第3話 魔女の到来
事の発端は一ヶ月前、この東の地獄に全く似つかわしくない人物が現れたことだった。
「ねぇ、ここは地獄で合ってる?」
上空から聞こえた声に、閻魔殿にある裁きの間に集まっていた全員が顔を上げる。
そこには一人の女が、年季の入った竹ぼうきに横座りして浮かんでいた。
閻魔が油断なく警戒している中、女の乗ったほうきが徐々に高度を下げ始める。
「思った以上に、とても素敵な場所ね」
朱に塗られ、華美さを抑えつつも荘厳さを湛える閻魔殿を見回して女は言う。
シンプルな白いシャツを着、黒のハイウェストのスカートを纏った女は、竹ぼうきから音もなく赤いハイヒールを履いた足を付けた。
白洲に敷かれた玉砂利が微かに音を立てる。
「誰だ、お前は!」
獄卒たちがにわかに騒ぎ立つ。
獄卒の一人は手にしたこん棒を振り上げ、亡者たちにするようにそれを振り回した。
だがそれは女に当たる寸前、極卒の巨体が激しい音を立てて吹っ飛んだ。その先にいた小鬼たちは耳障りな悲鳴を上げて飛びのく。
「なに!?」
「失礼な人。女性にいきなり暴力をふるうのはどうかと思うわよ?」
まったく気にした様子もない女に、裁きの間にいる者たちは獄卒も亡者も揃って動揺を見せる。
唯一、この場の支配者である閻魔大王を除いて。
彼は表情を崩すことなく、手にしていた筆を置き従者の名を呼んだ。
「司命、あの者をここへ」
「はっ!」
命を受け、鬼と人間を半々にしたような容貌の司命は上段から亡者が並ぶ白洲へと降り、魔女の前に立つ。
歪に腰が曲がった司命より、魔女のほうが頭一つ分背が高い。
司命は魔女と目を合わせぬまま僅かに腰を引いて礼を取り、すでに聞こえていたであろう閻魔の指示を伝えた。
「閻魔様がお呼びです。こちらへ」
「ありがとう」
異形の者と対面してもまるで動じず、ほうきを手にしたまま砂利の上をハイヒールで姿勢よく進む。
そして白洲の一番前、上段に座す閻魔を見上げてスカートの裾をつまんで礼を取った。
「お会いできて光栄ですわ、閻魔様。私は魔女のミネルバ・マクシールと申します」
魔女から発せられた名前に、閻魔は素早く手元の閻魔帳に目を走らせる。そこには裁くべき亡者の名が記されているのだが。
「……ないな」
「あら、それは残念ですわ」
とぼけたような声に閻魔の眉が上がった。そこには自分の名は最初からないと分かっていた、という冷静な笑みを浮かべる魔女がいた。
閻魔は胡乱な目で魔女を見下ろし、その正体を探る。
亡者とは違う存在感を放つ女。だが生者であるかと言えば断言はできない。魔女とは人とは違うのだろうか。
「ここは死して亡者となった人間が来る場所だ。なにしに来た」
「それはもちろん、地獄に興味がありまして」
その答えに閻魔は黙して魔女を見つめる。
鋭い眼光に並みの亡者であれば打ち震えるところを、魔女は赤い唇に微笑みを讃えたまま平然と受け止めた。
閻魔はその奥底を見通すように目を細め、言った。
「地獄はただの興味本位で来るような場所ではない」
そして、興味本位で来ることができる場所でもない。そうなると魔女の目的は別にあるはず。
閻魔は両目を細めて魔女を見下ろした。
「目的を言え」
この地獄が閻魔と共に興されて以来、魔女などという存在が地獄に現れたことなど未だかつてない。
もしかしたら西の地獄にはいるのかもしれないが、ここ、東の地獄とは完全に隔たれた場所であり普通であれば行き来できないはずなのだ。この魔女がその普通という分類に当てはまるかどうかは分からないが。
訝しむ閻魔の前で魔女は赤い唇を左右に引き伸ばし、微笑みを深めた。
「私の名前を見つけてちょうだい」
軽やかに笑う声が静まり返った裁きの間に広がる。
畏怖すべき閻魔大王の前でのこの態度。この発言。
従者も獄卒も小鬼も、亡者でさえも不遜すぎるこの魔女を驚愕と共に見つめた。
「すぐにでも」
それでこの異質な存在が地獄から出ていくのであれば。そう考えて閻魔はひと言で返す。
「まぁ、ありがとうございます」
魔女は口元に手を当て、ワンピースの裾を持ち上げて恭しく礼をした。
そして再びほうきに乗ろうとしたところで、閻魔は彼女を引き留めた。
「待て。この地獄で勝手に動くことは許さん。住む場所を与える」
「えぇ、じゃぁ、このお屋敷に住んでいいの?」
裁きの間の後ろに広がる巨大な閻魔殿を見上げて魔女は首を傾げる。
閻魔は太い眉を寄せ、告げた。
「ここではない。それから、俺の許可なしに地獄内を移動するのは許さん。世話役をつける」
「え、面倒だわ」
「すぐに地獄に送ってもいいんだぞ」
「あらあら、公明正大な閻魔様らしくない」
魔女の返しに閻魔が言葉を詰まらせる。
生前の名に基づき、閻魔帳に記された罪状にそって刑罰が決まる。
だが閻魔帳に魔女の名前が載っていない。よって、魔女を地獄送りにすることはできない。それは閻魔が自分に課した法であり、破ることは決して許されない。
ため息を押し殺し、閻魔は指先を魔女へと向ける。
ズズズッと空間が歪み、黒い靄が魔女の手首に絡みついた。
「え?」
靄が消えた後、魔女の左手首がズシッと重くなる。
そこには無骨な黒の輪――見ようによっては手枷にも見えるものがはまっていた。
「なに、これ?」
「念のためだ」
「え、だから、これ、何?」
魔女から慇懃な敬語が取れる。
閻魔は一旦置いていた筆を手に取り、魔女から閻魔帳へと視線を落として興味を失くしたように告げる。
「この地獄に留め置くためのものだ。俺の配下と同じ扱いになる。それを嵌めている限り、他の界に勝手に渡ることはできん」
「あ……そう。ま、それくらいならいいけど」
シャリッと重さのある輪を一瞥して、魔女は肩をすくめる。
そうしてなんやかんや……閻魔の従者であり記録係である司録が一冊の本に収めるべきかと悩むほどの出来事が起こり、今もなお魔女は地獄の空を自由に飛んでいるのである。




