第42話 起業地獄
ディゼニーから帰宅した翌朝。
私はベッドの上で天井を見つめながら、人生の分岐点というものについて真剣に考えていた。
枕元には夢と魔法の国で買った限定カチューシャ。
テーブルの上には山のような申請書類。
――なぜこうなった。
昨日まで私は、限定新刊落選に傷ついたただのオタクだったはずだ。
それが今。
目の前のファイルには堂々と記されている。
化粧品会社Crema設立計画書(改訂第三版)
第三版って何。
紅茶を優雅に啜る宥子が、涼しい顔でページをめくる。
「資本金の配分、もう一度見直すよ」
「待って。私まだ昨日のパレードの余韻に浸ってたい」
「浸透は肌だけにしなさい」
うまいこと言った顔が腹立つ。
◆
発端はディゼニーのレストランだった。
夜のショーを見終わり、テンションが最高潮に達していた私は、チュロスを握りしめたまま言ったのだ。
「サイエスの基礎化粧品、地球で売れたら天下取れるよね?」
あの時は本当に、軽い冗談のつもりだった。
だが宥子は違った。
「取れる」
即答だった。
サイエスで完成させた処方。
魔法発想から生まれた“浸透補助触媒”。
受付嬢アイリーンを一夜で別人級に変えた実績。
理論も結果もある。
足りないのは――地球の法規制対応と資金だけ。
「法人作る」
その一言で、夢は現実に叩き落とされた。
◆
社名は驚くほどすんなり決まった。
Crema
クリーム。
柔らかく、優しく、包み込む響き。
「海外展開も見据える」
「発音しやすい」
「ロゴが映える」
経営者の顔をした宥子が怖い。
私は弱々しく手を挙げる。
「社名に“異界”とか入れなくて良いの?」
「捕まるわ」
ですよね。
◆
事業コンセプト会議。
ホワイトボードに書き殴る。
・再生
・高浸透
・低刺激
・エイジングケア
・科学×発想
「“魔法”は?」
「封印」
結果、
“独自抽出技術による高分子浸透処方”
という、それっぽい表現になった。
ズルい。だが正しい。
◆
製品第一弾は三本柱。
ブーストローション
モイストセラム
リペアクリーム
ライン使い前提。
ローションで道を作り、
セラムで栄養を入れ、
クリームで閉じ込める。
サイエスの再生触媒を地球素材に置き換え、分子サイズを調整。
「量産出来る?」
「出来る。ただしコストは高い」
見積書を見て私は震えた。
「試験費用だけで軽自動車買える」
「安全性は最優先」
夢も魔法も厚労省には通じない。
◆
法人登記の日。
法務局のカウンターに書類を差し出す手が震える。
会社名――
株式会社Crema
代表取締役――私。
「やっぱり社長交代しない?」
「却下」
受理のスタンプが押された瞬間、
私は静かに終わった。
「後戻り出来ない……」
「始まったの」
◆
オフィス兼ラボを借りた。
白い壁。
簡易クリーンブース。
試作ビーカー。
机の上には透明な試作品。
私は一本手に取る。
光を受けて淡く輝く液体。
手の甲に一滴。
伸ばす。
すっと馴染む。
内部から満ちる感覚。
「……これは勝てる」
「まだ売れてない」
現実担当が冷静すぎる。
◆
マーケティング開始。
ブランドイメージは“静かな自信”。
白基調パッケージに細い金ライン。
中央に小さくCrema。
価格帯は高め。
「強気すぎない?」
「価値に見合う」
オンライン限定販売。
SNS広告。
美容インフルエンサーへサンプル発送。
私は胃薬を飲みながらレビューを待つ。
通知音が鳴る。
一件目の注文。
息が止まる。
二件目。
五件。
十件。
百件。
「増えてる!!」
レビュー投稿。
“翌朝のハリが違う”
“毛穴が目立たない”
“敏感肌でも使えた”
私は椅子から転げ落ちた。
「在庫足りる?」
「増産手配済み」
抜かりない。
◆
一ヶ月後。
売上報告書。
黒字。
私は天を仰ぐ。
「夢じゃない?」
「現実」
サイエスで始まった美容革命。
受付嬢の一言から広がった可能性。
それが今、地球でブランドになっている。
◆
だが地獄は終わらない。
税金。
物流。
カスタマー対応。
成分表示チェック。
「社長業つらい」
「だから法人にした」
私は机に突っ伏す。
それでも。
段ボールに並ぶCremaのロゴを見ると、胸が熱くなる。
泡から始まった小さな奇跡。
異界の発想を、地球の理屈で形にした。
悲鳴は上げる。
書類にも追われる。
それでも私は、試作品を手に取り微笑む。
「次は海外展開?」
「まず国内安定」
現実担当は今日も冷静だ。
だが私は知っている。
Cremaはまだ序章。
私達の戦いは、これから本番だ。
美しさを武器に、
再生を理念に、
世界を相手にする日まで。
社長の悲鳴は続く。
けれど――
この地獄、嫌いじゃない。




