第3話 世界が騒ぐ夜と、届かない叫び
冷たい洗面所の床に丸まり、どれほどの時間が過ぎただろうか。
窓の外はすっかり闇に包まれ、静まり返った室内には、自分の荒い不揃いな呼吸音だけが響いていた。
鏡の中に映る自分――いや、見知らぬ赤髪の少女の姿を思い出すだけで、吐き気が胃の底からこみ上げてくる。
男として生まれ、16年間生きてきた。
泥にまみれ、バカにされながらも、Fランクの男として自分の足で立ち、生計を立ててきたのだ。それがたった一瞬で、正体不明のモンスターに体を乗っ取られ、性別すらも書き換えられてしまった。
「……ハッ、ハッ……くそっ……」
震える腕で壁を支え、立ち上がろうとする。しかし、男だった頃の感覚で体重を預けると、拍子抜けするほど華奢な膝がガクガクと笑い、再びその場に膝をついてしまった。
自分の体でありながら、全く自分の体ではない感覚。
胸に感じる重みも、背中に垂れる長い髪の鬱陶しさも、すべてが気味悪くて仕方がない。爪を立てて腕を掻きむしりたくなる衝動を、必死で拳を握りしめて抑え込んだ。
その時、リビングの床に投げ捨てていたスマートフォンが、甲高いブザー音を鳴らして激しく振動した。
着信ではない。ダンジョン庁が発行する、緊急事態通報のダイレクト通知音だ。
「……っ」
重い足取りでリビングへ戻り、画面を覗き込む。
画面に表示されていたのは、ダンジョン庁・特別緊急課からの文字と、一通の要請メッセージだった。
『神楽木レン様。本日アナタの配信内で確認された「未確認生命体の体内侵入および不可逆的生体変異」について、ダンジョン庁より緊急確認を行っております。至急、下記の番号へ折り返しご連絡をお願いいたします』
さらに通知をスクロールすると、見知らぬ番号からの着信履歴が何十件も並んでいた。それだけではない。各種SNSや動画プラットフォームの通知は、もはや数字として機能していない。
『新種の魔物を吸収した美少女探索者!?』
『底辺ダンチューバーが一夜にして世界最注目の存在へ!』
『衝撃映像! 少女の体に溶けていく黒い獣の謎とは』
まとめサイトやニュース速報のタイトルが、俺の意志など置き去りにして画面を埋め尽くしている。
世界は湧いていた。盛り上がっていた。
「底辺配信者が未知のモンスターを吸収して絶世の美少女に変化した」という、まるでフィクションのようなゴシップを、エンターテインメントとして面白おかしく消費しているのだ。
「面白がりやがって……! 何が美少女だ……何がバズりだ……っ!!」
俺はスマートフォンを壁に向かって叩きつけた。
激しい音が響き、スマートフォンは床に転がったが、画面は割れずに怪しく光り続けている。その光が、まるで俺の無力さを嗤っているかのようだった。
絶望と怒りで頭がおかしくなりそうだった。
俺が失ったのは、ただの「男の体」じゃない。16年間積み上げてきた自分自身の存在そのものだ。家族を失い、家財を失い、最後に残った「神楽木レン」という自分すら奪われたのだ。
世界中がこの姿を「可愛い」と持ち上げ、「神展開」とハシャいでいる。
だが、その内側で血を吐くような思いで苦しんでいる俺の叫びなど、誰一人として見ていない。
「誰でもいい……助けてくれよ……元に戻してくれよ……っ!」
誰もいない暗い部屋に、甲高い少女の声が虚しく響き渡る。
その時、床に転がったスマートフォンが再び鳴り響いた。
今度は公式通知ではなく、個人からの着信メッセージだ。画面に表示された名前を見て、俺は息を呑んだ。
『白鳥 アオイ(ダンジョン庁 特別管理課)』
ダンジョン庁の人間。それも、探索者の安全や異常事態を専門に扱う部署の人間だ。
俺は這うようにしてスマートフォンを拾い上げ、震える指で通話ボタンをスライドさせた。耳に当てた瞬間、向こうから静かだが、どこか落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
『……神楽木レンさんですね?』
「っ……あ……」
声が出ない。少女の甲高い声で応答するのが怖くて、喉がキュッと縮み上がる。
『突然の事態で、パニックになっているのは百も承知です。……怖かったでしょう』
その一言だった。
ネットの野次馬のように面白がるわけでもなく、ニュースのように事実だけを淡々と述べるわけでもない。ただ静かに俺の恐怖に寄り添うような言葉に、目頭が熱くなった。
「……お、俺……俺は……男なんだ……! なのに……体が……こんな、化け物みたいに……っ!」
溢れ出す感情を抑えきれず、俺はスマートフォンに向かって叫んだ。少女の声で途切れ途切れに発せられる訴えを、電話の向こうの女性は遮ることなく、じっと聞き続けてくれた。
『……ええ、分かっています。あなたの戸惑いも、怒りも、すべて当然のことです。ダンジョン庁としても、この状況を単なる「珍事」として片付けるつもりはありません』
白鳥と名乗る女性は、トーンを落として真摯に語りかけてきた。
『神楽木さん。明日、早朝に迎えの車を出します。ダンジョン庁の専用施設で、あなたの体の詳しい精密検査と、今後の保護についての話し合いをさせてください』
「保護……? 元に……戻せるんですか……? 俺の体……元に戻るんですか……!?」
必死で問いかける俺に、電話の向こうの白鳥は一瞬の沈黙を挟んだ。そして、少しだけ辛そうに言葉を紡いだ。
『……現時点では、分かりません。ですが、私たちが全力であなたをサポートすることは約束します。だから今夜は……どうか自分を傷つけないで、体を休めてください』
通話が切れた。
ツーツーという電子音が、静かな部屋に空虚に響く。
元に戻れる保証なんてない。明日の検査で「不可能です」と告げられるかもしれない。
それでも、ほんの僅かな希望にすがるように、俺はスマートフォンを胸に抱きしめた。
窓から差し込む街灯の光が、姿見の鏡をうっすらと照らしている。
そこに佇む赤髪の美少女は、どこまでも儚く、そして冷酷に「今の現実」を突きつけていた。
俺はこの姿のまま、明日という悪夢の続きを迎えなければならない。
性別を奪われ、世界に見世物として差し出された俺の、長くて暗い夜が始まろうとしていた。
いきなり女の子になってパニックにならない方が異常ですよね( ; ; )




