第一章 精霊世界・ラスティリア②
『トワ。起きてください。トワ』
近くから聞こえる誰かの声。
場所は《アーススフィア》二階の寝室。キングベッドの上で泥のように眠っていたトワは、おもむろに瞼を半分ほど開いた。
そうして寝ぼけ眼のまま、ゆっくりと上半身を起こす。一糸も纏っていない美しい裸体。彼女の豊かな双丘が、ゆさりっと揺れた。
「………?」
未だスイッチが入っていないのか、トワはベッドの上で座ると周囲を見渡した。
壁から飛び出た机に、床に固定された小さな背もたれを持つ回転椅子。右側の壁には組み込まれた大きな書棚とクローゼット。そしてトワが座るキングベッドがある。天井を見上げれば小さいながらも物置小屋もあった。
夫と一緒に使ういつも寝室だった。
「………?」
しかし、その夫の姿がない。
「……ゆーじん?」
トワはベッドから立ち上がり、とことことクローゼットに向かった。
そうして――……。
そろそろケトルに湯が沸き始めた頃。
腕を組んで待っていたユージンは不意に声を聞いた。
「ゆーじーん、ゆーじーん……」
トワの声だ。上階から聞こえてきた。
ユージンは二階の入り口に目をやった。
そして、
「……トワ」
小さく嘆息する。剥き出しの美脚が、パイプ梯子を伝って降りてきたからだ。
そうして、ゆっくりと、彼女は全身を現す。降りてきたのは、下着も履かず、白い素肌の上にユージンのシャツを羽織っただけのトワだった。
「つかれたよぉ。くたくたぁ。ゆーじんがシャワーあびさせてぇ」
うわ言のように、そんなことを呟いている。どうやらまだ寝ぼけているようだ。
ユージンは嘆息しつつも、パイプ梯子まで近づき、降りてくるトワの腰を両手で掴んだ。トワは体を反転させると、「う~」と呻いてユージンにしがみついてきた。
「……トワ」
ユージンは、トワの銀色の髪を優しく撫でた。
「どうした? まだ眠いのか?」
「う~、ねむい~」
ユージンの首に腕を回したまま、うつらうつらと舟をこぐトワ。
「仕方がないな」
そう言って、トワを落とさないようにしっかりと抱きかかえつつ、ユージンはバスルームのある地下への梯子を降りて行った。
「ゆーじんのせいだぁ、ゆーじんがケダモノだからぁ」
「ああ~、それはすまないな。トワ」
苦笑いを浮かべるしかないユージンだった。
そうして十分後。
冷めてしまったが、二人はダイニングキッチンで朝食を取っていた。
トワも目を覚まし、いつものワンピースドレスとタイトパンツ姿に着替えていた。
「……むむ」
トーストを美味しく頂いてから、トワは無念そうに呻いた。
「朝から迷惑をかけた。どうも私は寝起きが弱いみたいだ」
隣に座るユージンの顔を見てそう謝罪する。
「気にしなくていいぞ。トワはまだ睡眠に慣れていないだけさ」
ユージンはそう返した。
「それに元を正せば、俺が無理をさせたということになるんだしな」
「……むむむ」
赤い顔でトワは再び呻いた。それからわずかに視線を逸らして、
「……やっぱり、これは早めに選定が必要か?」
そんなことを呟いている。
ともあれ、トワも目を覚めして朝食も済んだ。
ユージンはコーヒーを口にしつつ、「さて」と告げて本題に入ることにした。
「実はトワに相談があるんだ」
「……ん? なんだ?」
トワがユージンの顔を見やる。ユージンは壁に手を触れた。
直後、無機質だった壁に景色が映し出された。まるで窓のようだが、外の景色の映像を投影しているのだ。
「昨日、俺たちはようやく地上に戻ることが出来た」
そこに映し出されているのは、巨大樹に覆われた森の中の光景だった。
現在、《アトラス》が待機している場所である。一カ月かけて地下の大神殿を踏破し、やっと辿り着いた地上の光景だった。
「……うん」トワは瞳を細めて頷く。
「久しぶりの地上だった。太陽が凄く懐かしくて眩しかった」
万感の想いが溢れるように、トワは言う。
三百年ぶりの地上なのだ。彼女の想いは想像さえも出来ない。
トスン、とユージンの肩に頭を乗せる。
「……ありがとう。ユージン。私を連れ出してくれて」
「……トワ」ユージンは彼女の髪に優しく触れた。
「これからだ。お前はもっと沢山のものに触れて、見ることが出来るんだ」
「……うん」
トワは頷いた。ユージンも首肯してから、コホンと喉を鳴らして、
「さて。俺が相談したいのはこれからのことだ。俺が魔獣狩りなのは知っているな。それも竜狩りを優先している。危険な職業ではあるが、俺はこの仕事を天職だと思っている。だが」
人の精霊素を何よりも好む魔獣は等しく人類の天敵だった。
一体でも数が減れば人々は安堵する。それが最強の竜ならば尚さらだ。ユージンのように故郷を失う理不尽さを味わう者も少なくなる。
魔弾の十三人の一人としても、魔獣狩りは続けていくつもりだった。
だがしかしだ。
「今の俺にはトワがいる。この仕事を続けるべきかと悩んでいるんだ」
日々愛しさが増していくトワを前にして、危険に対する迷いを抱き始めていた。
すると、
「ん? 続けたらいいだろう?」
トワは即答した。
「天職だと思っているのならいいじゃないか。そもそもその仕事をするためにユージンは《アトラス》を求めたのだろう?」
「いや、確かにそうだが、この仕事は危険なんだぞ」
ユージンが困ったように眉根を寄せる。と、
「私のことなら気にするな」
ぽよんっと自分の豊かな胸を力強く叩いて、トワは笑った。
「別に私は知識と技術だけの女ではないぞ。こう見えても荒事も得意だ」
そう告げて指を鳴らした。
その指先には小さな水球が生まれて渦巻いている。
「なにせ、私は大魔法使いでもあるのだからな」
「いや、トワ。あまり堂々と魔法を使わないでくれ」ユージンは小さく嘆息した。
「魔法は今の時代では聖術と名前を変えて、イジュアール聖教が管理しているんだ。聖術を使えるのは高位神官ぐらいなんだぞ」
「え? そうなのか?」
水球を消してトワは眉をひそめた。が、すぐにふふんと鼻を鳴らして、
「それならそれでいいさ。私がわざわざ出張らずとも《アトラス》は最強だ。私の最高傑作だからな。それとユージン。言っておくぞ」
そこで彼女は意地悪っぽく微笑んだ。
「私を大切にしてくれるのは嬉しいが、そもそもお前は事実上、私を攫ったんだからな。強欲なことに、天職も《アトラス》も、この私さえも手に入れるつもりだったんだ。しかも自分の女にまでしてな。そんな全部取りの欲張りな男が今さら日和るな」
そんなことを言うトワに、ユージンは目を丸くするが、
「……はは」
ややあって笑った。
それから、トワをかかえ上げて、正面から自分の膝の上に座らせた。
「そうだな。御伽噺の中からお前を攫うなんて真似をしたのに日和ってたか」
「うん。そうだぞ」トワはユージンの顔を見つめながらニカっと笑った。
「お前は私を攫い、私はお前を選んだ。お前は誰にも負けない。最強なんだ。だから何一つ諦めなくていい。欲張りなままでいればいいんだ。ユージン」
「……ああ。分かったよ。トワ」
ユージンは、トワの細い腰を引き寄せて強く抱きしめた。
守ると誓った彼女の温もりを全身に受け止めつつ、
「そうだな。もう迷わない」
改めて決意を固めて、ユージンはそう告げる。
が、ふと思い出したように眉をひそめた。
「そもそも仕事云々以前にやるべきことがあったな」
「やるべきこと?」
ユージンの腕の中でトワが顔を上げた。ユージンは「ああ」と頷き、
「実はここがどこなのかよく分かっていないんだ」
そう告げる。トワが小首を傾げた。
「そうなのか? ここはユージンが地下に降りてきた場所とは違うのか?」
「ああ。そうなんだ。シド、聞こえるか?」
『はい。お呼びですか。ユージン』
気を利かせて、音声さえも閉ざしていたシドが、ユージンの呼びかけに応じる。
「ここはどこら辺りになるんだ?」
ユージンがそう尋ねると、シドは少し躊躇いつつ、
『恐らくガラジース地方の南西辺りになるとは思いますが、正確な場所までは分かりません。想像以上に星核宮殿が広大でした。それに、まさか、あの大神殿を造ったご当人さまが同行していながら、一カ月も彷徨い続けることになったのも誤算でした』
そう答えた。すると、トワがむっとした表情を見せた。
「むむ。それは仕方がないだろう。私があの星核宮殿を造ったのは三百年も前のことだぞ。特に外殻部なんて星核宮殿を完全起動させたら放棄する区域だ。完全に放置していた場所の構造なんて憶えているはずもないだろう」
『失礼。それはごもっともですね』シドは謝罪した。
『いずれにせよ、地下内で相当な距離を踏破しています。最後は頭上の岩盤を破壊して強引に脱出しましたから、現在地は推測程度でしか分かりません』
「まあ、そういうことだ」ユージンは苦笑を浮かべた。
「地下からの脱出に想定以上の時間をかけてしまったからな。正直、食料も少し心もとない。だからこそ、まずすべきことがあるんだ」
一拍おいて、ユージンは告げる。
「近くにある村か街を探す。それがまず俺たちがすべきことなんだ」




