03 僕を動かしたもの
膨らみかけていた心が、針を指した風船のようにしぼんでいく。牧野の声に反応してしまった僕は、リコーダーに触れかけていた手を下ろして振り向いた。
彼の姿はもう、近くにはなかった。ただ、それとおぼしき男が白い帽子を被った女に腕をとられて歩いていくのが、林の出口付近に小さく見えるだけだった。
気のせいだったのかもしれない。しかししぼんだ風船はもう膨らむこともなく、再びリコーダーに手を伸ばそうという気持ちはおこらなかった。
「どおした。博文君。ほい!」
かまぼこ食え、といわんばかりに鳴美はさらにリコーダーをつきだしたが、僕は餌を拒否する犬のようにそっぽを向いた。
「やめた。やっぱり、吹けないよ」
「なんで。やる気出してたじゃん」
「いくら過去を思い出したって、今が変わる訳じゃない」
そう、いくらリコーダーを吹いたって、懐かしい思い出に浸ったって、今の惨めな生活は変わらない。否定される毎日。後輩にバカにされる、屈辱に満ちた毎日は。
「ええー。そんなことないよ。変わるよ。だから、ほい!」
鳴美はなおも僕にすすめる。僕の気持ちなんか察するようすも見せず。初夏のこの日差しのような明るさで。その無邪気な明るさに、言いようのない苛立ちがつのる。
「いい加減にしろよ!」
僕の声がのどかな遊歩道の空気を裂く。鳴美がつきだしたリコーダーを守るように胸に抱いて目をぱちくりさせる。その姿を見ていることができずに下を向いて、言葉を続ける。
「昨日からお前はなんなんだよ。挨拶文書けとかリコーダー吹けとか。こっちはそれどころじゃないんだよ。何でお前は、今さら僕の前に現れて、そんなことを強要するんだ。嫌だっていってるだろ。もう、放っておいてくれよ」
言いきってから、鳴美の反撃に備えて歯をくいしばった。口喧嘩をするとき、彼女はいつも僕の倍は攻撃してきたから。しかし予想した彼女の切れ味鋭い言葉は、ひとつも返ってこなかった。そのかわりに僕の耳に届くのはただ、頭上から降る葉の優しいささやきばかりだった。
不審に思って顔をあげた僕は思わず息を飲んだ。
鳴美は、微笑んでいた。でもいつもの五月晴れのような微笑みではなく、それはとても寂しそうな、今にも崩れてしまいそうな、その木漏れ日の底で光る瞳から群青色がこぼれてしまいそうな、そんな笑みだった。僕の過去の記憶の中にはない彼女の表情だった。
「どうして、かぁ」
彼女は目を細め、無理にふりしぼったような柔らかい声で言った。
「ごめんね。うまくいえないんだ」
短くそうとだけ言ったその語尾は、風に吹き消されてしまいそうだった。そのあとに何か続けることもなく、彼女はうつむいて僕に背を向ける。そのショートボブの後ろ髪が、僕にバイバイと手を振るようにゆれる。頭上からまた、葉ずれの音が降ってくる。
「なあーんてね」
突然鳴美は元気よく振り返った。スカートがひるがえり、髪の毛が頬に勢いよくあたる。僕にまっすぐ向けられたその顔には、何事もなかったように五月晴れの笑みが戻っていた。
「なんとなくだよ、なんとなく。ふとヒロポンのこと思い出しちゃってサー。どうしてるかなと思って。そしたらたまらなく会いたくなっちゃった。ごねんねおどろいちゃった? 嫌ならいいんだけど。でもいいじゃん書いてよ聴かせてよー。幼馴染みのよしみでさー」
さっきの神妙な様子から一転、彼女はマシンガンのように喋りだした。リコーダーの袋を僕に押し付けながら。意表を突かれた僕は、うかつにも思わずそれを受け取ってしまう。鳴美め、昔は攻撃一辺倒だったのに、成長したな。こんな緩急をつけた技を身に付けていたとは。
「ああ、もう。わかったよ」
僕はついに根負けして袋からリコーダーを取り出した。
「移動するぞ。いつも吹いていた広場の噴水前に」
〇
十年ぶりなので吹き方なんて忘れているかと思っていたら、息を吹き込んだ瞬間、まるでタイムスリップしたみたいにあの感覚がよみがえった。
楽器につけられた唇の震え。胸から流れ出る息の量。穴をふさぐ指の動かし方……。いける。これならあのころと変わらないくらいに演奏できる。
「鳴美。なにがいい?」
「いつもの!」
目の前のベンチに腰かけた鳴美はためらいなく答えた。いつもの、というのは僕がリコーダーを吹くときにいつも一番最初に演奏していた曲だ。いつも何度でも。彼女の大好きな曲。
「よしきた」
そして僕はリコーダーに息を吹き込み、指を滑らせた。澄んだ音が、まっすぐに五月の青空へと流れていく。
一番を吹き終えた僕は同じ曲をもう一番吹いた。そして、二番を終えてからためらいなく三番に入る。吹いているうちに、いつのまにかやめたくなくなっていた。もったいない。もう少し、もう少しだけこの曲を吹いていたい。そんな気持ちに突き動かされて。
「よかったよー。腕は鈍ってないね。さすがヒロポン」
演奏を終えると、そう言って鳴美は手を叩いてくれた。
その笑顔に、学生時代の彼女のそれが重なる。一瞬、ほんの一瞬だけだけど、あのときの気持ちが僕の胸を駆け抜けていく。新緑の葉を揺らすそよ風のように。名をつけることのできない、でも懐かしい気持ちが。
鳴美の拍手に応えて頭を下げながら、僕は思う。過去を思い出したって今は変えられないかもしれない。でも、それはけして無意味なことではないのではないか。過去を思い出す、忘れていたあの気持ちを思い出すことには、今の僕を潤す力がある。それはとても意味のあることなのではないだろうかと。
顔をあげた僕は、リコーダーを握りしめて鳴美に言った。
「なるミン。わかったよ。お前の言う通り書いてみようと思う。挨拶文を」
僕の宣言に、一瞬かしげた彼女の顔が、さらにぱあっと照り輝いた。
「本当に?」
「うん。でも自信はないよ。何を書いたらいいかわからないんだ」
「それは大丈夫。エピソードを探そうよ。そうすれば自ずといい挨拶が作れると思うんだ」
立ち上がった鳴美が片腕を高々と突き上げる。
「よーっし。それじゃあ、エピソード探しに行こう!」
「ど、どこに」
「うーん、わかんない。じゃあ、とりあえずお昼でも食べながら考えよっか」
勝手に決めて、せわしなく広場をあとにしようとする。しかしちょっと歩いてから立ち止まり、彼女は振り返って僕に問うた。
「ありがとう。吹いてくれて。やっぱりダメかと思ったんだ。でも、どうして吹いてくれたの」
「何となくだよ。あと、お前の演説に感動した」
そう答えて彼女を追いながら、しかし僕は違うことを思う。本当はリコーダーを吹きながら、気づいていた。僕がこれを受け取ったのは、そして吹こうと思ったのは、きっと彼女の言った理由に納得したからでもなく、その勢いに負けたからでもないことを。きっと僕にリコーダーを吹かせたのは、鳴美のあの崩れそうな寂しい笑顔だったことを。彼女はうまく言えないと言ったけれど、あの表情がどんな言葉よりも雄弁に語っていた。僕に会いに来たことには、そしてお願いしたことには、何か特別な理由があるのだろうということを。




