序 座る石
本編・第一話の、ひと月ほど前の話です。
町はずれの小川に、人がふたり並べば肩が触れるくらいの小さな石の橋が架かっている。
昼過ぎに降りだした雨が見る間に強さを増す。
軒を探す間もなく、土手の道から橋の下へ駆け込んだ。
先客がいる。
橋の根もとの石に男が一人、膝を抱えて座っていた。
長いこと洗っていない前掛けに、白い石の粉が染みついている。
脇に置いた袋からは、石を割って刻むのに使う鑿と、頭の平たい槌がのぞいていた。
男は、濡れた者が一人増えたことにも気づいていないふうで、川のほうを見たままだった。
雨の音に混じって、下駄の音が二つ土手の道を近づいてくる。
番傘を叩く雨音がそのまま頭の上へ移って、声が降ってきた。
「まだいるのか、あの石工。もう三年だぞ」
「石としか口をきかん石工さ。
仕事のあいだ、石にぶつぶつ話しかけてたのを、誰かが笑ったのが始まりでな。
笑われてるうちに、人とは口をきかなくなった」
「仕事は」
「誰が頼むもんか。石にお伺いを立てなきゃ積めねえ石工なんぞ。
声をかけたって、返事ひとつしねえんだ」
「石がお友達ってわけか」
二人ぶんの笑い声が橋板の上ではじけて、向こう岸へ遠ざかっていった。
石工は膝を抱えたままだったが、その腕がさっきより少しだけきつく締まった。
石工の隣に、もうひとつ平たい石があった。
腰を下ろすと、ずぶ濡れの体の下で石の上は乾いていた。
「隣、借りるな」
返事は無い。
川の音が急に近くなった。
見上げると、橋の裏は石と石が隙間なく噛み合っていた。
これだけ降っているのに、雫ひとつ落ちてこない。
「染みひとつ、浮いてこないな」
返事は無かった。
ただ、石工の目が一度だけ橋の裏の石を見上げて、また膝へ戻った。
土手の道を番傘がひとつ下りてきた。
傘の下から、墨染めの衣の裾がのぞいている。
橋のたもとで、町のほうから来た男がその傘に声をかけた。
「坊さん、この雨降りの中をどちらへ」
「町へな。また人手を頼まにゃならん」
「また、ですか」
坊さんは返事の代わりに、川上のほうへ傘を傾けた。
その先の丘に、寺の屋根が雨に煙っている。
「裏の積み石が、また崩れた。
……積み直しても積み直しても、ひと雨でこれだ。
仏さまの石垣だというのに」
町の男は気の毒そうに頭を下げて土手を下っていった。
坊さんの傘が橋の上へ上がり、下駄の音が遠ざかると、また川の音だけになった。
石工は何も言わなかった。
雨は日暮れまでやまなかった。
橋板を打つ雨の音がいつの間にか途切れている。
橋の外へ首だけを出すと、西の空が薄く明るんでいた。
雨は上がったらしい。
日が落ちきる前に戻らねばならない道がある。
腰を上げた。
「邪魔をした」
石工は、座ったままだった。
◇
その年の梅雨は長かった。
放っておけばいい、とは思う。
思うだけで、足のほうが先に決めてしまう。
降りだすと、あの橋へ向かっていた。
石工はいつも同じ石にいて、こっちも同じ石に座る。
雨のあいだ、どちらも何も言わない。
雨が上がると、こっちが「邪魔をした」とだけ言って腰を上げる。
訊きたいことなら、いくつもあった。
ただ、橋の上のあの笑い声のあとで、こっちまで町の者と同じように声をかける気にはなれなかった。
坊さんは雨のたびに橋を渡って、町へ人手を頼みに行った。
降るたびに寺の石垣がどこかしら崩れるのだ。
梅雨が明ければじきに盆が来て、墓参りの人が丘の寺まで石段を上ってくる。
「急がにゃならん。盆が来る前に、せめて石段だけでも」
渡りながら、いつも同じことをこぼしていく。
何日目かに来てみると、こっちの座る石から濡れた木の葉が払ってあった。
石工はいつものように膝を抱えて川を見ている。
黙って、そこへ座った。
その日の帰りぎわは、「邪魔をした」のあとに、ひと言だけ「助かった」と足した。
石工は、川を見たままだった。
◇
ずいぶん経ったある朝、ようやく雨が上がった。
降ってもいないのに、足はいつもの道を来ていた。
川は濁ったまま、嵩を増している。
橋の下まで斜めに日が差し込んでいた。
石工はいつもの石にいて、こっちもその隣に座った。
頭の上の橋板を、下駄の音が渡ってくる。
もう、足音だけで誰か分かる。
だが、今朝の坊さんの声は一段と低かった。
「……また、崩れた」
それきり、頭の上で下駄の音が止まった。
隣で、膝を抱えていた石工の腕がほどけた。
息を吸う音がした。
「……が逆やほん」
掠れて、ほとんど声にならなかった。
――橋の上までは届いていないだろう。
「逆か」
石工は答えるかわりに、足もとから細長い石を三つ拾った。
ひとつを、耳を当てるような近さまで顔に寄せてから、長い面をこちらへ向けて土手の土に寝かせる。
その上にふたつめ、みっつめを同じように重ねた。
表は平らに揃って、きれいに見える。
だが、どの石も奥行きが浅い。
三つめを載せたところで、もう全体がかすかに揺れていた。
石工が指で上から軽く押すと、重ねた石はぐらりと手前へ傾いて、ばらりと崩れた。
石工は同じ石を拾い直して、今度は長いほうの端を土手の奥へ向けた。
まず二つを横に並べて、一つずつぐっと押しこむ。
残る一つは、下の二つの継ぎ目をまたぐように上へ載せた。
表に見えるのは短い面ばかりで、高さも向きも不揃いだ。
――お世辞にも、きれいとは言えないな。
けれど、どの石も奥の土手へ深く食いこんでいる。
石工がまた指で押した。
今度は、動かない。
石工は指を離すと、少し体をずらして積んだ石の前を空けた。
黙ったまま、その目が丘の上の寺へ動いた。
こっちは座ったまま手を伸ばして、三つの石を押してみた。
指に、土手の固さがそのまま返ってくる。
「……なるほどな。長いほうを奥へ差しこめば、押しても、びくともしない」
声を張ったつもりはなかった。
ただ、橋の上までは思いのほか近い。
いつの間にか歩きだしていた下駄の音が、止まった。
欄干から坊さんの顔がのぞいた。
「……誰が、そんなことを言うた」
こっちは答えずに、土手の石を指さした。
坊さんの目が三つの石に落ちる。
不揃いに積まれた、短い面ばかりの石。
それから、その隣に座る石工へ移った。
石工が、こっちを見ていた。
この橋の下で会ってから、一度も合わなかった目だ。
その目を、黙って見返した。
石工の目が、こっちから橋の上へ動いた。
初めての雨の日、二人ぶんの笑い声がはじけた橋板だ。
いまは、そこから坊さんの顔がのぞいている。
石工の喉が、一度大きく動いた。
あの日きつく締まった腕は、もう膝を抱えていない。
石工は長く息を吐いて、袋を掴んで立ち上がった。
長いこと座っていた者の立ち方で、膝が鳴って体が傾く。
とっさに、橋の根もとの石へ手をついた。
石は、揺らぎもしない。
石工は手をついたまま、頭の上を見上げた。
こっちが初めて駆け込んだ大雨の日から、染みひとつ浮かせなかった石の裏を。
「この橋も、わしが積んだったんや」
掠れていたが、今度は橋の上まで届く声だった。
こっちも見上げた。
隙間なく噛み合った石は、どれも短い面だけをこちらへ向けている。
「……あんた、口がきけたのか」
欄干の上の問いには答えずに、石工は自分の足で土手を上がっていく。
坊さんが慌てて橋を戻った。
「おい、どこへ行く」
「寺や」
振り返りもしない。
追いついた坊さんの下駄と石工の草履の音が、並んで土手を遠ざかっていく。
やがて、川の音だけになった。
こっちは、座ったままでいた。
隣の石は、真ん中が浅く窪んでいる。
こっちの石は、平らなままだ。
そのどちらの石も、乾いていた。
【今日の一物 石垣】
石垣の石は、表に見えている面より、奥へ差しこまれた長さのほうがずっと長い。
見えないほうが、石垣を立たせている。




