第1話 欠けている
夜半、帰り道。僕は歩きながら、空を見上げていた。
星々は町の光に遮られ、空がぽっかりと穴が空いたように真っ暗。
前に向き直り、歩を進めると見えてきた商店街。シャッターはもう全部閉まっている。遠くから聞こえる鈴虫の鳴き声に、猫がどこかで被せ鳴く。
そうした光景や音も、進むごとに消えていく。ただ、自分の足音だけはずっとついてきた。
温かい涙が、頬を伝う。……あの日から、夜はずっとこうだ。
家のドアを開ける。ちゃんとドアの鍵を閉め、下を向くと……なんと靴の少ないことか。
「……」
家の奥、暗闇へと歩いていく。部屋の電気をつけ、窓際の机へ。
机の上にあるノートを手に取る。昨日買ったばかりの、真っ新なノート。表紙に自分で書いたタイトル——夢ノート。
まぁ、そのまんまだ。正直、馬鹿らしい。でも、今の僕には……これが必要だ。
椅子に座らず前かがみになって、ノートを開く。昨日書いた二行の文が並んでいる。
・世界を回る旅をする
・世界一美味しい食べ物を食べる
思わず口角が上がる。あきれるほどにくだらない。けれど僕はシャーペンの芯を出して、三行目に思いを馳せる。
後ろから聞こえるガチャリという物音すら気にせずに。
シャーペンの芯をしまう。そこに書かれた、三行目の夢を眺める。
少しは、現実的な夢を作れたな。それに、魅力的だ。いや、なんなら――
「……今、叶えに行こうか」
気づけば漏れ出ていた言葉。本心だった。だけども足は、動かない。
静まり返った部屋の中。……ほんの一週間前とは大違い。ため息を深くつき、ペンを放って振り返る。
そこには、見知らぬ女性が立っていた。
奇妙な帽子を被った女性だ。目まで隠れるつばの広い帽子。黒い外套。右手には銀色の杖。
そんな女性が帽子の縁をゆっくりと指でなぞりながら、こちらを向いている。
「だ、誰!?」
「こんばんは。私の名前はヴァル」
その女性……ヴァルの声は落ち着いていて、妙に澄んでいた。一歩後ずさろうとするも、足が机に当たり逃げ道が塞がる。
「痛っ!」
「……驚かせてしまったようで申し訳ない。ですが――」
僕は何とか逃げるため、上擦る声抑え言葉を紡ぐ。
「どこから入ったんだ! も、目的はなんだ!」
ヴァルが一歩こちらに近づく。僕は腰が抜け、後ろに倒れる。
「話を――」「ちょっと待って、ちょっと待って! 近、近づいてくるなぁ!」
ヴァルはため息をつき、少し考えこんだ後、杖で地面を突いた。
ドン! という音が……いや、それ以上にヴァルの強い気迫が僕を黙らせる。
「時間が、ないのです。……話をさせてもらっても?」
「……」
ヴァルのかろうじて見える口元がニコリと頬笑む。そしてヴァルは、天井をビシリと指さした。
「あなたはこの夜空を、どう思いますか?」
「ど、どう思いますか?」
「はい」
意図が読めない質問。ヴァルは微笑みを崩さない。
「……く、暗い……とか、ですかね?」
我ながら間の抜けた答え。だが、ヴァルはにんまり笑顔で頷く。
「そうです。あるものが欠けている故、暗いのです」
「……何が、足りないんですか?」
ヴァルは杖を掴む指を、波のように順繰りに動かして、ゆっくりと言葉を吐く。
「それは……月です」
「つき……?」
なんだそれ? 彼女が考えた何かだろうか。
「……まぁ、分からないですよね。この世界にはないのだから」
「?」
まるで、自分が異世界から来たかのような物言い。
……狂ってるのか? こいつは。
ありえないだろう、そんな……ファンタジーじゃあるまいし。
視線を逸らすと、ちゃんと鍵が閉まっている窓。戻すと、不審者。
「……」
「説明しましょう。月について。そして、この世界について」
興奮しているのか、ヴァルの声色が高い。未だ震える腕。それを抑え、今彼女が最も欲しているであろう言葉を吐く。
「是非、お願いします」
言わせられた言葉。けれど、本心だった。
ヴァルはそこから、つきというものの説明を始めた。
それは、この空っぽな夜空に、他の星よりも大きく煌々《こうこう》と光る星。だが自らでは光らず、他の光を借り、美しく、柔らかく光を帯びる。……だそうだ。
説明が終わると僕は息を静かに吐き、ヴァルに向き直った。
「なんで……ないんですか」
「それは、この世界が【月がない世界】だからです」
「……」
「平行世界ってやつです」
いまいち掴めていないことが伝わったのか、ヴァルはそう補足した。
「つまりSFの設定みたいに、別の世界が存在するってこと……ですか?」
ヴァルは頷く。
「無数に。そしてその無数の中に――欠け一つない【完璧な世界】があります」
いつの間にか、落ち着いているヴァルの声色。その分、言葉に重みがある気がした。
「それこそが、私が目指す世界なのです」
「……ちょっと待ってください」
僕は手を上げた。
「ちょっと、整理させて……ください。つまり、世界がいっぱいあって、僕の世界は”つき”ってやつがない世界で、”つき”がある完璧な世界? を目指してると」
「ええ、正に」
「それが事実だったとしても、僕には何の関係もない話では?」
「……」
ずっと感じていた違和感。なぜ僕なのか。
なぜ、僕の前に現れたのか。
ヴァルはゆっくりと、帽子のつばに手をかけ少し上げる。
微笑みの上、帽子の下から現れた目。その目は、まるで霧に包まれた湖のように白かった。
「私の目ではもう、叶わない」




