気にはなれなかった。
昨日とは別の通路へ入って、背の文字を端から読んでいった。
一列読み終えると次の列へ移って、もう一列。
荷の書きつけには、どこの浜の話とも、いつの世の話とも書いていない。
背の名と比べようにも、比べる名が無い。
二列見て回って、足を止めた。
あと十列読んでも百列読んでも、見つかるとしたら偶然だろう。
その偶然を待つには、ここは棚が多すぎる。
引き返しかけたところで、二列めの奥が目に入った。
背に文字のある本が並んでいるのは、その棚の途中までだった。
そこから先は、紙の束が床から積み上げてある。
背に何も書いていないものは、並べようが無いのだろう。
行き場のなくなった書きつけは、しまいにここへ流れ着く。
雉の姐さんはそう言っていた。
――流れ着くにしても、ずいぶん溜まったもんだな。
荷の一番深いところから、畳んだ書きつけを出した。
山の社で、写しばかりの束から一枚だけ借りてきた紙だ。
浜を回るあいだも、濡らさず、虫に食われた跡も増やさずに運んできた。
積んである紙束のいちばん上へ、畳んだまま載せてみる。
載せた手を、すぐには引けなかった。
離せば、それで置いたことになる。
あの日、温羅には「借り賃だ。書きつけは、借りていく」と言ってきた。
持って行きな、と返ってきた。
どうせもう誰も読まねえ、と。
持って行け、とは言われたが、置いてこい、とは言われていない。
借りると言ったのは、こっちだ。
借りたものは、借りた元へ返す。
ここは、まだその元ではない。
手を離さないまま、束の上の一枚を持ち上げた。
荷の一番深いところへ、もう一度しまい込む。
荷を背負い直す。
この紙とは、もうしばらく一緒に歩くことになりそうだ。
◇
隣の列へ移ると、そこにも本は無かった。
綴じていない紙束と、綴じの解けた帳面ばかりが積んである。
指を掛けたら、端がぼろりと欠けた。
崩さないように一冊抜き取って、開いてみた。
ある村で火が出た晩の話だった。
風の強い晩で、納屋がひとつ焼けた。
火は明け方に消えて、人はみな無事だったという。
四枚目をめくると、字が文の途中で止まっていた。
その先は、白いままだ。
隣の一冊も、同じ村の同じ火の話だった。
火元も同じで、どちらも村はずれの柿の木の下から火が出ている。
ただ、焼けたのは納屋ではなく人の住む家で、それも二軒と書いてある。
風のことはひと言も無く、火が出たのも晩ではなく昼になっていた。
これも途中で切れていた。
二冊を床に並べてみた。
見比べるほど、食い違いばかりが目につく。
同じなのは、村と火元くらいだ。
そしてどちらも、途中で終わっている。
話が食い違えば、いつもは当人に訊きに行く。
表紙を指で軽く叩いてみたが、紙は何も言わなかった。
――訊けもしないのに決めたら、紙に無い一行を、こっちが書き足すことになる。
二冊とも元の場所へ戻した。三冊め。
四冊め。
どれも途中で切れて、人の名も場所も書きかけのまま放ってある。
書き終えなかったのか、書き終える前にいなくなったのか。
何冊めかの綴じの解けた一枚で、目が止まった。
一行きりだった。
〈罅が、また一本。誰の手かは、知れず〉
どこの、いつのことなのか。
知っているのは、この一行の書き手だけだ。
訊く相手がいなかった。
それなら、訊ける相手に行き当たるまで持っていけばいい。
荷から帳面を出して、空いたところに一行だけ写した。
〈罅が、また一本。誰の手かは、知れず。どこかは、書いていない〉
少し前の頁には、山の際に罅を視た日の一行が残っている。
〈罅一本。削った者は、分からない〉。
棚で見つけた一行と、山で書いた自分の一行を、しばらく見比べた。
書き方が似ている。そう、似ている。
それだけだ。
もとの一枚を、裏返してみた。
こちらにも、一行ある。
筆の癖が、表と同じだ。同じ人間が、裏にも書いている。
裏の一行は、線を一本引いて消してある。
次の行の頭に、筆の先を一度だけ下ろした跡があった。
小さな点が、ひとつ。
そこから先は、何も書かれていなかった。
◇
昼を回ったころ、灯をひとつ棚から借りて、昨日から気になっていた通路の奥へ行ってみた。
奥へ進むほど棚は高くなり、通路は狭くなっていく。
天井の梁まで下がってきて、二度、身をかがめて潜った。
棚の中身も変わってきた。
本が減って、板に書いたものや木の札が増えていく。
札には字が彫ってあった。
墨で書くより前に、こうして刻んでいた土地があったのだろう。
灯の届く先が、だんだん短くなった。
足の下で板がよく鳴る。
あまり踏まれていないのだろう。
梯子の横木も、ここではどれも同じ色をしている。
突き当たりは、棚ではなかった。
通路がひとつ、板で塞いである。
打ちつけた板と板のあいだに、細い隙間が一本だけあった。
灯を近づけたが、中は見えない。
板に掌を当てると、ひやりとする。
押してみても、厚い板はびくともしなかった。
灯を掲げて両側の通路も見て回ったが、板を打ってあるのは、ここ一つきりだ。
こっちが勝手に開けていい戸ではない。
向きを変えて、引き返す。
◇
灯を返しに戻る途中の棚に、人がいた。
こっちに背を向けて、棚の下の段を覗き込んでいる。
手ぶらで、旅の身なりでもなかった。
足音に気づいたのか、男が身を起こした。
片方の足を少しかばいながら、ゆっくり振り返る。
年はこっちより上らしい。
「上がり口の草鞋、あんたのかい。
ゆうべから居たんだろう」
「ああ」
男の目が荷から足もとへ下りて、また顔へ戻ってくる。
目もとが少しゆるんで、それだけで男はまた棚のほうへ向き直った。
「ここで人に会うのは、ずいぶん久しぶりだ。
三月ぶりか、四月ぶりか」
「よく来るのか」
「ここへかい? ひと月にいっぺん、通ってる。
あんたも、探しもんかい」
「探しもん……」
少し考えてから、首を横に振った。
「置きに来た。……置くのは、やめたが」
「置きに。何を?」
「借りものをだ」
男の手が、止まった。
「借りもの? 律儀なこった。だいたいは、探しに来る」
背を向けたまま、肩が小さく揺れた。
笑ったらしい。
窪みへ下りる道は幾筋もあった。
この男は、こっちとは別の道から通ってくるのだろう。
奥の板のことも、誰もいないのに灯が点いていたことも、口には出さずにおいた。
訊くなら、男の探しもののほうだ。
その背へ、訊いた。
「あんたは、探しに」
「ああ」
「長いのか」
「長い」
それきりしばらく、乾いた音だけが続いた。
男の指が本の背にひとつずつ当たっていく。
抜きも開きもせず、もう見た本の背を、指でなぞって過ぎていくだけらしい。
「昔、俺の町であったことだ。
何があったかは……、まあ、いい」
訊いてはいない。
男のほうが、そこで止めた。
「ここには、その話が幾らでもある。
写したのも、写しの写しも。
数えたら、十七あった」
「十七」
「まだ増えるだろうよ。
奥のほうは、全部見ちゃいないからな」
男は目で探しもせずに一冊を抜いて、少しだけ開いた。
どこに何があるのか、手のほうが憶えているらしい。
「だがな。
どれも、俺の憶えてることと合わん。
ひとつも合わん」
声は荒れていない。
何度も同じことを口にしてきたのだろう。
噂が貼りついて取れなくなった顔なら、これまでに幾つも見てきた。
頼まれれば、それを剥がしてきた。
だが、この男の顔には何も載っていない。
剥がすものが、どこにも無い。
頼まれてもいない。
「それで」
「それで、だ。
……見つかるまで、来る」
男が短く笑った。
「持って帰りゃいいのに、と思ったろ」
「ああ」
「……正直なこった」
男はまた肩を揺らした。
「持っては帰らん。これはここのもんだ」
手にしていた一冊を、抜いたところへ戻す。
男は棚に手をついて、背をそらした。
それから、さっきの続きへ手を伸ばした。
「どれも合わんのに、どれも同じことを書いてある」
男はまた迷わずに次の一冊を抜いた。
どこを見るかは、もう決めてあるらしい。
十七の写しが同じことを書いているなら、写した元は一つだ。
その元が、この男の憶えと合わない。
――なら、写された何かは、どこか別のところにあるってことか。
――書きかけの「かけ」は、掛け売りの「かけ」と、どこか似とってね。
続きは、いずれ払う。そう言って、筆を置く。
取り立てる者がおらんと、たいてい、そのまま年を越すもんさ。




