第8話 魔女の記録
むき出しの石づくりの部屋で、一人の女が泣いている。
やせ細りぼろぼろの姿だが、強い意志を持ったその目を閻魔は知っている。ミネルバだ。
彼女の周りには幾人ものフードをかぶった人間が立っている。
よく見ればミネルバの両手には重そうな手枷がはめられていた。同じように足枷までも。
捕われて逃げる場所もない彼女を、フードを着た人間たちが押さえつける。
口に流し込まれる液体。肌に刻み込まれる奇妙な紋章。頭上から注がれる動物の生き血。
何かの儀式か。
捧げられるのは、生贄となるのは――ミネルバ?
ふと横を見る。
ハデスはまるで興味がないというかのように自分の顔にシルクハットを乗せ、寝息を立て始めていた。
ため息を飲み込んで閻魔は視線を宙に戻す。
女の周りに薪が積み上げられ、油と思わしき液体が振りまかれる。
それは彼女の上にも注がれた。血と油が混ざり、曼荼羅のように広がっていく。
そして仰々しい装飾を付けた剣を持った人間が進み出る。
女はずるずると這って逃げようとするが叶わない。
剣が薄い体を貫いた。
ガクンッと大きく跳ねる女の体。
剣の重みに引きずられるように、やたらゆっくりと女の体が床に頽れた。
人間が数歩下がったあと、松明が薪に投げられる。
一瞬で燃え上がる炎。
生気を失いつつある女の目から涙が流れる。
その時、一陣の風が吹いて火が掻き消された。
それが止むと同時に現れたのは、シルクハットをかぶった見覚えのあるシルエット、ハデス。
ハデスは手にしたステッキを振りながら、やたら芝居がかったステップで女の前に近づく。
周囲の人間がわめいている。ハデスを呼んだのは自分だと主張しているようだ。
だがそもそもハデスはあんな子供だましの儀式で地上に行くような奴ではない。何か別の理由であそこに行ったはず。
あとで確かめなければと閻魔が考えを彷徨わせているうちに、映像は進んでいく。
ハデスは煩い人間たちを無視して、女に問いかけた。
『どうも、僕、ハデスっていう地獄の番人でーす。ってことで、こいつら、どうして欲しい?』
軟派な口調のハデス。怪しいことこの上ない。だが女はそれを聞いて瞳の力を強くした。
もうすでに虫の息の女の唇が揺れる。声になっていないはずなのに、女の言葉が耳に届いた。
『地獄へ。あいつらを』
『了解。じゃ、貰ってく』
パチンッと指が鳴らされ、その場にいた人間たちが一瞬で消え失せる。
それと同時に燃え盛っていた火も消え、さらには女の体を貫いていた剣でさえも消失していた。
『それじゃ、お嬢さん。いつかまた地獄で会おうね』
バイバーイと手を振ってハデスの姿が消える。
女は呆然としたまま身を起こした。
腹部に手を当てる。大きく切り裂かれた服の内側は全く損なわれていない。
その手足にあったはずの枷すらもない。
ゆらりと女は立ち上がった。
長い髪が肩を流れた。肉付きの悪い足が一歩前に出る。
二歩、三歩と進むたびにその足取りはしっかりとしたものに変わる。
やがて女の姿がその部屋から消えると共に、ゆっくりと空に映し出されていた幻影も色を失っていった。
赤と黒ばかりが広がる地獄の空が何事もなかったかのように広がる。
閻魔は一つため息を吐き、見上げていた首をコキリと鳴らした。
視線を横に移せば、シルクハットがずれてハデスが口を開けて寝ている間抜けな顔が目に入った。
「おい、終わったぞ」
「ん、んあ?」
んごっと鼻を鳴らし、ハデスが体を起こす。
ついでに派手なあくびで流れ出た涙をこすった。
「終わった?」
「ああ、見終わった」
胸糞悪いものだったが、命が暴力で失われるのは地獄では当たり前のこと。それが理不尽なものか、あるいは犯した罪による自業自得かの違いしかない。
ただ舌の上に言い知れない苦みが広がるだけだ。
「つまり、ミネルバ・マクシールはそっちの世界の人間ってことだな?」
過去にハデスが関わっていたのであれば、そういう結論になる。
しかしハデスの返答は予想とは反したものだった。
「残念だけど、ミネルバ・マクシールはうちの魂じゃない」
「は?」
ハデスの短い答えに閻魔は一音で聞き返す。
ハデスは肩をすくめて再び「ないんだよ」と言った。
「何がないんだ?」
「彼女の名前。ミネルバ、えーっと」
「ミネルバ・マクシール」
「そう、ミネルバ・マクシールの名前は西の地獄の出生記録にもないんだ。つまり、彼女は僕の世界の生まれじゃない」
どういうことだ?
声に出さずに閻魔はハデスを凝視する。
ハデスは頭からシルクハットを取り、前髪を撫でつけてまた戻す。
「ただ、奇妙なことがあってね」
ちらりとこちらを見て、もったいぶってハデスは告げる。
「出生記録には無い。それなのに、生者の記録にはあったんだ。僕と出会った頃から十年か二十年経った頃に突然始まる記録が。それは三百年経った今でも続いている」
「……どういうことだ?」
困惑が今度は言葉になって出る。
出生記録にはないが、生者の記録はある。
しかも人間にしては明らかにおかしい寿命で。
「魔女になったのは本物だろうね。恐らくその時に名前を得て、生者の記録にきざまれた。だからこんな世界でも自由に、君や僕の影響を受けずに過ごせる」
よっこいしょと年寄りじみた声と共にハデスは立ち上がる。
閻魔は考え込むようにその場で胡坐を組んだまま彼を見上げた。
一つ、気になったことがある。
「どうしてあの娘を助けた?」
ハデスや閻魔が現世に介入するのは皆無と言っていい。
自分たちが裁くのはあくまで生を全うした亡者だけ。それなのにハデスはあの女の前に現れ、女をいたぶっていた者たちを殺した。そう、死よりも前に裁きを下したのだ。
ハデスは視線を逸らし、何も映していない空に記憶を探るように目を向けた。
「……あの頃、不可解な魂が西獄にいっぱい来て、調査をしていた。戦いで大勢死ぬのはよくある。でもあの時の魂たちは摩耗し、疲弊しきって自分がどういう状態かも判断できないほど狂っていた。原因を調べたら、クソみたいに役にも立たない召喚や魔術が広まっていた」
疲れたため息を吐いて、ハデスは閻魔を見下ろす。
「僕はね、地獄の支配者だ。僕の地獄は永遠の煉獄を楽しむ……ん~、罪、そう、生前の罪を泣き叫びながら許しを請う場所だ。それなのに人間が馬鹿をしたせいで地獄に来るのが弱っちい魂ばかりじゃ楽しめないだろう?」
ぬふふっとわざとらしい笑みを浮かべるハデス。
その態度はいつも通りで、彼の行動の裏にどんな意図があるのかを読ませようとはしない。
だが同じ地獄を治める存在である閻魔は彼の言いたいことが僅かだが分かるような気がした。
ハデスと分かりあえることなど望んでいないから、ほんの僅かではあるが。
「ま、生者の記録にはミネルバの名前はあった。つまり、どういうことか分かるでしょ?」
「それが突然現れたということは、どこかで突然不自然に止まっている記録があるはずだ。こちらの生者の記録を探す」
だが探すのはミネルバという名前ではない。
たぶんどこかにあるはずだ。生まれたのに、幾百年経っても死んでいない名前が。
ミネルバが三百年生きたというのであれば、最低でも三百年以上前。あの映像の女は二十代に届くか届かないかに見えた。それを考慮すればおのずと探すべき記録の範囲は絞られる。
「うん、あとはよろしく」
「ああ。協力感謝する」
律儀に礼を告げる閻魔に、ハデスは口角を上げて笑い、完璧なお辞儀をしてその場から消え去った。




