第32話 先生
ぼくは雷霆を握って走った。
修道院の西の森の向こうは、高い崖になっている。あの崖下の森に捨ててしまおう。
夕暮れどきの光が目に刺さる。
「主よ、逸りめさるな。あの院長とやらは主の長年の保護者でありましょう? あそこを飛び出しても、主には行くところなど……」
「うるさい、黙れ!」
逆光の黒い森の道を抜けると、目の前が急に開ける。
ずっとうしろの方でラキの呼ぶ声が聞こえたけど、今は会いたくなかった。
だって彼女は、ぼくが望んでも得られない平穏な生活を送ってる。
彼女があんなに素直に可愛く育ったのは、親の愛情を受けて苦労なく生きてこれたからだ。
ぼくはいつだって、ほんとは少しラキに嫉妬してた。
妹のようなもの、と自分を納得させてきた。
選べない境遇を比べても仕方ないのに。
ラキは、なにも悪くないのに。
……自分の醜さが恥ずかしい。
涙がオレンジ色に乱反射して、前がよく見えない。鼻がつまって息苦しい。
嗚咽が喉に迫り上がる。
胸が痛くて、耐えられない!
優しかった叔父上が、ぼくを殺そうとした!
信じたかった先生に見捨てられた!
ぼくは、何を信じて生きていけばいいの?
「おまえさえいなきゃ、普通に暮らせてた! 毎日楽しかったのに! 知りたくないこと、知らずにすんだのに!
大っ嫌いだ、おまえなんか! 二度とぼくの前に現れるな!!」
ぼくはトニトルスを掲げて、崖から投げ捨てた。
トニトルスがほの暗い崖の下で小さくガシャンと鳴って、動かなくなった。
……ごめんね。
完全なやつあたりだ。
ぼくが一番知ってる。
彼は何も悪くない。
強いて言えば、うるさすぎただけだ。
……主が決まったとか、なんでみんなに発表しちゃうんだよ。雷の魔剣だし、百歩譲って落雷は許せる。
大鐘鳴らすって、なに?
なんの合格の鐘なの?
商店街の福引きが当たった的な周りへのお知らせ、ほんとに必要あった?
そこだけは納得いかない。
「お気がすみましたか、主?」
「うえっ!?」
崖下に捨てて見おろしてたのに、急に横に現れたよこいつ!?
「二度と顔見せないでって言ったよ、ぼく。
今度こそお別れだ、じゃあねトニトルス!」
ガッシャーン! って何度落としても。
すっ、て戻ってくる!
……なにこれ……!
犬に「取ってこい!」してるみたいでちょっと楽しい……!
「我は二百数十年ものあいだ、あの聖器庫でひとりぼっちでござった。他の魔剣たちが次々と主を得るなか、我だけが孤独でありました」
……トニトルス、それはずるい。
「だから主とお会いしたとき、我は喜びを押さえきれずに爆発させてしまったのですぞ。
このお方が我の主だと、世に知らしめずには、おれなかったのです!」
そんなの、ぼくがいちばん理解できるし、聞いたら追い出せなくなってしまう。
「一度では足りない! 二度でも三度でも鳴らし足りないくらいで……あっ!」
ガッシャーン!
「うん、やっぱりだめだ! 別の飼い主を探しなさい!」
ぼくはまた雷霆を崖下に投げ落としたけど、彼は何度でも戻って来る。
「わははは、楽しいですな、主!! お会いする日をずっと心待ちにしておりました。主と何をしていても我は楽しいっ!!」
くっ。
「……うん、悔しいけど確かに途中で、ちょっと楽しくなっちゃった……」
だってぼくは七歳から戦闘訓練ばかりで、誰かに遊んでもらったことなんか一度もなかった。
「遊びに飽きたら帰りましょう。あの院長とやらいう小童も、心配して肝を冷やしておるはず」
ぼくは、いろんなことに疲れて座り込んだ。
「……ほんとに心配してるなら、すぐにぼくを追いかけて来たはずだよ」
あれから、かなり経った。
日も落ちて薄暗くなってきたけど――――。
……ああ。それでもまだぼくは、どこかで期待を捨てきれてなかったんだ。
ちょっと楽しくなって忘れてたのに。
また涙が溢れてきた!
「ならば試してしんぜようか」
トニトルスは大きな体を振り抜いて、ぼくを崖の下に叩き落とした――――!
えっ?
あれ?
ぼく、主なんだよね!?
(……まあ……いいか……)
(このまま死んだら、楽になれるかも)
(もう、なにも思い悩まずに眠れるんだ)
(……ミュゼ)
夕焼けの紫が綺麗だと思った瞬間。
ぼくの視界は黒い影に包まれた。
抱き締められる感触と、自由落下が強制停止される衝撃が同時に来た。
「大事な客を放り出して来てしまった。俺は多忙なんだ、手間をかけさせるな」
……先生だ。
ぼくを片腕で抱え、崖に突き立てた氷剣を片手でつかんで見おろしてる。
「……どうやって、ここに?」
先生だ!
嬉しくて声が震えた。
「おまえの仮面には、転移陣がついている」
「……?」
「おまえが早死にしないようにだ」
「ぼくが……心配ってこと?」
「ああ。人の倍も手間をかけて育てた、出来の悪い生徒だ。稼ぐ前に死なれては、俺の今までの仕事が無駄になる」
心配だって!!
先生がぼくのこと心配してたよ!!
うん、この際、理由なんかどうでもいい!
先生がぼくを心配して迎えにきてくれたから!
「落ちないように、しがみつけ」
先生は言うと同時に氷剣に跳び乗り、一気に崖上に飛んだ――――!
ぼくは地面に足がついたのを感じたけど、しばらく先生に抱きついていた。
ずっと圧し殺してた感情が、嗚咽になって溢れて、ぼくは号泣してた。
先生は父上のように抱きしめ返してはくれないけど、ぼくが落ち着くまでの長い間、振り払わずにいてくれた。
うれしくて、涙と鼻水がいっぱい出た。
ぼくは、あそこに帰ってもいいんだ!
雷霆の気持ちがわかってしまった!
世界中にこの喜びを叫びたい気分だった!!
☆リュテの反抗期、1日で終了
先生のデレは、ミリ単位




