第50話 王都決意
怒りというものは、静かに燃える時ほど厄介だ。
私は商業ギルドへ向かう石畳の道を歩きながら、胸の奥でくすぶる熱をどうにか抑え込もうとしていた。けれど、抑えようとすればするほど、逆に輪郭がはっきりしていく。
ダリエラの失態。
あれは単なる判断ミスではない。報告の遅れ、情報の隠蔽未遂、そして責任の擦り付け。ゴブリン一万の異常発生を「想定外」の一言で流し、挙げ句の果てに私達に口裏合わせのような提案までしてきた。
「丸く収めましょう」?
誰のために?
セブールの街のため? それとも自分の保身のため?
私は深く息を吐いた。
ここに居続ければ、いずれ私達は都合のいい“功労者”か“暴走した冒険者”のどちらかに仕立て上げられる。事実は、立場の強い者が塗り替える。
ならば。
塗り替えられる前に、こちらから動くしかない。
⸻
商業ギルドの扉を押し開けると、いつもの落ち着いた空気が迎えてくれた。帳簿の匂い、インクの香り、静かなざわめき。
カウンターの奥で書類を整理していたアンナが顔を上げる。
「宥子様。いらっしゃいませ」
その微笑みは、今日も変わらない。
私は一瞬、言葉を選びかけて――やめた。
「王都に行くわ」
単刀直入に告げる。
アンナの手が止まった。
「……え?」
驚きは当然だろう。昨日までそんな素振りは見せていなかったのだから。
「セブールを出る。ダリエラの件は、王都に直接報告する」
はっきりと言い切る。
アンナの表情がみるみる強張った。
「そ、それは……正式な告発、という形になりますか?」
「事実を報告するだけよ。判断は上がする」
だが、その“上”に届かなければ意味がない。
「セブール内で揉み消される可能性が高い。なら、最初から王都に持ち込む」
アンナは視線を落とし、何かを考え込む。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。
「……少し、お時間をいただけますか?」
「時間?」
「一時間だけ。ここでお待ちください」
有無を言わせぬ決意が、その瞳にはあった。
私は黙って頷いた。
⸻
一時間後。
戻ってきたアンナの手には、小さな革鞄があった。
そして、その顔はどこか吹っ切れている。
「退職してきました」
「……は?」
間の抜けた声が出たのは仕方ない。
「本日付で商業ギルドを辞めました」
「ちょっと待って。意味が分からない」
「宥子様について行きます」
真っ直ぐな視線。
冗談でも勢いでもない。
私は思わず額に手を当てた。
「どうしてそうなるのよ」
「セブールの空気はおかしいです。冒険者ギルドも、商業ギルドも、裏で何かが動いている。私には分かります」
静かな声。
「王都に直接報告できる方の側にいたい。それが、私の選択です」
……困った。
責任重大だ。
「軽率よ」
「軽率ではありません。考えました」
即答。
覚悟は固いらしい。
「……容子の了承が得られたらね」
とりあえず条件を出す。
「容子様ですね」
「ええ。彼女も当事者よ。勝手に人数を増やせない」
私は念話を飛ばした。
⸻
――容子、今いい?
<おぉ~ひろこぉ~、飲んどるでぇ~>
嫌な予感しかしない。
<エールがなぁ~最高なんやぁ~>
……酔っている。
「真面目な話よ。アンナが――」
<ガルガがなぁ~、指輪をなぁ~、火ぃボーンってぇ~>
何を言っているのか分からない。
「容子、聞いてる?」
<商談は勢いやぁ~、ひろこも飲めぇ~>
ブツン。
一方的に切れた。
私はしばらくその場で固まった。
「……は?」
こめかみがひくりと痙攣する。
「酔っ払い……!」
怒りが別方向に噴き出した。
ゴブリン一万より腹が立つ。
深呼吸。
「今のは無効よ」
「……酔っておられるのですか?」
アンナが恐る恐る聞く。
「完全に」
私は額を押さえた。
「正気の時に改めて確認する。でも、私は王都に行く」
それは揺らがない。
⸻
「準備は済ませています」
アンナは小さな鞄を持ち上げる。
「必要最低限です。身辺整理も終えました」
早すぎる。
行動力が怖い。
「宿は?」
「宥子様と同じ宿を取ります」
「……安全面、ね?」
「はい」
理屈は正しい。だが、頭が痛い。
私は小さくため息を吐いた。
「分かった。とりあえず宿に戻るわ」
⸻
夕暮れのセブールは、何も知らぬ顔で穏やかだった。
石畳を並んで歩きながら、私は改めて自分の決断を噛み締める。
王都へ行けば、波紋は広がる。
ダリエラの立場も揺らぐだろう。
敵も増える。
それでも。
「逃げるわけじゃない」
私は呟く。
事実を、事実として届ける。それだけだ。
隣を歩くアンナは、少し緊張しながらも、どこか安堵しているように見えた。
「本当に、よろしいのですか?」
「後悔するかもしれないわよ」
「しません」
即答。
宿の灯りが見えてきた。
あの中には、酔っ払っているであろう容子がいる。
私は目を細めた。
「まずは説教ね」
「……え?」
「何でもないわ」
王都行きは決まった。
仲間は増えた。
問題も増えた。
怒りは消えていない。
けれど私は歩みを止めない。
セブールを出る日は、もうすぐそこだ。
そして――王都で、すべてを白日の下に晒す。




