第10話 魔女の願い
「ハデスに会った後は?」
極力平坦な声音で閻魔は尋ねる。
恐らく誰にも話したことがないであろう魔女の過去を、全てここで吐き出させてしまいたい。
そうすれば、何かが変わる。そう閻魔は思い始めていた。
「ハデスには感謝してるけど……どうなんだろう。感謝しきれないというか」
涙の気配を掻き消して魔女は肩をすくめる。
その意味を探るような閻魔の眼差しに魔女は箸を取り、ブスリと先端を焼き魚に突き刺して豪快にかぶりつき始めた。
小さく「冷めちゃった」と呟きつつ、丁寧さの欠片もないやけっぱちのような食いっぷりで。
「結局は」
むぐむぐと咀嚼した後、乱暴に唇を拭って魔女は言う。
「私はあの世界では異端だったの。魂自体が」
「魂が?」
「そう」
西の世界は肉体ではなく魂を重要視する。
ハデスの地獄が、肉体そのものではなく魂の責め苦を主体とするように。
魔女の魂は時空を超えた際に歪んでしまった。
人としての生涯は引き伸ばされ、生物の理から逸脱してしまったのだ。
「全然死なないなって気づいたのは、五十年くらい経った頃かしら」
ハデスが去ったあと、残された金品を元手にある程度の物資を買い込み、人がいない場所へと逃げ込んだ。
言葉は多少理解できるようになっていたが、人間を信用などできなかったから。
もともと家族と田舎暮らしをしていたおかげで、少しの不便はあったものの苦ではなかった。山に現れる獣よりも、人間の方がよっぽど怖かった。
一年に数回ほど人里に下りて多少の買い物をするくらいはあったが、人との関わりは極力避けて過ごしていた。
自分がおかしいと気づいたきっかけは、雑貨屋で手にした小さな手鏡。
覗き込んだ銀の板に映っていたのは、目の色も髪の色も変化したのに年を取っていない自分の顔。
「あ、私、人間じゃなくなったって思ったわ」
右手で魚の刺さった箸を握ったまま、左手で髪の毛を一房摘まんで目の前に持ってくる。
その色は長く大切に守られ、あめ色になるまで磨かれた貴重な木工細工のような艶がある。
「ただの黒だったんだけどなぁ」
ピンッとはじくように髪から手を放す。
それから先ほどよりも勢いなく魚を食らう。もそもそと小動物のように口を動かし、流し込むように味噌汁をすする。
「それからは、開き直って生きることにした。もう私を知る人もいないし、私はいつ死ぬか分からないし、殺すなら殺せみたいな気持ちで」
人間と関わるのは怖い。でももう自分は人間じゃない。
だったらどこまでが人間じゃないのかを検証しつつ、十年から二十年単位で生活の場を移しながら自分の人生を改めて生き始めた。
「名前のミネルバ・マクシールは出会った人間がくれたの。それまではただの魔女って呼ばれていた」
食べる手を完全に下ろして、魔女の緑がかった瞳が閻魔へと向けられる。
閻魔は盃を揺らし、語られた魔女の人生を思い返す。
世界を渡った女の悲嘆と嘆きと恨みと……それ以外は何だろうか。
飄々とした雰囲気の奥に隠された、魔女の真の望みとは。
それは魔女が地獄に来た時から明らかだった。
――名前を見つけて。
徳利にじかに口を付けて呷る。唇の端からこぼれた酒を腕で拭い、閻魔は魔女を見つめかえした。
「お前は、自分の真の名を、忘れたか」
「ご明察」
風のようにつかみどころのない笑み。
そう、最初から魔女は言っていた。『名は見つかったか』と。
魔女としての名ミネルバ・マクシールではなく、本当の東の世界に生れ落ちた時に与えられた名のことだったのだ。
「ぼんやりと覚えている光景があるの」
魔女の眼差しは閻魔から遠い果てへと伸ばされる。
常に赤と黒を抱く地獄の空から、アキアカネが飛び交う夕暮れの空へと。
「まだ赤子の弟を背負った母が、私の名を呼ぶ姿が。その向こうの山は赤くて、でも私が振り返った畑の先の空は青く晴れていて。帰りたくないって思いながら、私の名前を呼ぶ母の元に駆けて行く。そんな些細な日常の一幕」
誰もが子供の頃に一度は経験したことがあるような、古く懐かしい記憶。
だが鮮やかに彩られた情景から零れ落ちてしまったものがある。
「声が聞こえるの。母が私の名前を呼ぶ声が。なになにちゃんって。私の名前。幼い私ははーいって、返事をして」
魔女の唇が震え、強く引き結ばれる。固く閉じてしまった記憶の蓋をこじ開けるのに疲れ果ててしまったかのように。
「取り戻して。私の名前。そうしたら、私は罰でもなんでも受け入れるから」
閻魔と魔女の視線が交差する。
閻魔はその場に盃と徳利を小鬼に押し付けて立ち上がった。
「言われなくとも」
魔女と初めて邂逅した日と同じ言葉を告げる。
魔女もそれを思い出したのであろう、一つ瞬いて今度こそいつものような朗らかな笑みを浮かべた。
その笑みを見て、閻魔は胸の奥で安堵の息を吐く。
ふとなぜ安堵したのかと自分の心奥深くを覗き込みそうになり、かぶりを振る。知ったとて、意味のないことだ。
「勝手はするなよ」
「はーい」
釘を刺す。それに効果があるかは分からないが、念のため。
軽すぎる返事に閻魔の眼差しが鋭くなると、魔女は肩をすくめて「努力はする」と子供のように唇を尖らせた。
「はいはい。歩き回らないし、獄卒にも迷惑かけないし。大人しくしてます」
「それでいい」
頷き家の外へ出ようとして足を止める。
閻魔を見上げて瞬きをする魔女に言う。
「どうしても暇になったら閻魔殿に来い。裁判に関わらせることはできんが、やることはいっぱいある」
「え? いいの?」
「目の届かないところで変なことをされるよりはいい」
そう、理由は単にそれだけだ。仕事中に呼び出されるよりは、目の届くところに置いておいた方がいい。それだけ。
自分に対して納得させるように頷いて、閻魔は半身振り返る。
「じゃあな」
「う、うん」
何故か呆けている魔女をそこに残し、今度こそ閻魔は小屋から去って行った。
その背を見ていた魔女は不意に「え?」と音を漏らす。
「え……え? 今、笑った?」
口元をほんのわずかに上げただけにも見えた。
だが常に眉間に刻まれた深い溝もなく、目を細めて口元を緩めたあの顔は分類するなら笑顔だろう。
「初めて、見た」
確かめる間もなく行ってしまったけれど。
魔女はもう一度閻魔の表情を思い返し、頬が熱くなるのを感じた。
「うわ、違う。違うって。うん、魚を焼いた炭火が熱かったんだ。きっと」
ぽんぽんと頬を叩いて食卓に戻る。
外では火の消えた炭が柔らかな風を受けてカラリと崩れる音がした。




