間話1−2 血霧
亜嵐の顔が、ふっと曇った。
彼は黙って立ち上がる。
(……人の気配)
暗い廃墟の中。
右手に刀を握り、亜嵐は静かに歩き出した。
おかしい。
この廃墟に、人が来ることなどない。
森の奥深く、ぽつりと取り残された場所だ。
こんなところに現れるのは――
普通の人間ではない。
亜嵐は壁際に身体を寄せ、足音を殺す。
耳を澄まし、気配を探りながら進んでいく。
やがて、廃墟の中心。
天井の高い、静まり返った広い空間に出た――その瞬間。
ヒュッ――。
右から、風を切る音。
暗闇の中、何かが一直線に迫ってくる。
亜嵐は即座に反応した。
剣を構え、滑るように後退する。
――ザッ。
頬に、かすかな痛み。
赤い血が、一筋垂れた。
亜嵐は足を止め、
向かってきた方向を睨みながら、静かに剣を構える。
静寂の中、
刃を構えた金属音だけが、廃墟に響いた。
「ひひひ……」
ねっとりとした笑い声。
「素人くんのくせに、やるなぁ。褒めてあげるよ」
暗闇の奥から、ゆっくりと人影が現れる。
黒い長髪。
黒のパンクジャケット。
首元には、じゃらじゃらとしたアクセサリー。
髪で顔の半分は隠れているが、
口元だけで分かる――余裕の笑み。
「誰かな、君?」
亜嵐が静かに問いかける。
「暗殺者だ。プロの中のプロのなぁ」
男は肩をすくめ、楽しそうに続けた。
「ひひひ……お前暗殺者から嫌われてるぜ?
素人くんのくせに調子に乗った罰、だろうなぁ」
「……君に、僕は何かしたかな」
「ひひひ、俺はただの仕事だ」
男の目が、いやらしく細まる。
「面白いよなぁ?
暗殺者が、暗殺者を雇うんだぜ?」
「俺みたいなプロならともかく、
低レベルな暗殺者は困るってもんだ」
沈黙。
男の口角が、さらに吊り上がる。
「でもなぁ……
一番困るのは、調子に乗った素人だと思わねぇか?」
男の視線が、亜嵐を射抜く。
「――千草亜嵐」
次の瞬間。
ズルリ、と音を立てて、
男の長い髪が異様に伸びた。
鞭のようにしなり、亜嵐へ襲いかかる。
亜嵐はその場で、首をわずかに傾けただけだった。
髪は、彼のすぐ横をすり抜け――
背後の柱を、深々と貫いた。
「……君、自信があるんだね」
亜嵐は、剣を下げないまま言う。
「僕が勝ったら……帰ってくれるかな」
「ひひひ……冗談もほどほどにしろよ」
男の声が、廃墟に響く。
「素人がぁ」
暗闇の中、
二人の視線が、静かに噛み合った。
※
バコン――。
廃墟の中に、破壊音が鳴り響く。
黒い長髪の男――
暗殺ギルド所属の暗殺者、億舵鉄心。
その髪が異様に伸び、刃のようにしなって亜嵐を襲っていた。
亜嵐は走る。
柱を盾にしながら、億舵の周囲を回る。
伸びた髪が柱に突き刺さり、
石が砕け、粉塵が舞う。
「ひひひ……いいねぇ。素人くんにしちゃ、頑張ってる方だぞ」
億舵の声は、終始楽しげだった。
「俺の髪はな、岩を貫く刃になるんだぜ?
お前の身体なんて、簡単に串刺しだ」
「しっかり隠れろ。しっかり怯えろ」
全身の体毛を硬化・伸縮させる。
それが、億舵の異能。
「ひひひ……これが素人とプロの違いだ」
笑い声と同時に、柱が次々と破壊されていく。
その中で――
亜嵐は、静かに億舵を狙っていた。
背後。
亜嵐が、一気に踏み込み、剣を振りかざす。
――だが。
億舵は振り向かない。
髪が、勝手に動いた。
ガンッ。
伸びた髪が、亜嵐の剣を正確に受け止める。
「ひひひ……いいねぇ。もっと工夫しろよ」
「弱者は、弱者らしくなぁ」
その言葉と同時に、
髪がさらに伸び、亜嵐を剣ごと包み込もうとする。
亜嵐は即座に後退した。
「君さ……」
距離を取りながら、亜嵐が言う。
「余裕そうだけどさ。
僕が本気でやってない可能性、考えないの?」
「はぁ?」
億舵は、薄く笑った。
「素人くんが、何言ってんだ」
「そうかい」
亜嵐は、剣を逆手に持ち替え、
刃を地面へ向けた。
「じゃあ――」
静かに、告げる。
「吸え、亜飲」
甲高い音。
刀が脈打ち、異様に膨れ上がる。
血を吸い、
はち切れそうなほど肥大化し――
――バンッ。
破裂音とともに、
赤い霧が廃墟全体を包み込んだ。
「……はぁ?」
億舵は、視界を失う。
「じゃあ、第二ラウンド開始だ」
霧の中から、亜嵐の声。
「君、さっき僕のことを弱者って言ったよね」
声が、近い。
「僕は自分を弱者だと思わないけど……
もし僕より君が弱かったら」
「その場合、君が弱者なのかなぁ」
億舵が舌打ちし、
無差別に髪を全方向へ伸ばす。
柱が砕ける音が、連続して響く。
その瞬間――
「君は、もっと工夫したほうがいい」
耳元で、声。
次の瞬間。
ドンッ。
妖刀が、億舵の腹へ叩き込まれた。
衝撃で、億舵の身体が吹き飛ぶ。
柱を突き破り、
壁に叩きつけられる。
「――ぐはっ……!」
血を吐き、息が荒れる。
だが――
胴体は、切られていない。
壁にもたれながら、億舵は呟いた。
「……峰打ち、か。なめやがって……」
立ち上がろうとした、その瞬間。
亜嵐の刃が、首元にかかる。
「どうだい」
静かな声。
「弱者の気分は」
「てめぇ……!」
怒鳴ろうとした億舵の身体が、
突然、震え出す。
血を失ったように顔が青くなり、
そのまま――意識を失った。
亜嵐は、刀を静かに収める。
「……ふう」
廃墟を見渡し、小さく呟いた。
「ここも、離れたほうがよさそうだね」
そのまま、亜嵐は背を向け、
静かに廃墟を後にした。




