第97話 姉と秘書
貧民街での炊き出しの話は、ひとまず脇に置く。
あれは容子の暴走――もとい、発案による案件や。
今ここで語るべきは、その裏側。
正確に言えば。
宥子とアンナの、静かな戦場の話である。
⸻
夜。
サイエスの拠点屋敷。
容子は広間で寝転び、戦利品の菓子を齧りながら本を読んでいる。
笑い声も上げている。
平和そのもの。
その奥の執務室では、空気が違った。
「……収支報告は以上です」
アンナが整然と書類を並べる。
机の向こう側、宥子は腕を組み、静かに目を落としていた。
「想定より支出は抑えられています。ただし」
「ただし?」
「容子様が次の“思いつき”を発動された場合、変動幅が読めません」
淡々とした声。
だが、そこに滲むのは長年の経験からくる警戒や。
宥子は小さく笑った。
「せやな。あの子は爆弾や」
「時限式で、しかも自覚がありません」
「最悪やな」
互いにため息。
しかし、その表情はどこか柔らかい。
⸻
「ですが」
アンナが指先で一枚の紙を示す。
「結果は出しています」
料理の販売実績。
素材流通の安定化。
周囲商会の反応。
静かに広がる評判。
数字は嘘をつかない。
宥子は目を細めた。
「あの子は火付け役や。場を動かす才能はある」
「ええ。ただし、火の後始末を考えません」
「そこを補うんが私らや」
アンナは頷いた。
彼女の役割は制御。
拡大する構想を、現実に落とす。
無駄を削り、危険を回避し、利益へ変える。
「今回の件で、外部からの視線が増えました」
「バルド達か」
「ええ。それだけではありません。貴族層も動き始めています」
名は出さない。
だが水面下で探りが入っている。
料理。
化粧品。
異質な技術。
興味を持たれないはずがない。
「繋がりは選ぶ」
宥子は断言する。
「対価払わん奴、態度改めん奴は切る」
「同意します」
アンナの目は冷静や。
優しさより秩序。
感情より合理。
だが――。
「……それでも、容子様は助けようとします」
「せやろな」
即答やった。
「損得だけでは動かん」
「そこが強みであり、弱点です」
「だからこそ、私らがいる」
⸻
蝋燭の灯りが揺れる。
静かな部屋。
外からは容子の笑い声。
「平和やな」
「嵐の前とも言えます」
「言うなや」
宥子は書類を閉じる。
「アンナ、お前はどう見る」
「何をですか」
「あの子の未来や」
少しの沈黙。
アンナは窓の外を見た。
「大きくなります」
「抽象的やな」
「規模が、です」
商売の規模。
影響力。
敵も味方も増える。
「抑え込みますか?」
「無理や」
即答。
「あれは止めても止まらん。せやから、転ばんように道整える」
アンナは静かに微笑んだ。
「では私は、柵を作ります」
「頼むわ」
信頼。
それは長い時間で培われたもの。
⸻
「ところで」
アンナがふと思い出したように言う。
「容子様、次は屋台通りを作ると呟いていました」
宥子は額を押さえる。
「ほら来た」
「止めますか?」
「止める」
「完全に?」
「半分」
アンナの眉が僅かに動く。
「半分ですか」
「暴走は困る。でも勢いは必要や」
完全に抑えれば、容子らしさが消える。
だが放置すれば爆発。
だから半分。
「利益出る形に整えろ」
「承知しました」
⸻
扉の向こうで、突然大声が上がる。
「宥子ー! この菓子めっちゃ美味いで!」
「静かにせぇ!」
即座に怒鳴る。
アンナが小さく笑った。
「仲が良いですね」
「腐れ縁や」
けれど、その声には温度があった。
⸻
会議は続く。
市場動向。
取引相手の選別。
資金配分。
細かく、冷静に、淡々と。
外では無邪気な笑い。
内では計算と布石。
光と影。
前線と後方。
容子が火を点ける。
宥子が方向を決める。
アンナが形にする。
三者三様。
だが歯車は噛み合っている。
蝋燭の火が小さく揺れる。
「アンナ」
「はい」
「これからも頼むで」
「勿論です」
短い言葉。
それで十分や。
外からまた笑い声が響く。
嵐はまだ来ない。
だが、来た時の備えは整えておく。
それが宥子とアンナの仕事。
火を消さず、燃やし過ぎず。
その均衡を保つための、静かな戦いは、今夜も続いていた。




