第107話 神巡龍授
私は宥子。
異世界と地球を繋ぐのは、転移陣でも魔法陣でもない。
ただの――自宅の鍵だ。
金属の冷たい感触を指先で確かめながら、私はアンナと並んで玄関の前に立つ。異世界側に現れる“地球の玄関扉”は、いつ見ても不思議だ。周囲が石畳でも森でも関係ない。そこだけが、きっちり日本の住宅のドアなのだから。
「開けます」
カチリ、と鍵が回る。
扉を開けば、そこは見慣れた我が家。
畳の匂い。冷蔵庫の低い作動音。窓の外を走る車の気配。
「……帰宅完了ですね」
「転移やなくて、ちゃんと帰宅や」
靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。その何でもない動作が、妙に心を落ち着かせる。
だが、のんびりはしていられない。
今回の目的は明確だ。
姫島で龍の卵を受け取り、金毘羅で錆びた裁ち鋏を浄め、八坂で抜けない日本刀を解放し、伊勢で龍の餌を授かる。
すべて公共交通機関を使って回る。
「卵を持って電車に乗るのですね」
「ケースに入れたら旅行者や」
アンナは既にスマートフォンで時刻表を確認している。新幹線、在来線、フェリー。無駄のない経路。
異世界で商業ギルドと交渉している時と同じ顔だ。
⸻
翌朝。
私達は新幹線に揺られていた。
車窓を流れる冬景色。整然と並ぶ住宅街。遠くに見える工場の煙。
平和だ。
だが私達の目的は、龍だ。
⸻
■ 姫島神社
フェリーを降りた瞬間、潮の香りが広がる。
島は静かで、観光客もまばらだ。
参拝を終え、境内奥へ進むと、空気が変わった。
そこにあった。
丸い卵。
バスケットボールほどの大きさ。
淡い金の紋様が、ゆっくりと脈動している。
私は膝をつき、両手で抱き上げた。
ドクン。
確かな鼓動。
「……生きてる」
「龍です」
アンナの声はいつも通り冷静だが、瞳はわずかに柔らいでいる。
卵を専用ケースへ収めた瞬間、周囲の空気が温かくなった。
歓迎の気配。
守れ、という意思。
フェリーへ戻る道中、卵は何度か小さく震えた。
「神域に近づくほど反応が強まります」
「育つ準備やな」
⸻
次は四国。
石段の前に立った瞬間、私は苦笑した。
「長いな」
⸻
■ 金刀比羅宮
息を整えながら上る。
途中、重い気配を感じた。
古びた箱。
中にあるのは、錆びた裁ち鋏。
赤黒い錆。触れなくても分かる負の蓄積。
「縁を断ちたい願いが、過剰に込められています」
私は鋏を握る。
冷たい。
怒り。嫉妬。絶望。
「もうええ」
静かに祈り、太陽の加護を流す。
じわり、と錆が剥がれる。
黒い靄が空気に溶ける。
現れたのは、澄んだ銀の刃。
軽い。
本来の“整える道具”に戻った。
「奉納はしません」
アンナが確認する。
「せえへん。これは使う」
断ち切るためではない。
絡まった縁を整え、正すために。
布で丁寧に包み、バッグへ収める。
⸻
京都へ。
新幹線の中で、卵の鼓動が強くなる。
⸻
■ 八坂神社
夜の境内。
岩に突き刺さった日本刀。
抜けない、と噂される一振り。
私は柄を握る。
拒絶。
戦乱の記憶。
血の匂い。
「終わっとる」
光を流す。
刀身が震える。
ズ、と音を立てて抜けた。
刃文が美しく浮かび上がる。
怒りは消え、静かな気配だけが残る。
「眠りたかったのですね」
私はゆっくり納刀する。
「これも持ち帰る」
「武器に?」
「守りや」
戦の象徴だった刀は、守護の象徴へ変わる。
奉納はしない。
この刀は、これから守るためにある。
⸻
最後の目的地。
⸻
■ 伊勢神宮
宇治橋を渡った瞬間、卵が大きく震えた。
外宮、内宮と丁寧に参拝する。
額を下げた瞬間、強い光を感じた。
声はない。
だが確かな意思。
掌に、温もり。
小さな包み。
開くと、金色の粒。
「龍の餌」
卵に近づける。
殻が透け、内側の小さな影が動く。
粒が溶け、吸い込まれる。
ぴし。
細い亀裂が走る。
だが、まだ孵らない。
「焦るな、ってことやな」
アンナが頷く。
⸻
帰路。
電車に揺られながら、私はケースに手を置く。
鼓動は穏やかだ。
自宅へ戻り、鍵を回す。
日常の音。
テーブルに卵を置く。
横に、浄めた裁ち鋏。
そして日本刀。
断絶を整える道具。
戦を守りへ変えた刃。
卵が、再び震える。
亀裂が少し広がる。
地球の普通の家の中で、龍が生まれようとしている。
非日常は、特別な場所では起きない。
玄関の鍵を回した、その先にあるのだ。




