02 笛を吹いてよ
「付き合えって、いったい何をするんだ」
「いやー、別にたいしたことじゃないよ。ただ、晴れた初夏のうららかな一日に、懐かしいとこにお出掛けしたくなってねー。一緒に行ってほしいのだ。ほら。ひとりだとさびしいじゃん」
そう、あっけらかんと言って鳴美はニヤリと笑った。これはデートのお誘いとかそんなロマンティックなものではない。付き合いの長い僕にはわかる。何か企んでいる、絶対。
「いやだ。僕はこれから仕事なんだ。お前に付き合ってる暇はない」
危険を察知した僕は、すり寄ってきた猫を追い払うように手を振って歩き出した。今日は休日だけど、これから出勤しようとしている風を装って。
「えー。だって、今日は土曜だよ」
「僕には土曜も日曜もないのだ。今日も仕事。明日も仕事。ああ、いそがしいなあ。大変だなあ」
「ふーん。おつかれ。ポロシャツで通えるとはなかなか楽しそうな職場だね。昨日はよれよれのスーツだったけど、博文君は、ふたつの仕事を掛け持ちしているのかな」
背中にかけられた言葉で立ち止まり、僕は己の服装に目を落とす。なんたる不覚。これじゃあ、これから散歩にいくのがバレバレじゃないか。
「バレバレだよ。休日の朝はお散歩。変わらないねー」
お前、エスパーか。観念の吐息をついて振り向くと、鳴美の大きな目が僕の視線をからめとった。
「そんなに嫌な顔しなさんな。元ミスA大のお誘いだよ。ありがたく受けなさい」
「六位だろ。威張りなさんな」
僕の精一杯の抵抗はさらりと流し、鳴美のやつは満足そうに微笑んでリュックを肩にかけ直した。
「それじゃあ、あたしについてきてもらおうか」
なんだなんだ、僕に何をさせようというのだこの女は。思わず腰を引く僕の頭上で、ウグイスがのんきに鳴く。お出掛け日よりの暖かい日差しを恨めしく思いながら、僕は未練がましくアパートの自室の窓を見上げた。
〇
電車を乗り継いで僕たちが向かったのは、学生時代に利用していた私鉄沿線にある公園だった。
公園といってもその辺にある空き地のようなそれとは違う、広大な緑地公園だ。いろんな野鳥が住みついているうっそうとした林があり、ボート遊びのできる池があり、ゴルフでもできそうなほどの芝生広場がある。学生時代によく僕たちが遊びに来た公園。あの頃と全然変わっていない。
その芝生広場と林の境辺りにあるベンチに腰を下ろした鳴美はリュックから一本の細長い袋を取り出した。
「おい、まさか、ここでこれを吹けっていうのか」
袋の中から出てきたのはリコーダーだった。その口の部分を無造作に僕につきだして、鳴美はためらいなく頷く。
「久しぶりに聴きたくなったんだー。ヒロポンのリコーダー。上手だったじゃん」
「いやだよ、恥ずかしい」
僕は反射的に拒絶する。
「どうして。昔よくここで吹いてくれたじゃん」
座りかけたベンチから立ち上がり、僕はブンブンと首をふる。昔と今とは違う。学生の頃は何というか、若さゆえの怖いもの知らずなところがあった。だから、はたから見たら恥ずかしいようなことでも平気でできたんだ。でも、今は……。
「今は、できない。わかるだろ。若い頃は平気だったことが、人生経験積んでくと……」
「くだらなくて、できなくなる? バカみたい」
リコーダーをしまうと、鳴美はベンチの背もたれに背を預けて、両足を空に投げ出した。
「なんか、変わったね、ヒロポン」
「……変わるさ」
僕は彼女の隣に座ることができずに、その前に突っ立ったまま絞り出すように言った。変わるさ。こんな生活を続けていれば。失敗ばかりで嘲られ、批判され、否定されて。喜びも希望もなくて。そんな毎日を過ごしていれば、変わってしまうさ。
「あのさあ、ヒロポン……」
鳴美は立ち上がると、リュックをしょって僕に微笑みかけた。
「その辺、散歩しようか」
〇
五月の陽光を受け止めた木々の葉が、浅緑色の輝きを頭上で散らしている。風が通りすぎるたびにその新緑の光が明滅し、遊歩道に浮かぶ木漏れ日がゆれた。初夏のよく晴れた休日だけど人はまばらで、東京のど真ん中にあるとは思えないほど静かだ。小鳥の鳴き声と林の木々の奏でる葉づれの音のほうがよほど賑やかだ。
「久しぶりだねー。昔よくここにきてぶらぶらしたよね。あのころと変わんないね」
鳴美が両腕を大きく伸ばして深呼吸をする。僕もうなずいて、隣を歩く彼女と合わせるように、息を大きく吸ってはいた。確かに変わらない。砂砂利を敷いた遊歩道も。遊歩道の両脇からトンネルみたいに空をおおう、林の木々の枝振りも。遊歩道に沿って所々配置されたベンチ。ツツジの植え込み。花壇に咲く名前の知らない黄色い花……。あの頃のまんまのように思える。もう、あれから十年もたつのに。そんな時間は大したものではないかというように。そんな期間はなかったかのように。
「ねえねえ、覚えてる? 二年の時、なんにもないのにサークルの人たちでここで宴会やって、ヒロポンは余興でリコーダーを吹いたの」
忘れかけてたけど、そんなことあった気がする。当時は自分がすごい才能を持っている気がしていて、人前で何の気後れもなくそんなことができた。本当はたいした能力なんかないのに。きっとみんな、内心あきれていただろうに。
「そうだったな。みんな、ドン引きだった」
「ええー。おおうけだったじゃん。みんな喜んでた」
「いや。嘲笑ってたんだよ。調子にのって誰からも求められてないのに下手くそな演奏して。しかもリコーダーって……」
思わず自嘲が口から漏れる。やっぱりくるんじゃなかった。こんなこと思い出して、自分が惨めになるばかりじゃないか。鳴美のやつ。いったいどういうつもりだ。
急に隣が静かになって振り向くと、そこにいたはずの鳴美の姿がない。遊歩道の端にうずくまる彼女の背中を発見し、僕は引き返す。
もう帰ろうよ。そう声をかけようとしたところで彼女は立ち上がった。振り向くと同時に僕につきだされたその手には、白い小さな花が握られている。地面に咲いていた雑草の花のようだ。
「おい、そういうの勝手に摘んじゃいけないだろ」
「あのとき、あなたがもらった花だよ」
そう言って彼女はその花をさらに前に出す。
「あのとき通りかかった夫婦があなたにリクエストをした。つれていた小さなボクちゃんのために、ドレミの歌を。三人ともとても喜んでいた。この花はあのときあの子がお礼にくれたの」
花を受け取った僕を、鳴美はまっすぐに見据えた。相変わらず穏やかに微笑むその顔の、右目周辺に木漏れ日があたっている。その小さな日溜まりの底で、彼女の群青色の瞳が宝石のように輝いていた。
「吹奏楽部の友達がいってた。博文君のリコーダーは特別なのか。あんなきれいな音色はなかなか出せないって。私も、好きだったよ。ヒロポンの吹くリコーダーの音色。特別だと思った。たまにここにきて君の演奏を聴くのが好きだった」
そう静かに言って鳴美は、今度はさっきのリコーダーを差し出した。
「吹いて。これは君のリコーダーだよ」
その袋には確かに、僕の名前がかかれてあった。特別でも何でもない。小学校の頃から愛用していた、安物のリコーダーだ。大学を卒業すると同時に部室の片隅に打ち捨ててしまった、僕のリコーダーだった。
時間が巻き戻る。クラスメイトたちの笑顔。僕のあだ名を呼ぶ、弾んだ声。拍手……。
僕の手がリコーダーへと伸びる。指先が、リコーダーの口に触れる。そのときだった。
「あれ、何やってるんだろ」
「あ。うちの会社の先輩だ。ま、無視していいよ。ダメなやつなんだ、あいつ」
風に流されて耳元をよぎったその声に、僕の手は石になったみたいに固まってしまった。よく知っている奴の声だったから。
「牧野……」




