第9話 魔女の昔語り
地獄に昼夜の区切りはない。
だが永遠に休みなく裁判をするのも、亡者を追いかけまわすのも疲労がたまる。
そもそも地獄の住人は疲労がたまるような肉体をしていないため、あくまで気分的な問題ではあるが。
規則的な休みはない。だが大抵は延々と続く亡者の列に嫌気がさし、裁判を止めて束の間の休憩に入るのだ。
「閻魔様ぁ、あと七百人……」
「年齢別に分けて、若い奴から寄こせ」
「はいぃ」
司命の泣きの入った声に、閻魔は長衣の裾を払いながら座に腰を落とす。
とりあえず罪が軽そうな奴をこなそうと、次から次へと白洲に並ばされる亡者に裁定を下していく。
浄玻璃の鏡を使って生前の行いを映し出し、明らかな罪がある亡者は相応の地獄へと落とし、救済が妥当な場合には極楽浄土へ送る。
罪の重さを業の秤で見極めては、司命が生前の行状を並べ立てる。
時折無駄な抵抗や嘘を吐く者は極卒によって舌を引き抜かれ、裁判の間から追い立てられていく。
「ああ……疲れたな」
一通りの亡者が白洲から掃けたところで、閻魔は常に頭に乗せている礼冠を取りごきりごきりと首を鳴らす。
考えなければいけないこと、やらなければいけないことは多い。
だがふと間があくと、浮かぶのはあの魔女、ミネルバ・マクシールのことを考えている。
ハデスが東獄を訪れて二日、まだ生者の記録を探す小鬼たちから朗報はもたらされていない。
「一度、本人に聞いてみるか」
「何をです?」
呟きを拾い、記録をまとめていた司録が顔を上げる。
手指が黒ずんでいるのは、流れ作業のように進む裁判を必死に書きとめていたからだろう。
もう一人の従者、司命もぐったりとした様相を隠そうともせず、使い終わった罪状記録を小鬼たちに運び出させていた。
気づけば二日ほどぶっ通しで裁判をしていたらしい。
「お前たちは休め。俺は魔女のところに行ってハデスから聞いたことを確認してくる」
「閻魔様はお休みにはならないので?」
喜びを露わにする司録に肘打ちをし、司命が尋ねる。
閻魔は「良い。明日は休みにする」とだけ言って白洲へと足を進める。
後ろで「次の裁判予定者数は……」と確認しだした司命の声を振り切って。
「あら、閻魔様。なんか久しぶり?」
「何をしている」
魔女に貸し与えた小屋の前で、小鬼と魔女が小さな丸太に並んで座っている。
その前には人骨で作られたかまどと網。音を立てて焼かれているのはまるまると太った魚だ。
「エンマサマ!」
小鬼が慌てて立ち上がり、丸太から転げ落ちた。首に巻かれた鎖がじゃらじゃらと派手な音を立てる。
魔女は動じることなく小鬼が立ち上がるのを手伝う。
「ちょっと、ショウちゃんを脅かさないでよね。可哀そうでしょう」
「マジョ、オデ、ダイジョブ」
小鬼にやたらと親切な魔女に閻魔は喉奥に小骨が刺さったように感じる。勝手に名前を付けているのもやや気に入らない。
歓迎しろとは言わないが、顔を合わせる度にいがみ合う必要もないのではないか。
「突然来たのは悪かった。だが話がある」
「え、夕飯食べながらでいい?」
「マジョ……」
小鬼の不安げな声を無視して魔女は細い指先が魚を指さす。魚から脂がしたたり落ちて、じゅわりと音を立てた。
ふと魚に刺さっている鉄串が気になった。長さや色、形にどうも見覚えがある。
「待て。お前、それは針山地獄の針じゃないか?」
「うん。なんか新しいのに付け替えるっていうからもらったの。お魚焼いたり、肉焼くのに便利よ?」
「何を勝手に……」
「あ、ちゃんとこびりついてた血とか肉片は磨いて取って、消毒もしたから」
そういう問題ではない。喉元まで出た言葉は魔女の「よし! 焼き上がった!」という声によって行き場を失い、閻魔はぐっと喉を鳴らして飲み込んだ。
「いただきます」
両手をパンッと打ち合わせ、魔女はちゃぶ台に置かれた魚へと早速箸を伸ばす。
丁寧に骨にそって箸を入れ、身をはがしていく。
手慣れた箸使い。
ちゃぶ台の前に正座をする姿も堂に入っている。
(やはり、東方出身で間違いないか)
小鬼に取ってこさせた酒で喉を潤し、食事を進める魔女を眺める。
「ハデスから、大体のことは聞いた」
「そう。それで?」
「今、生者の記録を調べている」
「ん、分かったわ」
音を立てて汁を啜り、ほっと息を吐く魔女。
もっと動揺するかと思えば、何の変化もない。
閻魔の眉間に皺が寄る。
「何かないのか」
「え? 食べるものが欲しいの?」
箸を止め、魔女が首を傾げる。
「そうではない……」
そうではないが、何を求めていたのか。何を魔女に言って欲しかったのか。閻魔は言葉に詰まる。途方もない時間を生きてきて、こんな場面で言うべきことが分からない。
魔女はかまどで揺れる火に照らされた閻魔の顔をじっと見つめる。
それからおもむろに箸をおき、深く息を吐いた。
「食欲がなくなるから話は後にしたかったんだけど」
そう呟いて手元に視線を落とす。
緩やかに波打つ長い髪が魔女の表情を見えにくくする。
閻魔がじっと魔女の顔を見つめていると、魔女がゆっくりと顔を上げ遠くを見るような目で話始めた。
「……私が生まれ育った家も、こんな感じだった」
土がむき出しの土間、素朴なかまど、ちぐはぐな家具に、欠けた茶碗。
いつ死んでもおかしくないほどよぼよぼの癖して、孫を叱る時だけ元気な爺婆。
常に畑仕事と家事で忙しい両親。
他人に興味のない兄と、常に自分が一番と思っている弟。
その中でなんとか潤滑油のように、自己主張せずに生きていた。
毎日が単調で、変化は乏しく、平和と言うにはあまりに起伏のない生活だった。
「ずっと、そんな感じで生きていけると思ってたのになぁ」
ぼんやりと焦点の合わない瞳で、淡々と語る魔女。
亡者の嘆きに満ちたこの地獄で、あまりに乾ききった瞳に臓腑の裏側が落ち着かない。ハデスが見せた幻影の中で泣いていた女の姿が亡霊となって、今目の前にいる魔女に重なる。
「何が、あった」
ゆるりと首を回し、背景の一つかのように閻魔を見て魔女は「さぁ」と呟く。
「突然で、何が起こったのか……記憶は曖昧で……あの日、弟が欲しいと言ったアケビを取りに山に入って、木に絡まるアケビの蔦を引っ張ったのまでは覚えてる」
秋の暮れ、木々の間からこぼれる光が弱まり、早く家に帰らねばと急いでいた。
弟の我がままはいつものこと。無視すればいい。だが狭い家で一人が不機嫌を巻き散らかすと全員の機嫌が悪くなる。
そして矛先は弟の願いを叶えなかった自分へと向けられる。そうなるくらいだったら、数時間家から離れて森を彷徨うのも悪くはなかった。
そう、家に帰れるのであれば。
「足を踏み外したような、空中に投げ出されたような感覚。それが実際のことなのか、それとも時空間を渡ったからなのかは分からないけど」
気づけば森の中ではなく、冷たい石の上に横たわっていた。
そんな自分を無機質な目で見下ろす男たち。
一目で自分と違う部類の人間だと悟った。
色とりどりの飾りがついた服、火に焼けていない肌、首や耳、指にはまる装飾具、そして見たこともない容姿。
髪の色も目の形も鼻の大きさも、同じ人間のようでいて違う。
さらには耳に届いた音でさえ、理解できる言葉ではなかった。
「気を失って、起きた時にはもう私は人間として扱われることはなかった。知ってた? 地獄って地上にもあるのよ」
面白くもないのに無理に笑う魔女。閻魔は目を伏せてくぴりと酒を口を喉奥に注ぎ込む。
口を閉じなければ、余計なことを言ってしまいそうだった。「泣きたければ泣けばいい」とかそういった類の、この地獄でついぞ発したことのない言葉を。




