第52話 新生活契約
帰還二日目の朝。
キッチンで味噌汁を温めながら、私は深く息を吐いた。
出汁の匂い。炊き立ての白米。ここは紛れもなく現実世界。
ダイニングにはアンナ――いや、まだ正式ではないが、これから琴陵家の一員になる予定のアンナ――が、緊張した面持ちで座っていた。
その向かいで宥子が卵焼きを頬張っている。
「なあマーちゃん、アンナ全然喋らんけど大丈夫なん?」
私は手を止めた。
……あ。
そうだった。
「ごめん忘れてた!!」
私の叫びにアンナがびくりと肩を震わせる。
「言語最適化スキルや。こっちの世界とサイエスじゃ言語体系が微妙に違う」
宥子が額に手を当てる。
「ウッカリにも程があるやろ」
「今やる!」
私は手をかざした。
空中にステータスウィンドウが浮かび上がる。アンナの目が見開かれた。
「これが……スキル画面」
「説明は後や。まず取得」
私はPTを操作し、アンナのスキル欄に『言語最適化』を付与する。
淡い光がアンナを包んだ。
数秒後。
「……あ」
アンナが顔を上げる。
「聞こえます。意味が、自然に分かります」
ほっと胸を撫で下ろす。
「ついでに容子も念のため上げとけ」
「お前が忘れとったんやろ!」
それでも一応、私も取得済みを確認した。
これで意思疎通は完璧だ。
⸻
朝食を囲みながら、宥子が急に真顔になった。
「なあアンナ」
「はい」
「これから先、異世界とこっち、二重生活になる」
その声色はいつもの軽さがない。
「王都にも戻る。サイエスにも戻る。危険もある」
アンナは黙って聞いている。
「それでも付いてくるか?」
私は箸を止めた。
アンナは一瞬だけ目を伏せ、それからはっきりと言った。
「私は、宥子様と容子様に命を救われました。王都でも、セブールでも。あの場に残れば、私は利用されるだけの存在だったでしょう」
まっすぐな瞳。
「どうか、お側に」
沈黙。
そして宥子がゆっくりと頷いた。
「なら正式にやる」
「やるって何を?」
私が眉をひそめると、宥子は淡々と言った。
「契約」
空気が変わる。
アンナが息を呑む。
ティム――従魔や配下との魔法契約。
本来は魔物に使う術式だが、双方同意なら人にも可能。
「軽いもんやないで」
私は警告する。
「分かっています」
アンナは迷わない。
宥子が立ち上がり、アンナの前に立つ。
「条件は三つ」
指を一本立てる。
「裏切らない」
二本目。
「命令は絶対じゃない。けど、危険時は従う」
三本目。
「自分を粗末にしない」
アンナの目が潤んだ。
「……はい」
宥子が手を差し出す。
アンナも重ねる。
足元に魔法陣が展開した。
淡い金色の光。
契約文が空中に走る。
私は息を詰めて見守った。
やがて光がアンナの胸元へ収束し、小さな紋章が刻まれる。すぐに消えたが、確かに繋がった。
「完了」
宥子が息を吐く。
アンナがゆっくりと目を開けた。
「温かい……繋がっているのが分かります」
「首輪は付けへんから安心し」
私が茶化すと、アンナが小さく笑った。
これでアンナは正式に宥子の契約者であり、琴陵家の一員だ。
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その後、改めて現実世界の生活説明。
スマホ、銀行口座、買い物。
だが今日は少し空気が違う。
アンナの動きが迷いなくなっていた。
エスカレーターも躊躇なく乗る。
店員との会話も自然。
言語最適化スキルの恩恵だ。
「すごいですね、この世界は」
ショッピングモールを見回すアンナ。
「魔道具だらけやろ」
宥子が笑う。
「ですが、魔力を感じません」
「科学や」
アンナはその言葉を噛み締めるように繰り返した。
「科学……」
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帰宅後。
買った荷物を広げる。
アンナは新しいスマホを両手で持ち、恐る恐る電源を入れた。
「光った……」
「それ爆発せえへんから安心し」
宥子が笑う。
私はソファに座り、二人を眺めた。
契約も済んだ。
言語も問題ない。
これで準備は整った。
異世界と現実。
二つの世界を跨ぐ琴陵家。
アンナがふと真面目な顔で言う。
「宥子様」
「ん?」
「私は、必ずお役に立ちます」
宥子は少しだけ照れたように視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
「役に立つとか立たんとかちゃう。家族や」
アンナが目を見開く。
私はコーラを開けた。
炭酸の弾ける音。
「ほら、新生活や。騒がしくなるで」
サクラが鳴き、楽白ちゃんがくるりと回る。
こうして。
契約とスキル取得を経て、アンナは正式に琴陵家の一員となった。
波乱は確実。
だがその前に。
私はソファに沈み込みながら思う。
――この騒がしさ、嫌いやない。




