第16話 敗北の味と、芽生える強さへの渇望
視界を埋め尽くす、真っ白な天井。
微かに漂う消毒液の独特な匂いと、規則正しく一定の周期で響く心電図の電子音。
「……ん」
重い瞼をゆっくりと開けると、ブラインドの隙間から差し込む柔らかい日差しが視界に飛び込んできた。
上体を起こそうと身体に力を入れた瞬間、全身の筋肉と関節にピキリとした鋭い痛みが走り、思わず「くっ……」と小さな呻き声が漏れる。
「あ……急に動いちゃ駄目ですよ、レンさん」
ベッドのすぐ脇から、聞き覚えのある静かな声が聞こえた。
眼鏡のフチをすっと指先で押し上げながら、白鳥アオイがパイプ椅子から立ち上がるところだった。いつも隙のない彼女の表情には、ビジネスライクな笑顔ではなく、どこか心底胸を撫で下ろしたような安堵の色が滲み出ていた。
「白鳥……さん。俺……ここは……?」
「ダンジョン庁の特別医療施設です。全身の不全骨折と深刻な魔力枯渇を起こして倒れましたが、医療班による高位回復魔法の手配と、あなた自身の『核』が持つ異常な自己再生能力のおかげで、なんとか一命を取り留めました。……本当によく無事でいてくれました」
自分の右手を目線の高さまで持ち上げてみる。
白い包帯が痛々しくぐるぐると巻かれた、華奢で小さな手。あの巨獣『漆黒の獄狼』の凶悪な爪を受け止めた際、一瞬で腕の骨が粉砕されたあの恐ろしい感触と衝撃が、今も鮮明に脳裏に焼き付いていた。
「リンちゃんは……!? リンちゃんは無事なの!?」
咄嗟に身を乗り出すと、背中に走る激痛に眉をひそめる。
「安心してください。氷室さんは軽度の魔力酔いといくつかの擦り傷程度で済み、現在は別室のベッドで安静にしています。……あなたが目を覚ますまでずっとベッドの横で泣きじゃくっていたのですが、先ほど少しだけでも横になるよう、私が説得して休ませたところです」
白鳥の言葉を聞いて、胸を締め付けていた強い不安が少しだけ和らいだ。
だが、安堵の直後、俺の心の中には冷たく重い感情がドロリとした固まりとなって広がっていった。
(何も……できなかった)
胸の『核』がもたらす圧倒的な魔力を手に入れ、俺はどこかで慢心していたのかもしれない。
浅層のエリアボスを一人で倒し、配信者としてネット上で大バズりし、世界中から「天才美少女探索者」ともてはやされて。自分はもう、人並み以上に強いんじゃないかと勘違いしていた。
だけど、現実の「深層種」の前では、俺の全力なんて羽虫の羽たたき同然だった。
一撃で短剣ごと叩き潰され、全身の骨を折られ、大事なコラボ相手一人守ることができずに、ただ上位の探索者に救出されただけ。
「……負けたんだ、俺。手も足も出ずに」
ぎゅっと、包帯の巻かれた左手を強く握りしめる。
悔しかった。己の不甲斐なさと、土壇場での無力さが、胸を焦がすように熱く熱く痛んだ。
「神楽木さん」
白鳥が静かで落ち着いた声で呼びかけてきた。
彼女は手に持っていたタブレット端末を起動すると、その画面をこちらへ向けた。
「今回のコラボ配信の結末についてですが……世間の反応は、あなたの敗北を冷笑するようなものではありません」
画面には、あの絶望的な状況の配信を見ていた視聴者たちのリアルタイムコメントや、ネット掲示板の書き込みがまとめられていた。
『あの状況で真っ先にリンちゃんを庇って前に出たの、マジで格好よかった』
『格上の怪物相手に一歩も引かない度胸に泣いた』
『二人とも無事で本当によかった……ゆっくり休んでくれ』
『救助隊が間に合って本当によかった。怪我が治ったらまた元気な姿を見せてほしい』
『レンちゃん、負けるな! ずっと応援してるぞ!』
画面を埋め尽くしていたのは、非難や呆れの声などではなく、俺の身を本気で案じる温かい言葉と、無謀な状況下で仲間を守ろうとした姿勢に対する称賛だった。
「事故発生時、100万人以上の視聴者が、あなたが倒れるその瞬間まで無事を祈り続けていました。そして、あなたのチャンネル登録者数は、今回の騒動を経て200万人を突破しています」
「でも……! 俺は何も守れなかった! 誰かに助けてもらって、ただ運良く生き残っただけだ!」
抑えきれない感情が溢れ出し、俺の声が高く裏返る。
可憐な少女の声で苦しげに叫ぶ俺を、白鳥は否定も肯定もせず、ただまっすぐな視線で見つめ返した。
「ええ、その通りです。今のあなたは、深層の脅威に対して明確に力不足であり、技術も経験も足りていません。……ですが、絶望する必要などどこにもありません」
白鳥は手元のタブレットを操作し、画面を切り替えた。そこに表示されたのは、厳重なセキュリティでロックされた複雑な戦闘データとトレーニングカリキュラムだった。
「あなたの体内にある『核』は、今回の生死を分かつ死線を経たことで、肉体とのさらなる同化を始めています。あなたが『強くなりたい』と強く渇望するほど、その核はより洗練された高密度の魔力を精製し始める。……今回の敗北は、あなたが本当の意味で最強の探索者へ至るための、必要な過程なのです」
「過程……」
「怪我が治り次第、ダンジョン庁が全面バックアップする形で『魔力制御と実戦戦闘スキルの特別訓練』を開始します。指導役には、あなたを救出したSランク探索者をはじめ、最精鋭の陣容を揃えました。……どうしますか、神楽木さん? ここで探索者を辞め、安全な日常へ戻る選択肢も用意されていますが」
白鳥の問いかけに、俺は一秒の迷いもなく答えた。
「やるよ。……絶対に、強くなってやる」
ベッドから脚を降ろし、しっかりと床に足を着ける。全身にまだ鋭い痛みが走るが、そんなものはどうでもよかった。
「男の身体を取り戻すためだけじゃない。もう二度と、あんな思いはしたくないんだ。俺の目の前で、仲間が傷つくのも、自分が無力に叩きのめされるのも……絶対に嫌だ」
朱赤の髪を揺らし、琥珀色の瞳に揺るぎない覚悟の火を宿す。
その時、病室の重厚なドアがバタンと勢いよく開いた。
「レンちゃん……っ! 声が聞こえて……っ!」
涙で両目を真っ赤に腫らした銀髪の少女――氷室リンが、ドアの隙間からこちらを見つめていた。
「リンちゃん」
俺が小さく微笑むと、彼女は堪えきれなくなったように涙をボロボロとこぼしながら駆け寄ってきた。そして、俺の身体を壊れ物を扱うようにそっと、けれど力強く抱きしめてきた。
「よかった……本当によかったぁ……っ! ごめんなさい……私のせいで、レンちゃんが……あんな酷い目に……っ!」
「リンちゃんのせいじゃないよ。俺が弱かったからだ。……でも、次は絶対に負けないから」
ポンポンと、彼女の背中を優しく叩いて宥める。
一度屈したからこそ、心の中の炎はより一層強く、鋭く燃え上がっていた。
無力さを知った少女の真の覚醒と、深層へ至るための地獄のトレーニングが、ここから幕を開けようとしていた。
レンちゃんとリンちゃんって名前似てて読みづらいですよね
すみません




