第5話 理由と青い花
声が響く。もう取り返しは付かない。
耳をぴくぴくと動かし、少し間を開けて。お婆さんが口を開く。
「今……なんて?」
「つき、だよ」
「……つき」
その声は、震えていた。……涙声のようだった。
「? なんで、涙声なん――」
僕が言いきらぬうちに、体に衝撃が走る。誰かに背負われたのだ。
顔を覗く。
「ヴァル……さん」
声は帰ってこない。
僕を背負っているというのに、ヴァルは驚異的なスピードで走っている。後ろを見るも、お婆さんの姿は……
「え」
目を見開く。視界に入った空が……真っ白に染まっていた。
光ではない。太陽のように、目を刺す感覚はない。ただ、絵の具で塗りつぶしたかのように……真っ白。急ぎ時計を見ると、9時。
どうやらこれが、夜空らしい。
——脳はその新概念を理解することを拒み、知覚することができなくなる
パンク寸前の頭に浮かんだのは……ヴァルの言葉だ。そうか、これが……この空が、知覚できないということなのか……!
ヴァルがようやく止まる。一軒の廃墟の前で。ヴァルは僕を下ろすと、半分崩れた木造の家に黙って入っていった。
僕も続くと、感じる埃っぽさ。ごほごほとむせ込む。そんな僕を冷たく見下ろすヴァルは、ようやく口を開く。
「なぜ、空の話を?」
「なんで……こそこそとしないといけないんですか? 僕は、何も悪いことをしていないのに」
「それは――」「目があることで化け物だと思われるからですか」
「……」
「気を使って、隠して……そんなのは嫌なんです。もう二度と。だから話しました」
パチンッ。
頬に走った痛み。ヴァルがビンタしたのだ。
「……死んでもですか」
その言葉が、ズシリと圧し掛かる。
「三、あなたは何も悪いことをしていないと言っていましたが、この世界では……あなたは悪なのです」
「なんでだよ……」
「勘のいいあなたなら気づいているでしょう。この世界には、ある宗教があります。……無向教という宗教です」
ヴァルは杖を握り直し、白い目を伏せた。
「無向教は嫌います。神の住まう空を否定することを」
廃墟の天井から砂がぱらぱらと落ちる。
「自己の後悔と生き残ること。どちらを取るべきでしょうか?」
「……」
「まぁ、別の世界に行くという選択もありますが」
「それは……嫌です」
「ならば、従ってください」
「……」
「今日から一週間、この廃墟から出ることを禁じます」
ヴァルはそう言うと、廃墟の外に出た。
「食べ物を取ってきます。……そこで、よく考えることです」
そう言い残して。
「死んでも……か」
床に横になりながら、響く声。
このゴーグルも、僕を縛るルールも、僕の身を……案じていたというわけだ。
そういえば……僕が目のない世界に行くと言った時も、嫌そうにしていた気がするな。
……変わり方が、分からないよ。
頬の痛みは残り続けている。まるで、被害者ぶるなと言うように。
「……」
謝ろう。ヴァルが帰ったその時に。何かしよう。謝意を示すために。
しんとした廃墟の中を見回す。
目についたのは、埃をかぶり白く染まる床に空いている一つの穴。ぎしぎし音を立て近づき、穴をのぞき込む。
そこには、青い花が咲いていた。
穴の底。光も届かないはずの場所で、ひっそりと。風もないのに、かすかに揺れているように見えた。
僕はしゃがみ込む。指先が震えている。何故か、触れたら……壊してしまいそうで。
手が伸びる。ゆっくりと、丁寧に。
もう、傷つけないように。
その時――
「三」
背後から、ヴァルの声。
「パンです。食べますよ」
振り返り、決めていた第一声。
「ごめんなさい」
「……食べますよ」
さっきよりも柔らかくなった声色が、一定のリズムを刻んで床を叩く杖が、まるで背中をさするような優しさを帯びていた。
ヴァルは袋を差し出す。そっと、優しく。
僕はヴァルにバレないよう、嗚咽を抑えながら頷いた。




