06 浩一報道部鞍替え事件
浩一報道部鞍替え事件。
あの出来事のことを僕たちはそうよんでいる。
あれは僕たちが大学四年の春の学園祭を終えたあとのことだった。
浩一が突然文芸部を辞めて報道部へ転部したのだ。
当時の報道部は自由と正義の守護者を標榜し、たいへんな威勢を振るっていた。部員たちはみなジャーナリストを目指しているような意識の高い人々で、不正や差別を憎み、その記事は厳格で辛辣だった。彼らの意見には教職員でさえ一目置いていて、時には学校の意思決定をも左右することがあるほど。実際その部からは多くの報道関係者が輩出されており、いわば大学のエリート集団と言っても過言ではなかった。
我らが文芸部のような弱小サークルとはわけが違う。将来報道関係を志す学生の入部希望者があとをたたない、人気サークルだ。もちろん誰もが入れるわけではなく、入部には厳しい審査があって、所属できるだけでも名誉なことだった。
そんな報道部から浩一がたびたびスカウトされていたのを僕は知っている。浩一はあの頃から弁舌爽やか、文章も流麗で、頭も切れた。報道部が放っておかぬのも無理はなかったが、彼は報道部からの誘いをいつも断っていた。彼は報道には興味がなかったし、なにより僕と鳴美がいる文芸部から離れたくないからと、常々言っていたのだ。それなのにある日突然、何も言わずに報道部へと転部してしまった。
もちろん僕たちにそれを止める権利はない。彼がそれを望むのなら、それを応援し、背を押してあげるのが友達というもんだ。だけど、一方で寂しくもあった。浩一よ。やっぱり君も栄誉を求めるのだな……。僕たちの手の届かない人間になってしまうのだな……。と。
当時理由は問わなかった。ただの心変わりだと思っていた。恨みもしなかったし、その後も僕たちは同じように教室で机を並べ、一緒に飯を食った。ただ、交わす言葉は少なくなり、沈黙するとき、どこか気まずい空気が生まれるようになった。ほんの少し……ほんの少しだけだけど、彼との間に溝ができたのは、あのときからだった。それを修復できぬまま、結局十年がたち、その溝は年々大きくなりながら今もこうして僕たちを隔てている。
どうして。
あのときのことを思い出せば、今もこうして疑問にさいなまれる。どうして君は、あのとき転部してしまったのだ。報道に興味もなかったのに。その後もその道に進むことはなかったのに。
〇
文芸部の茶髪君……もとい、現文芸部部長、諏訪君にお願いしてアポをとってもらった僕たちは、翌週大学に報道部を訪ねた。
「当時の報道部の先輩と連絡を取りたい……ですか」
「そうなんだ。当時報道部にいた人なら、あの浩一の不可解な行動について何かわかると思ったんだが……」
応対してくれた報道部の部長さんに説明しながら、僕は狭く乱雑な部室を見渡す。それにしても昔とえらく変わったなと思いながら。僕たちのいた頃は、もっと広い部室で、部員も大勢たち働いており、棚も整然としていた。今は……なんていうか、昔の漫画でよく目にする漫画家の仕事場みたいだ。部員も見たところ、彼を含めて三人くらいしかいない。
部長の松本君はメガネをかけ直してから、困ったように頭をかいた。
「うーん。昔の先輩とは交流がないので……。皆さん忙しいみたいですし、今の部は、ご覧の通りですから」
そして自嘲的に笑う。かつての威勢は見る影もない、というのは部員数や部室の見た目だけではないようだ。
脈はないか。別の方面から攻めた方がいいかなと思案をする僕のとなりで、突然鳴美が立ち上がった。
「えー。本当にいないのぉ? どんなひとでもいいんだけどなぁ。思い出せないかなぁ」
彼女は甘えたような声を出して身を乗り出す。その勢いに押されて部長さんは目を丸くする。かわいそうに、真面目そうな彼は戸惑いを隠せない様子で視線を泳がせる。
おいおい、やめてやれよ。彼、困っているだろ。と僕は鳴美の服の袖を引っ張るが、彼女は座ろうとはせず、獲物を狙う猫のようにますます身を低くする。ん? この格好はひょっとして……。メガネ君に視線を移すと、いつのまにかすっかり目が座っている。そうしてしばらく鳴美の胸元を凝視していた彼は、やがて夢から覚めたように晴れ晴れした顔でポンと手を叩いた。
「あ。思い出した。お一人だけ、連絡のとれる方がいらっしゃいます。お求めのことを知っておられるかはわかりませんが……」
メガネ君。気持ちはわかるが、ガン見が過ぎるぞ……。謝意を示しながら、僕は彼と報道部の未来を密かに案じた。
〇
「おい、鳴美。ほんとうにここかなあ。間違いではないか」
出直そうか。という言葉をすんでのところで飲み込みながら、僕はそのさびれた建物を見上げた。報道部を訪ねた翌日。夕闇迫る細い路地には人の姿はなく、ゴミ箱の上で丸くなっていた野良猫が大きなあくびをしてニャーと鳴くばかりだ。報道部のメガネ君から渡された地図を取り出して何度も見直す。彼が唯一知っている、元報道部員の居場所を示す地図。それによれば、たしかにここで間違いないようなのだけど……。
そこは僕の職場の近辺の繁華街。……の外れの裏路地。放置自転車と割れた鉢植えに挟まれた、ぼろいガラス戸の前だった。所々ひびのはいったその引き戸の上にはのれんとおぼしき布切れがぶら下がっている。おぼしき、と言ったのは、数ヵ所破れていて本来のれんに書かれていたであろう単語がよみとれなくなっていたからだ。かろうじて「ー」と「ン」だけがわかる。ひょっとしてラーメン屋か? これで明かりがついてなければ完全に廃墟として素通りするのだが、すりガラスからは明かりが漏れていて入り口の赤提灯にも灯がともっているので、かろうじて営業しているのがわかる。だが来るものを全力で拒んでいる店構えだ。少なくとも僕だけだったら絶対に入りたくない。
「なにたちどまってんの。さあ、はやく入るよ!」
だが鳴美は全く臆することなく戸をひき、その魔窟もかくやの風情だだ漏れの店内へと乗り込んでいった。
店の中に入るなり、生暖かい湯気のようなものに全身包み込まれたかと思うと、刺激で目が開けられなくなった。呼吸も苦しい。皮膚がビリビリする。なんじゃこれは。
「ようこそ。地獄ラーメンに」
目を擦りながら見上げると、すでに数人が座っているカウンターの向こうで髭むくじゃらの男が笑いかけてきた。まるで阿修羅様か閻魔大王だ。ああ。ここは本当に地獄だったか。出口を後ろ手で閉めて退路を塞ぐ鳴美と閻魔様を交互にみやりながら、僕は後悔の念にさいなまれた。




