2.少しずつ見えてきた世界
文章がおかしい、誤字脱字等ありましたら申し訳ございません。
――事態を把握するのに、三か月ほどかかった。
正確な日数は分からないが、少なくとも季節が一つ変わるくらいの時間は経ったと思う。
その間に、少しずつ周囲が見えるようになった。
最初はぼんやりとした光しか分からなかった視界も、今では人の顔くらいなら判別できる。
耳もだいぶ聞こえるようになり、周囲で交わされる会話も少しずつ拾えるようになってきた。
そして、ようやく自分の手を意思通りに動かせるようになった。
――ここで、ようやく現実を受け入れることができた。
俺は赤ん坊に転生したらしい。異世界に行くなら、転移のほうが絶対にいい。
赤ん坊じゃ、状況を把握する前に死ぬ可能性のほうが高い。
しかも、脳が小さいからなのか、少し深く考えるだけですぐ眠くなる。
目を動かすのも一苦労。
手を動かすのも一苦労。
バッドステータスが多すぎる。
赤ん坊というのは、本当に何もできない生き物なんだなと痛感した。
そういえば、少し前から視界の端でチラチラ動くものがあった。
小さな手だ。
最初は自分のものだとは思わなかった。
クリームパンみたいなものが動いているな、くらいにしか思っていなかったのだ。
それが自分の手だと知った時は、さすがに泣いた。
――本当に、俺は赤ん坊になったのか。
……いや。
あれは赤ちゃんだから泣いたんだ。
そういうことにしておきたい。
「〈アルス。ミレ・サ? セリュア=ノア?〉」
声が聞こえた。
少し低く、落ち着いた女性の声。
何を言っているのかは、まだ分からない。
それでも、何かを問いかけられていることだけは伝わってくる。
泣き声以外の声を出そうとしても、思うように出せない。
「……あぅ」
どうにか声を返す。
女性が少し笑ったような気がした。
その方向へ目を向ける。
まだ視界はぼやけている。
けれど、そこに誰かがいることは分かった。
「〈サリエラ=ル・フェリア!〉」
今度は若い女性の声だった。
この声には聞き覚えがない。
顔を近づけて覗き込んでくる。
金色の髪。琥珀色の瞳。
前世では見たことのない色だった。
そして何より――。
この金髪の少女が、俺に母乳を与えてくれている。
アリア。
それが彼女の名前らしい。近くで毎日見ているが、どう見ても十代後半くらいにしか見えない。
前世では、そんな趣味はなかった。
だが、温かさを感じると素直に安心する。
赤ん坊の身体では、邪なことを考える余裕すらない。
「〈アリア。アルス=ミル・セリア〉」
先ほどの女性の声が聞こえた。
この人は、アリアからサリエラと呼ばれていた。
――サリエラ。
それだけは覚えておこう。
そう思った瞬間、腹の奥から急に空腹を訴える感覚が込み上げてきた。
「ふぇ……ふぇぇ……」
自分の意思とは関係なく泣き出してしまう。
すぐにアリアが俺を抱き上げる。
そして――。
……もう、考えるのはやめよう。
腹が満たされていく。
身体が温かくなっていく。
急激に瞼が重くなる。
赤ん坊の身体というものは、本当に……どうしようも――。
そこで、俺の意識は再び眠りへと落ちていった。
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帝都アルベリア 平民区 母屋 サリエラ
「お眠りになられました」
アリアが服を整え、アルスを寝台へ寝かせる。
「そこまで畏まらなくていいわ。これからは、私たちが教会から引き取った養子――アルスとして生きるのだから」
「はい……お義母様」
そうは言っても、慣れるまでにはしばらくかかるでしょう。
私は自分自身にも言い聞かせるように、そう思った。
事実、息子のマルクはアルスに対して、かなり敬意を持って接している。
私自身、貴族の家に生まれた。
亡き夫も貴族家の三男だった。
とはいえ、当主以外の子供は一代限り。
よほどの功績がなければ、その子供たちは平民となる。
私たちは、そういう立場だ。
だからこそ――。
アルスの存在には、どうしても気を遣ってしまう。
少し白髪の混じった髪を撫でながら、私はアルスを見る。
まだ幼い。
何も知らない赤子だ。
それなのに、この子の周囲には妙な緊張感がある。
そんなことを考えていると――。
バンッ!
勢いよく扉が開いた。
「母さん! アリア! 来てくれ!」
マルクだった。
「メルがハイハイをしようとしているんだ! まだ一歳にもなっていないのに、すごいと思わないか? さすが僕たちの娘だ! これは将来……天才に……なる!」
私はアルスのほうを見る。
幸い、起きてはいない。
そして隣を見る。
「……」
アリアが笑顔のまま、マルクを見つめていた。
「……マルク?」
「はい」
「少し声を抑えてくださいね?」
「……はい」
この笑顔がある限り、マルクは自重するだろう。
私は小さく息を吐いた。
本当に、いい義娘を持ったものだ。
窓の外を見る。
木々は葉を落とし始めていた。
冬が近づいている。
そして、この家にアルスが来てから、もう季節が一つ変わろうとしていた。
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帝都アルベリア アルベス宮 大評議の間
大評議の間には、重苦しい空気が漂っていた。
「なんだと? 停戦だと?」
まるで獅子のような風貌の男――レオニクス大公が、向かいに座るベルセリオ侯爵を睨みつける。
「そうです。商人筋から入った情報ですが、まず間違いないかと」
ベルセリオ侯爵は落ち着いた声で答えた。
「シルベスト王国と南方諸王国連合が、停戦したそうです」
「それで? 国境要塞に侯爵本人がいなくていいのか?」
「停戦してすぐに軍を動かすことはないでしょう。それに、もうすぐ冬です。南方とはいえ、兵を集めるには時間がかかります」
「ふんっ。我が獅子王兵団なら冬でも関係ない!」
レオニクス大公が鼻を鳴らす。
武門の名家、レオニクス。
初代帝アルベスとの統一戦争で当時のレオニクス王が一騎打ちに敗れ、軍門に下ったという歴史を持つ。
そのためか、代々武を重んじる家柄だ。
帝国騎士団にも強い影響力を持ち、多くの騎士団長や将軍を輩出している。
「王国も騎士の国なのだから、もう少し気張らぬか!」
「レオニクス大公」
そこで、別の男が口を挟んだ。
一見すると優男。長い銀髪に紫色の瞳。
ローゼンヴァルト大公だ。
「侯爵。今この場で、その話をするということは――何か意味があるのでしょう?」
「もちろんですとも」
ベルセリオ侯爵が薄く笑った。
「停戦の理由が分からないのであれば、わざわざここでお話しする必要もありません」
懐から一枚の手紙を取り出す。
「――こちらを」
侯爵は手紙を円卓の中央へ置いた。
「どうやら、アウレシア皇国がセントラル連邦と同盟を組んだそうですよ」
「っ!」
最初に反応したのはレオニクス大公だった。
バンッ!
円卓が大きく鳴る。
「馬鹿な!」
怒声が大評議の間に響き渡った。
「ありえない! 人類史上主義を掲げる国だぞ! 亜人国家と同盟を組むなど!」
アウレシア皇国。
教皇を頂き、聖騎士を主力とする国。
そして――帝国とは、近年になって因縁を深めている国でもある。
「そもそも、なぜその情報が我々より早く入手できる!」
レオニクス大公が別の男へ視線を向けた。
「ガルディオン! 貴様はこのことを知らなかったのか!」
「申し訳ございません。我が家でも、まだ入手できていない情報です……!」
ガルディオン侯爵が答える。
だが、その顔には明らかな苛立ちが浮かんでいた。
レオニクス大公の娘は、ガルディオン侯爵の正妻。
つまり、この二人は深い繋がりを持っている。
「――っ! 失礼する!」
レオニクス大公が席を立った。
そのまま大股で扉へ向かう。
ガルディオン侯爵も後を追い、同派閥の貴族たちも次々と席を立った。
扉が閉じる。
静寂が戻った。
「相変わらずですね」
ローゼンヴァルト大公が苦笑する。
「まあ、人としてはあそこまで分かりやすいと嫌いではありませんよ。特に……」
紫色の瞳が、こちらへ向いた。
「そこで一言も話さないでいる――アークレイン大公。あなたよりはね」
私は冷めてしまった紅茶を、無表情のまま一口飲んだ。
――帝国の冬は、静かに始まろうとしていた。
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