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第4話 朝靄の中の来訪者

結局、一睡もできないまま朝を迎えた。


窓の外がうっすらと白み始め、鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。

ベッドの端に丸まり、膝を抱えた姿勢のまま、俺はただじっと部屋の天井を見つめていた。少しでも動けば、自分のものではない繊細な身体の存在感が胸を締め付けてくる。それが怖くて、指一本動かすことすらためらわれた。


鏡を見るのが恐ろしい。自分の声を聞くのが恐ろしい。


だが、時間は容赦なく進んでいく。


午前6時半。アパートの前に、見慣れない高級な黒塗りのセダンが静かに停車する音が聞こえた。続いて、階段を上ってくる一定のリズムを刻む靴音が、俺の部屋の前で止まる。


コンコン、と控えめなノック音がドアを叩いた。


「神楽木レン様。ダンジョン庁・特別管理課の白鳥です。お約束のお時間になりました」


ドア越しに聞こえてきたのは、昨夜電話で話したあの落ち着いた女性の声だった。


俺は重い身体をどうにか引きずり、玄関へと向かった。ドアチェーンを外す手が一瞬止まる。このドアを開ければ、もう二度と「ただの男子高校生・神楽木レン」の日常には戻れないのではないか。そんな予感が胸をよぎる。


それでも、意を決して鍵を解錠し、ドアをゆっくりと開けた。


「……おはようございます、神楽木さん」


そこに立っていたのは、ピシッとした黒のスーツに身を包んだ、20代半ばほどの知的な女性だった。綺麗に整えられた黒髪に、細フレームの眼鏡。その鋭い瞳が、俺の全身を静かに観察するように見つめてくる。


「っ……」


俺は無意識に後退り、身を縮こまらせた。


白鳥は俺の姿――朱赤の髪を乱し、ダボダボの男物のスウェットを着た華奢な少女の姿――を一目見ると、優しく目を細め、胸に手を当てて深く一礼した。


「昨夜はお電話で失礼いたしました。改めて自己紹介を。ダンジョン庁・特別管理課の室長を務めております、白鳥アオイ(しらとり あおい)と申します」


「あ……どうも……」


口から漏れ出た声の可愛らしさに自分で自分に嫌気がさし、俺は途中で言葉を濁してうつむいた。


「お辛いところ、朝早くから申し訳ありません。ですが、現在のあなたの置かれている状況は、一刻を争う事態となっております」


「一刻を……争う?」


白鳥は小さく頷き、手に持っていたタブレット端末の画面を俺に見せた。そこには、俺のアパートの周辺地図が表示されていた。


「現在、SNSやネット掲示板であなたの自宅住所が特定されかけています。すでに一部の悪質なゴシップ系配信者や、未知の変異体を狙う海外の不審な組織が、あなたを探し始めています。このままここに留まるのは危険すぎます」


「そんな……俺の家が……!?」


絶句する俺に、白鳥は真摯な眼差しを向けた。


「安心してください。本庁の地下にある医療研究施設は、Sランクダンジョンの侵食にも耐えうる防壁で守られています。そこであれば、報道陣や怪しい追っ手から完全にあなたを保護できます。……行きましょう。あなたの身体の調査と、元の姿に戻るための手がかりを探すために」


「元の姿に戻るための手掛かり」という言葉に、俺の胸が強く跳ね上がった。


「……行きます。お願いします」


俺は最低限の貴重品だけをバッグに詰め込み、ダボダボのパーカーのフードを深く被って、白鳥の後に続いた。


◇


黒塗りのセダンは、静かなエンジン音を立てて早朝の都心を走り抜ける。


後部座席に座る俺の隣で、白鳥は黙々とタブレットを操作していた。車窓の外を流れる見慣れた景色。だが、今の俺には全てが遠い異世界の出来事のように思えた。


「神楽木さん。移動中に、現在の事態の概略をお伝えしておきます」


白鳥が静かに口を開いた。


「まず、あなたが遭遇し、体内に取り込んだあの黒い魔獣ですが……ダンジョン庁の全データベース、さらには国連の国際探索者連盟の記録と照合しても、一切の該当データが存在しませんでした」


「存在しない……? 新種のモンスターってことですか?」


「単なる『新種』であれば、既存の生態系からの突然変異として処理できます。ですが、あの個体から放たれていたエネルギー波形は、従来のダンジョン構造体そのものを書き換えるほどの高次元魔力でした。あれは……ダンジョンそのものが生み出した、異例中の異例です」


白鳥の説明を聞きながら、俺は自分の胸元にそっと手を当てた。


あの時、体の中に流れ込んできた絶大な熱量。細胞の一つ一つが組み替わっていくような激痛。思い出すだけで背筋が凍りつく。


「そして、もう一つ。あなたのチャンネルの状況についてです」


白鳥が提示した画面には、俺の動画チャンネル『レンのまったりダンジョン攻略』のページが映し出されていた。


「登録者数は現在、45万人を突破。あの配信のアーカイブの再生回数は、全世界で1200万回を超えています」


「よ、四十五万……!? 千万再生……!?」


昨夜の数字からさらに跳ね上がっている。桁が違いすぎて、もはやリアリティすら湧いてこない。


「現在、世界中の探索者機関、研究者、そして一般の視聴者があなたに注目しています。『モンスターを体内に宿した未知の存在』であり、同時に『息をのむほどの美少女』。……言い方は悪くなりますが、あなたは今、世界で最も価値のある『コンテンツ』になってしまったのです」


「そんな……俺は、ただのFランクの高校生なのに……!」


「ええ。だからこそ、ダンジョン庁があなたを全面的に保護し、管理する必要があるのです」


白鳥の言葉には、どこか冷徹な官僚としての響きと、俺という個人を心配する人間的な温かみの両方が混ざり合っていた。


「……白鳥さん。俺、本当に元の男の身体に戻れるんでしょうか」


ぽつりと漏らした俺の問いかけに、白鳥はしばらく沈黙を守った。車内を重苦しい静寂が包み込む。


やがて、セダンがダンジョン庁本部の巨大な地下駐車場へと進入していく暗闇の中で、彼女は静かに振り返った。


「確約はできません。ですが……私たちが諦めることはありません。あなたの本当の姿を取り戻すために、あらゆる可能性を試します。……それが、私の責務ですから」


地下駐車場の照明が、車内を白く照らし出す。


重厚なセキュリティゲートが開かれ、俺たちは人類の最先端技術が集結するダンジョン庁の深部へと足を踏み入れようとしていた。


元の姿に戻りたいという切実な願いと、自分の身体に隠された未知の恐ろしさ。

二つの思いに挟まれながら、俺の新しい、そして過酷な現実が幕を開けようとしていた。

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