あんた、名前は
――風の便り
「梅雨のあいだ、雨のたびに橋の下へ通ってたよそ者がいたろう」
「あの石工の隣に座るだけで、何を話すでもなかったそうだよ」
「それで三年だんまりの石工が口をきいたってんだから、分からないもんさ」
「当のよそ者は、石工が寺へ上がってったあとも、橋の下に座ったままだったとさ」
酒場は今夜もいつもどおりにぎわっていた。
「――で、そっちの井戸は涸れちまってよ」
「賭けるなら明日の朝だ、今夜はやめとけ」
「その話、この間も聞いたよ」
あちこちで笑い声が上がり、杯がぶつかる。
誰かが歌いかけて、途中でやめる。
奥の卓では骰子が転がり、負けた男が大げさに天を仰いだ。
話はどれも尻切れで、誰も最後まで聞いちゃいない。
この店はそれでうまく回っている。
戸口に近い卓で、こっちも半分だけ聞いていた。
そのざわめきを割って、ひときわよく通る一言が届いた。
「きびだんご一つで鬼退治についてった、英雄様のお供の犬コロさ」
酒場の隅で、男が胸を張った。
見ない顔だね、あんた何者だい。
酔客の軽い問いに、わざわざ杯を置いてまでそう返した。
――嘘だな、と思った。
男の笑った顔に、もう一枚、〈英雄様のお供の犬コロ〉の顔が重なっていた。
この手の作り物なら見慣れている。
出来はいいが、端が一箇所だけめくれかけていた。
訊いた酔客は、そりゃ大したもんだと笑って、もう別の話を始めている。
鎧姿の武者と見たこともない布をまとった踊り子は、同じ鍋をつつくのに忙しい。
客の目はみな、男の顔の上を素通りしていく。
もっとも、それが視える者はまずいない。
――それにしても当の本人は、その借り物の顔をいちばん大事そうにかぶっている。
品書きの字は三種類の筆跡で継ぎ足され、客は国も時代もばらばらだ。
戦から帰ったきり語られなくなった兵士も、名を呼ぶ者がいなくなった年寄りも、この店では肩を並べて飲んでいる。
世間から忘れられた者の行き着く先が、ここだ。
壁ぎわの卓では酔った二人が肩を小突き合っていて、片方の腰には飾りではない刃が下がっている。
刃を抜くほどの諍いも月にいくどかはあるが、幸い今夜はまだ誰も抜いていない。
物騒な二人より、隅の男のほうがよほど気にかかった。
放っておけばいいものを、足が先に動いた。
杯を持って男の卓へ移る。
――ほかに空いた席がなかった、ってことにしておくか。
「ここ、空いてるか」
「見てのとおり、がら空きさ」
向かいに腰を下ろした。
「鬼退治って、あれだろ。
英雄様が鬼の砦を攻め落として、めでたし、めでたしのやつ」
「ご名答。絵本のまんまだよ」
「お供が三匹いたって聞いたが」
「犬と猿と雉。
俺はその、犬のとこの下っ端さ」
男はまた胸を張った。
あんまり迷わず答えるので、訊いたこっちが拍子抜けした。
「下っ端は、何をやってた」
「吠える係」
「便利だな」
「だろう?」
男は杯を掲げた。
中身はさっきから減っていない。
同じ高さのまま、湯気だけが細くなっていく。
「きびだんご一つで命を張るなんて、割に合わない話だと思うだろ。
ところが、あれが旨いんだ。
英雄様が手ずから握った飯も天下一品でね。
なに、飯につられて戦をしたようなもんさ」
「飯の話ばかりだな。
肝心の英雄様は、そんなに強いのか」
「そりゃもう。山ひとつ丸ごと壁みたいな砦を、正面からえいやと破っちまう。
おまけに勘がいい。
伏兵の潜んだ藪だけ、必ず先に射抜くんだ。
あればっかりは、誰にも真似できない」
「他のお供は。雉と、猿がいただろ」
「雉の姐さんは空の受け持ちさ。
戦場と本陣のあいだを飛んで、報せを運ぶ役でね。
……猿? ああ、いたね、そんなのも。
ありゃ数合わせさ」
数合わせ、と言うときだけ、男の声はやけに軽かった。
まるで、早くその話から離れたがっているみたいに。
「なあ、あんたのその〈お供〉の看板」
「ん?」
「寸法が合ってない」
「……何の話だい」
指の先を、男の左肩の少し上――本人には何もないはずの空へ向けた。
「ここ。端がめくれてる」
男がひゅっと息を呑んだ。
反射的に肩を払う。
何も付いていない肩を、二度、三度。
「あんたの顔にはもう一枚、〈英雄様のお供の犬コロ〉って顔が貼りついてる。
世間が長いこと、そう語ってきた分の顔だ。
よくできてるが、あんたの素顔じゃない。
その端が、めくれかけてる」
「……なんだいそりゃ。
人相見の類いかい」
「人相見とは違う。めくれてる場所が視えるだけ。
その下に何があるかは、あんたしか知らない」
「そいつは残念。開けたって空っぽだよ」
男は自分の胸をこんこんと叩いてみせた。
「空っぽの割に、よく喋る」
「喋ってるのは英雄様の話だろう。
ありゃ何度話しても減らないんだ。
便利なもんさ」
言って、男はもう笑っていた。
切り替えの早いこと。
そのときだった。
土間の奥で、悲鳴のような太い鳴き声が上がった。
行商が連れてきた、牛ほどもある荷運びの獣が首を振り上げている。
酔った客がふざけて投げた杯が、角の付け根に当たったらしい。
獣は棒立ちになって、太い前脚で宙を掻いた。
繋いだ綱はいまにも千切れそうだ。
あの巨体が本気で暴れれば、店の半分は薙ぎ倒される。
客がいっせいに壁際へ逃げるなか、こっちは腰を浮かせて、獣のほうへ足を向けかけた。
男は、立たなかった。
杯を置き、座ったまま半身だけを獣に向ける。
目は合わせず、首を少し傾けている。
それから指を二本卓に置いて、とん、とん、と間を空けて叩いた。
歩幅のような拍が板を伝ってこっちの手にも届き、妙に気持ちが落ち着いていく。
獣の耳がその音のほうを向く。
男は拍を少しずつ、少しずつ遅くしていく。
宙を掻いていた前脚が下りて、蹄が土間を打った。
その音の間が指の拍に寄っていく。
振り上げていた首も、拍がひとつ遅くなるたびに下がってきた。
獣が鼻から長い息を吐いて、座った。
浮かせていた腰を、こっちも下ろした。
呆気にとられていた行商が我に返って、綱を結び直す。
それから礼だと銭を差し出すのを、男は手を振って断った。
「犬コロの真似事さ。英雄様の隣で、そういうのを散々見たんでね」
男は杯を取り直して、それきり獣のほうを見なかった。
店もすぐにもとの騒がしさへ戻っていく。
こっちの目だけは男から離れなかった。
真似事にしては、ずいぶん手慣れていた。
「おや、回収屋。今夜も仕事かい」
店主が空いた皿を下げがてら、声をかけてきた。
「そのつもりじゃなかったけど……うん、拾ってく」
「拾う?」
男が眉を上げた。
「落とし物みたいに言ってくれるじゃないか」
「落ちてただろ、隅っこに」
「言うねえ」
男は杯の縁を指でなぞって、それから思い出したように訊いた。
「で、回収屋ってのは何を回収するんだい。
屑鉄か?」
「あんたみたいなのさ」
「そりゃ屑鉄より値がつかないぜ」
「目利きはこっちの仕事だ」
言い置いて、杯を持って席を立った。
奥の長卓では常連たちが今夜も十人ほどの車座になっていた。
屋根葺きの婆さんが仕切り、双子の樽職人と川漁師がよく喋る。
名の知れた者はひとりもいないが、誰の話にも気前よく身を乗り出す。
婆さんが先に気づいて、こっちの肩ごしに隅の卓をのぞいた。
「また拾ってきたのかい。
世話焼きだねえ、あんたも」
「ついでだ」
「ついでにしちゃ、隅でずいぶん長いこと話し込んでたじゃないか」
返す言葉が出てこなかった。
「……席、ひとつ頼む」
婆さんは喉の奥で笑って、樽職人の膝をぽんと叩いた。
双子がそろって尻をずらし、車座の端が広がる。
振り向くと、男も席を立っていた。
戸口へ向かいかけて、そこで立ち止まっている。
「……いいのかい。飯がまずくなるぜ」
「まずくなったら店主に謝る。ほら」
男はぶつぶつ言いながら、案外すんなり寄ってきた。
座りたくない者の足取りじゃない。
空いた端に男が腰を下ろし、こっちはその隣に座った。
婆さんが煮込みの椀を押しつけ、樽職人の片割れが白湯を注いだ湯呑みを男の前へ回す。
「……こりゃ、どうも」
男は椀を抱えて首をすくめた。
酒より先に、まず白湯。
この長卓では、そういう順で出てくる。
婆さんはついでのように、もう一杯をこっちの前へ滑らせた。
「あんたも飲みな。人の世話ばっかり焼いてないで」
湯呑みを引き寄せた。
口はつけなかった。
もう一枚が視えるのは、他人の顔だけだ。
湯の面に映っているこの顔に何が重なっているのかは、いつまでたっても視えない。
「ようこそ、がらくた仲間」
川漁師が笑って杯を掲げた。
「光る前の、ね」
男が返す。
悪くない返しだ。
鬼退治の話をせがまれて、男はきびだんごの値打ちから英雄様の太刀筋まで、さっきより声を弾ませて語った。
車座は笑うところで笑い、唸るところで唸った。
この連中は昔からそうやって話を聞いてくれる。
男の受け答えにも、作りものでない張りが戻ってきていた。
ひとしきり笑いが落ち着いたところで、婆さんが筆を舐めて男の湯呑みを引き寄せる。
「湯呑みに名前を書いとくんだよ。
ここじゃ取り違えが多いんでね。
――で、新顔さん、あんた、名前は」
挨拶がわりの軽い問いのはずだった。
男は口を開けた。
開けたまま、止まった。
笑いかけた頬が途中で固まる。
視線が白湯の中へ落ちて、そのまま上がってこない。
車座のざわめきがゆっくり引いていった。
長い沈黙のあとで、男は掠れた声で言った。
「……変だな。ど忘れだ」
「ゆっくりでいいよ」
婆さんはそう笑って、筆を持ったまま待った。
けれど、ど忘れなら目が宙を探す。
男の目は白湯に落ちたきり、どこも探していなかった。
英雄様の太刀筋も、砦の門の落ち方も、あれほど立て板に水で語ってみせたのに。
――ど忘れの顔じゃない。
婆さんの筆は宙で止まったまま、湯呑みからは湯気だけがまっすぐ立っていた。
男は、自分の名前だけ、答えられなかった。
【今日の一物 湯呑み】
この店の湯呑みは、酒より先に白湯が満ちる。
器がまだ持ち主を知らないあいだの、ここだけの決まりである。




