第2話 死のない世界
何も言えぬ僕に、ヴァルはまた帽子を深くかぶって続ける。
「ですから、あなたなのです。【完璧な世界】を見て、その情景を私に伝えられる、あなたなのです」
ヴァルが深々と頭を下げる。
「お願いします。私の旅に付いて来てくれませんか。私に……【完璧な世界】を見せて欲しいのです」
「……さっき、言いましたよね。『”つき”がない世界』って」
僕の言葉で、ようやくヴァルが顔を上げる。
「はい」
「そんな世界が無数にあるとも言いましたよね」
「……はい」
話の掴めてなさそうなヴァルを真っ直ぐに見つめながら、思考がぐるぐる回る。
”ない世界”って言葉の意味も、まだ完全には掴めていない。けれど、思考は加速する。僕の願望から、どんどんあの言葉へと。
「……なら」
声が震える。部屋が異様に静かだ。僕の浅い呼吸音だけが、うるさく響いている。なら、その無数の中に――
「”死”がない世界も……ありますか」
ヴァルは短く息を吸い、静かに答えた。
「はい、あります」
後ろに倒れていた僕は、勢いよく立ち上がる。
「じゃ、じゃあ――」「けれど、平行世界に同じ人は居ませんよ」
その被せられた言葉は、胸の奥を鋭く刺す。
「もちろん、似た人はいます。けれどそれは……別人なのです」
「……そうですか」
戻ってくる雑音と、また始まった沈黙。
そして気づく。いつの間にか、ヴァルの話を信じていることに。”つき”、平行世界に完璧な世界……全部、現実離れした話。
なら何故、信じているのだろう? 何故、警察に電話を掛けない?
いや、そんなもの――
「行ったら戻れないとか、ないですよね」
「はい、すべて終われば帰っていただいて構いません」
今度は、僕が一歩踏み出す。
「行きます。【完璧な世界】に」
――確かめた後で、いいだろう。
「……本当に、了承してくれるとは」
ヴァルの声から、驚きが滲んでいた。
「ダメ元、だったんですか?」
「急に家の中に現れた人間と、旅に行こうと言われて了承する人はいないでしょう」
確かにそうだ。でもこんな異常な人に、常識を説かれるとは……
ヴァルが言葉を継ぐ。
「なぜ、了承してくれたのですか?」
僕は少し部屋を見回して、答える。
「……未練ないから、ですよ」
ヴァルは僕の答えに一瞬固まり、口を開けて、何も言わず閉じる。それを繰り返した。
少しして、ヴァルが咳払いをする。空気をリセットするように。
「では、付いて来てくれるということで……改めて。私はヴァル」
「あ、僕は……三、です」
「三さん……」
ヴァルはそう口にして、違和感あるその呼び方に少し首を傾げる。
「……三。旅の前に一つ、言い忘れていたことがあります」
「なんですか」
ヴァルの顔は穏やかだった。次の言葉を待つ。
「今から行く世界は【完璧な世界】ではありません」
「……?」
理解が追いつかない。さっきまでの会話が、頭の中で音を立てて崩れていく。今、完璧な世界に行こうと話をしたばかりじゃないか。
黙り込む僕にヴァルが言葉を付け足す。
「今のあなたの目ではまだ、叶わないのです」
ヴァルの補足あっても、理解できない。ヴァルの口元が、またもにやりと笑う。
「……月について説明、理解できましたか?」
「え、はい」
「では今、目の前に月があったとして、それが月であるとわかるでしょうか?」
「……分かる、と思いますけど」
ヴァルが開いた口を閉じる。欲しかった返しではなかったらしい。
「そうですね。例えが良くなかった」
ヴァルは弱々しくそう言った。
考え込んでいたヴァルはようやく口を開く。
「この世界には月がありません。つまり新概念であり、新たな情報。それを見るというのは、非常に脳への負担がかかる」
ヴァルが杖を僕の眼前に突き出す。
「そうすると脳はその新概念を理解することを拒み、知覚することができなくなるのです」
「それなら……どうするんですか?」
「別の世界を経由します。そこで月を理解してから——完璧な世界へ」
「別の世界を経由すれば、見えると?」
「何かが無くその代わり月がある世界に行くのです。負担を軽くできるでしょう?」
「……分かりました。で、その別の世界って?」
「三が決めていいですよ」
「本当ですか?」
「はい。手伝ってくれるのですから。ただ、時間がないので手早く決めてください」
「じゃあ、言葉がない世界……いや――」
僕は自分の口角が上がっていることに気づいた。平行世界を想像することに興奮していた。夢中だった。
「目のない世界がいいです」
そう、ヴァルの険しい顔にも気づかないほどに。
あとがき小ネタ。
三の嫌いな食べ物はゴーヤ、レバー、セロリ。




