第5話 閻魔の痛苦
針山地獄から閻魔殿に戻った閻魔は、獄卒も漂う罪人の魂も吹き飛ばす盛大なため息とともに座にどかりと腰を下ろした。
座卓に広げられた閻魔帳に視線を下し、中断された裁判の続きに入ろうとして――「ああ、もうやめだやめだ」と声を上げた。
「閻魔様?」
亡者の罪を読み上げる従者である司命が問いかける。
「今日はもう終いだ。すべて明日に回す」
「ですが、今日の三百人の裁判のノルマがまだ……」
「明日だ」
それを聞いて、今度は亡者の罪状を記録する従者である司録が口を開いた。
「明日は八百人ほど……」
だが司録の言葉がカチンッと途中で止まる。
閻魔が司録の口を大きな手で鷲掴み、文字通り口を閉じさせたのだ。
「明日、だ」
閻魔とて分かっている。日々多くの死人が裁判へと送られてくることは。
しかしこの不快極まりない気分のまま、延々と続く裁判を執り行うのは不可能。
うっかり間違えて罪刑を一兆年増やしてしまいそうだ。そんなことは公平命題な閻魔の矜持が許さない。
おろしたばかりの腰を上げ、頭上の礼冠を丁寧に取り外して座に置いて裁きの間を後にした。
長い袖を翻して廊下を進む。閻魔が向かうは、すでに亡者へと判決が言い渡され、無用となった閻魔帳が保管されている書庫。
だがそこにたどり着くよりも前に、廊下にまで小鬼たちの声が響き渡った。
「ナイ! ナイ! ミネルバ・マクシール、ナイ!」
「コッチモ、ナイ! ミネルバ・マクシール、ドコ?」
小鬼たちが何度も叫び続けているのはあの魔女の名前。
ミネルバ・マクシール。
このひと月、百年分の閻魔帳をさかのぼってもいまだ見つからない女の名前。
全てを見通すはずの浄玻璃鏡にすら一片の手がかりも映らない。
前代未聞の事態。閻魔が地獄を開いてから、起きたことがないことが今まさに起こっていた。
「見つからんか?」
書庫の入り口に立ち、小鬼たちに声をかける。
「アア! 閻魔サマ!」
「エエ……百三年、サカノボッテ、マダ、ミネルバ・マクシール、イナイ」
「そうか。焦らないで良い。決して見落とさぬように」
「ハイ! 閻魔サマ、オヤサシイ!」
感動に目を潤ませる小鬼たち。
倉庫に一歩足を踏み入れれば、古びた紙と埃の独特な匂いがする。何千年、何万年分の死者の名前が記された閻魔帳。
砂粒の中から砂金を見つけろと言っているようなもの。そんなまさに地獄の作業に苦しむ小鬼たちに、閻魔は心から同情する。
「魔女の生まれた時代が特定できればせめて……」
もう少し手掛かりが欲しい。そのためにはあの魔女と話す必要がある。
ため息を吐く代わりに労いの言葉を落とし、閻魔は閻魔殿のさらに奥へと進む。
うしろから、侍従である司録と司命がひそひそと「明日のノルマは……」やら「亡者を整列しなおさねば」などと話す声を無視しながら。
「閻魔様! お早いお戻りで」
「飯はできておるか?」
「ええ、すぐにご用意いたします」
厨を任せている大鬼がにぃっと牙を見せて笑う。一兆年の時の間に耐性はついてきているが、至近距離で笑われるのはどうにも慣れない。
小鬼たちよりも人間に近い分、逆に違いが際立っているようだ。
「司命、司録、お前たちも食ってくか」
「私は一度記録を確認に戻ります」と司録は答え、司命は「私はご一緒させていただきましょう」と朗らかに言った。
板張りの床に置かれた膳には、荒れ果てて亡者が溢れるこの地獄のどこにあるのかと尋ねたくなるような、色とりどりの食材が使われている。
閻魔はその中から漬物がのった小鉢を手にして、あとは司録に膳ごと押し付けた。
司録が嬉々として肉を頬張る姿を見つつ酒をすする。
頭に浮かぶのはあの魔女のこと。この地獄で閻魔に意見する者など、いや、そもそも意見できるほどの覇気を持った者など数少ない。
「いったいなんであんなのが紛れ込んだんですかねぇ」
腹がくちたところで司録がこぼす。
人骨の楊枝で歯をすきつつ、げふりとゲップまで吐く様は仕事中の鬼面からはほど遠い阿呆面をさらしている。
「あの魔女、確実に西のハデス様管轄じゃないですかぁ? あっちはなんて?」
「ハデスには書簡を送ってある。だが返事はまだだ」
「もう一ヶ月も経つのに、せめて調べ中とでも言ってこればいいものを」
司録の文句を聞きながら、閻魔は徳利から酒を注ぐ。
白く濁った酒を揺らし、思いにふける。
ハデスは閻魔が治める東の地獄、通称東獄とは別の西の地獄、通称西獄を治めている。
あちらにも当然、亡者を管理する手段があるはずと問い合わせてみたのだが、奴からの返事もなくなしのつぶて。
シルクハットをかぶり、マントをはためかせて飄々と地獄を闊歩するハデスの顔が浮かぶ。
あいつが真面目に仕事をしているところを見たことがない。
酒を煽り、閻魔はため息とともに「そのうち、西獄に行く」と告げる。
「あのお方のことですから、それを楽しみに待っていそうですねぇ」
十倍は薄めた酒を口にして咳き込み、涙目で司録は答える。
閻魔は刻まれた深い眉間の皺をさらにぐっと寄せた。
同じ地獄の管理者として幾度顔を合わせても、相容れない相手だ。
こちらの反応を楽しんでいるようにも思える。
ある種、あの魔女と同じような人格だ。どちらも人というくくりを外れてはいるが。
「今日の分のノルマを達成して、計画を前倒しして余裕ができたら行ってくる」
「いつになりますかねぇ」
指折り数えて司録はその余裕が出るであろう日を計算する。それから宙に目をさ迷わせて言った。
「少なくとも二週間はかかりますね」
閻魔は答える代わりに、徳利に直に口をつけてぐびりと酒を呷った。




