第3話 ゴーグル、目のない人間。
「【目のない世界】……ですか」
「はい」
「他の世界じゃ……いや」
ヴァルは言いかけた言葉を飲み込んで、ニコリと笑った。
「……参りましょうか」
ヴァルが後ろを向き、何もない空間に手を這わせる。まるで何かを探るように。
そしてヴァルの腹くらいの高さ、ある地点でその手が止まる。ヴァルは、そこに確かに何かがあるかのように空をつかんだ。
その瞬間、古びた木製のドアが現れた。
木目が乾いてひび割れ、取っ手の金属がくすんでいる。まるで何十年も放置されていたかのような、時間の匂いをまとっていた。
ヴァルはドアノブを回し、ゆっくりと引いた。ギィッ、と軋む音が静かな夜に響く。ドアの隙間から白い光が溢れ出す。
「っ!」
視界と同じで、頭の中は真っ白。心のどこかで疑う心があったからかもしれない。そして、遅れてくる高揚感。それと……恐怖。
ヴァルが振り返り、目を細める僕に手を差し出す。不気味な笑顔で。
「さぁ、行きましょう」
僕はそれを掴まない。
「大丈夫です。僕は……老人じゃない」
「そうですか」
ヴァルが向き直りドアの向こう、光の中へと消えていく。同時に、光の中から風が吹き込む。
バララッと勢いよく何かがめくれる音。振り向くと、そこにあるのは夢ノート。風によってはためいている。
つい、口角が上がってしまう。
「叶えに行こう」
部屋に向かってそう呟くと、僕は夢ノートとシャーペンを持って光の中へと進んでいった。
ふと、歩みを止める。周りを見回すも、ヴァルの姿はない。
一面真っ白だ。
温かい風が肌を撫で、青々とした香りを運んでくる。だけど、辺りは白一色。
……これが、目のない世界なのか?
もう一度見まわす。真っ白の中、僕だけ一人。
………………その時。
ガチャリ。背後で音がした。
「何してるんですか」
振り返ると、白の中にヴァルが立っている。そして、ヴァルの後ろには開けっ放しのドア。
「え……ここが目のない世界じゃ」
「ここは経由地です。【目のない世界】は――」
ヴァルが後ろを指さす。ドアの向こうは、僕の家ではなかった。
止まっていた歩みはまた動き出した。一歩、また一歩と踏みしめて。
ドアをくぐり抜けると、ヴァルは言った。
「【目のない世界】へ、ようこそ」
見回すとどうやら、僕は広場に立っている。四方を家々に囲まれた、丸い広場だ。
その家々は古い木造で、瓦屋根が連なっている。軒先に風もなく、ただぶら下がっている風鈴。
そして、広場の中心に一本の途方もなく背が高い木が立っていて、紅葉が夕日に照らされている。
しばらく、その木を見ていた。静かだった。人の気配がない。足音も、話し声も、何もない。
ヴァルが杖で石畳を突く。コツン。その音が、妙に大きく響く。
「そろそろ、行きましょうか」
「……その前に、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「この世界で、具体的に何をするんですか」
「月が見えるまで……生活をするだけです」
「生活、ですか」
何というかもっと……大冒険をするものだと思っていた。
「はい。生活、です。なので、三には働いてもらいます」
「!?」
は、働く? 異世界まで来て? この僕が?
ふざけっ……思考を遮るように遠くで鐘が鳴った。低く、深く、腹の底まで揺さぶるような音。
音が、立ち尽くす僕を通り抜けて。抗議の言葉が、全部どこかへ飛んだ。
「今の音は位鐘と言ってですね、町の大体の位置を知らせる役割を持っていて――」
ヴァルの解説も耳に届かなくなっていく。
……いや! だめだだめだ!
思考を止めるな!
「働くって、どういうことですか」
解説が止まる。僕は畳みかける。
「僕が想像してたのは、もっと……」
「申し訳ないですが……これが、平行世界の現実です」
「あの……ちょっと、一人で町を回って来てもいいですか」
手のひらが強く握りすぎたせいで、痛い。僕の思いを感じ取ったのか、ヴァルは懐をまさぐる。
「三、これを」
目の前に出されたのは――
「水中ゴーグル?」
「はい。これをつけているのなら、私が家を探すまでの間、町を回ってもいいですよ」
「……なんで、ゴーグル?」
「私たちは……《《化け物》》ですから」
「化け物……? どういうことですか」
「……とにかく、町を回るのならゴーグルを外さないでください。絶対にですよ」
言いたいことはまだあったが、ゴーグルをつける。視界が暗くなり、目に少しの圧迫感。
「8時ごろ、この広場に戻ってきてください」
ヴァルがまた懐から時計を出し僕に放る。落としそうになりながら受け取る。
「……それと、空の話は誰にもしないように」
そう言ってヴァルは駆けた。
手元を見る。それは、古びた懐中時計。蓋を開けると、針が静かに動いている。
時計が五時二分を指す。後、約三時間。
僕はすぐに歩き出した。ヴァルとは違う方向へ。
一人で住宅街を歩いていた。空は、最後の光を振り絞るように赤く染まっている。時刻は六時近く。
静かだった。まだ明るいというのに、どの家も息をひそめているようだ。僕の足音だけが、静寂を破るようにやけに大きく響く。
――化け物ですから
不意にあの言葉がよみがえる。未だに意味が分からない。あの言葉の真意は何なのだろう……
ふと、一軒の家の前で足を止めた。
和風の古い家。縁側に、一人のお婆さんが座っているのが見える。
薄い藍色の着物を着て、白髪を後ろでゆるく結い、皺の刻まれた顔を……上に向けている。
その顔に目はない。目があるべき場所が、ただ、なめらかだった。
怖いとか、気持ち悪いとか、そういうのとは少し違う。強烈な違和感。
強烈な違和感が僕の中に立ち込めた。
僕が足を止めた理由は、それだけではない。
お婆さんは上を……《《空を見ているようだった》》。
……目のない顔で。
あとがき小ネタ。
三の好きな食べ物はせいろそば。




